SRKWブッダ著「仏道の真実++」はじめに(2)

(以下引用)
 ところで、仏道を歩むことについての困難さは何に由来しているのであろうか。その困難について、私はしばしば智慧の輪を解くことと似ていると説明することにしている。知っている人も多いと思うが、智慧の輪は解けるということだけが予め分かっていることのすべてであり、ヒントは何一つ与えられない。また、答え合わせの正解手順が示されることもない。そのようでありながら、正しく解ければ正しく解けたと分かるというのである。もちろん、ヒントを与えないことも作者の意図によるものである。

 仏道を歩むことも、これと似ている。予め分かっていることは、人は誰もが覚ってブッダになり得るということだけである。また、修行に関しても具体的な方法論などは何一つ示されない。説かれるのは、「覚るために大事なことは気をつけることである」という程度のことに過ぎない。そして、正しく覚れば正しく覚ったと自ら分かると説かれるのである。ここで、もろもろの如来はもったいつけてヒントや修行法を出し惜しみしているわけではない。余計なことを説かないことが、結局は修行者の利益(りやく)になると考えてのことである。

 しかしながら、これでは修行しようとする人は仏道が何であるのかが分からず、途方に暮れてしまうだろう。ある修行者は、道の歩みを途中で止めてしまうかも知れない。あるいは、覚り(=解脱)など存在しないのだと仏教そのものに疑念を抱いてしまうかも知れない。これは、智慧の輪で言えば「この智慧の輪は解けないというのが答えである」などと誤って判じてしまうようなものである。

 ただし、ある人々がそのような愚見に陥ってしまうことはブッダ達にとっては折り込み済みのことなのである。残念ではあるが、仏縁の無い人が仏道を歩めば、却って自身を害してしまうことになりかねない。それならば、敢えて仏道を歩まない選択肢もあるというものである。その一方で、仏縁ある人々はそもそも愚見に陥ることがなく、余計なことを言わなくてもしっかりと仏道を歩むことを得るであろう。

 智慧の輪は、解けると信じて真摯に取り組めばいつかは解ける。なぜならば、智慧の輪は解けるものだからである。同様に、人は覚ってブッダになることができるのであるということを深く信じて精進する人は、ついには覚りに達する。なぜならば、それが法(ダルマ)だからである。

 もちろん、仏道を歩むことがいろいろな意味で困難を極めることは本当のことである。仏縁があって、実際に仏道を歩もうと志す人であっても、予想外の出来事が起こり仏教に疑念を抱くようになってしまう恐れは付きまとう。また、そもそも仏道は単純な道ではなく、いわゆる英才教育によって覚るわけには行かないという事情もある。仏道修行は、基本的に遍歴修行であり、修行者は紆余曲折を経てついに正しい道を見出すことになるのである。その上で、さらに功徳を積むことによってついに解脱が起こるというものだからである。つまり、一なる道であるが一本道ではない。仏道は、まことに微妙な道なのである。
(以上引用)


*法津如来のコメント

「仏道を歩むことについての困難さは何に由来しているのであろうか。」
それは、智慧の輪を解くことと似ていると説明されています。
私はこのように喩えられた例は知りません。どこが似ているのでしょうか?

また、私は、「仏道は一なる道であるが一本道ではない。」という言葉も気に入っています。

この文章は明日の「はじめに(3)」に続きます。



この記事へのコメント

自分
2020年07月25日 22:44
いい加減やめたら

スマナサーラ長老はこう言ってるぞ

SRKWブッダはこう言ってるぞ

ゴータマ・ブッダはこう言ってるぞ

中村元はこう言ってるぞ

と誰かの紐で生きる生き方

人たらしの生き方

情けなくて見ていられないよ

だから僕は如来だ

みんな認めてる

って

この言葉読んで死なないでね

俺優しくないから