SRKWブッダ著「仏道の真実++」覚りは虚妄ならざるもの

(以下引用)

【覚りは虚妄ならざるもの】

 未だ覚っていない人にとって、覚りの境地がどのようなものであるのかを理解することは難しいであろう。それがこの上もなく素晴らしい境地であると説かれても、それはまだ食べたことのない果物の味を理解せよというに等しいことだからである。

 また、覚りの境地が当人の思い込みに過ぎず、一過性のものであり、あるいは万人共通の境地ではないならば、人々が覚りを目指すことについて二の足を踏み、修行そのものを躊躇することも当然であると言えよう。

 しかしながら、覚りは間違いなく達成可能なことであり、そして虚妄ならざるものである。覚りは、本当に最高の楽しみである。しかも、覚りは持続するものであり、一旦到達すればそれを持続させるための追加の修行など何ら必要とはならない。すなわち、覚った人はこの世で為すべきことを完全に為し終えているのである。

 実際、ブッダはこのことを如実に知っている。私(=SRKWブッダ)は覚ってから18年以上の年月が経過しているが、この覚りは変わることなく継続している。そして、この後も死ぬまでそれが保たれるであろうことも確信している。さらには、数人の弟子達がすでに慧解脱してブッダとなっているが、彼らもまた私と同じ境地に至り住している。このようなことから、覚りが誰においても実現可能で、かつ虚妄ならざる境地であることは確かなことである。

 ところで、修行者が現実に覚りに達するのは、彼が心から「覚りが虚妄ならざるもの」であることを信じたからであることはおそらく間違いない。何となれば、私自身、覚る前にそのように信じていたし、続いて覚った弟子達もこのことを同様に信じて自らの修行を完成させているからである。

 逆に言えば、もし人が覚りが虚ろなものであると考え、そんな境地は存在しないと見なすならば、彼が覚ることはついにないであろう。正しい信仰のある人だけが、ついに覚る。これはおそらく間違いないことである。

 したがって、真のしあわせに至ることを望む人は何よりもこの事実を信じなければならないと言えよう。そして、この事実を信じる人が仏弟子と呼ばれるのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この文章の肝は、「修行者が現実に覚りに達するのは、彼が心から『覚りが虚妄ならざるもの』であることを信じたからであることはおそらく間違いない。何となれば、私自身、覚る前にそのように信じていたし、続いて覚った弟子達もこのことを同様に信じて自らの修行を完成させているからである。
 逆に言えば、もし人が覚りが虚ろなものであると考え、そんな境地は存在しないと見なすならば、彼が覚ることはついにないであろう。正しい信仰のある人だけが、ついに覚る。これはおそらく間違いないことである。」です。

このことは間違いないことです。私もこのように信じていました。また、今年の6月北海道に行って石法如来にあって直接話したとき、この事を確認しました。

では、何故このように信じることができたのかと問われれば、因縁によるとしか言いようがないのです。

しかし、このように信じることができなくとも、あわてたり、落胆する必要はありません。すこしでもこのことを信じたいという気持ちがあるならば、いずれ因縁により、そのようになるのです。

私の場合は、10代のころ、覚れるものならば、覚りたいという気持ちがありましたが、紆余曲折があり、75歳で覚ったと自覚したのです。あわてる必要はありません。


SRKWブッダ著「仏道の真実++」真のしあわせ

(以下引用)

【真のしあわせ】

 人生の最高の目的とは、「一生をしあわせに過ごすこと」であると言ってよいであろう。

 そして、それは実際に為し得ると断言できることである。

 ここで、真のしあわせについて述べておきたい。それは、

 「過去のことを後悔して思い煩うことが無い」
 「現在について一切の愁悲苦憂悩を滅している」
 「未来について不吉なことが無い」

境地を指している。

 なお、この境地が間違いなく真のしあわせであることは、実際に覚ったときに分かることである。同時に、これ以外には真のしあわせは存在しないことをも知ることになる。また、このしあわせの境地がその後もずっと続くであろうことも確信される。そこで、先のように断言し得るというわけである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

参考までに、ウィキペディアの「幸福論」から、「主な幸福論の特徴」を引用します。

(以下引用)
アリストテレス
『ニコマコス倫理学』
幸福とは快楽を得ることだけではなく、政治を実践し、または人間の霊魂の固有の形相である理性を発展させることであるとして、幸福主義をとなえた。

エピクテトス
『語録』
己の力の及ぶものと及ばないものを識別し、自己抑制をもって生きることを説く。

スピノザ
『エチカ』
物事を永遠の相のもとで見ることが幸福(神に対する知的愛)への道であるとする。

ショーペンハウエル
『幸福について』
目先の環境に振り回されるのをやめ、すべては空しいと諦観することで精神的落ち着きを得るべきである。世俗的な幸福の源泉を人のあり方・人の有するもの・人の印象の与え方に大別した上、肝心なのは「人のあり方」であるとする。
『意志と表象としての世界第四部』
自他の区別を去った意志の否定を説く。

アラン
『幸福論』
健全な身体によって心の平静を得ることを強調。すべての不運やつまらぬ物事に対して、 上機嫌にふるまうこと。また社会的礼節の重要性を説く。

ラッセル
『幸福論』
己の関心を外部に向け、活動的に生きることを勧める。

ヒルティ
『幸福論』
神のそば近くあることが永続的な幸福を約束するとする宗教的幸福論。

福田恆存
『私の幸福論』
不公正な世の現実を見据え、弱点を弱点と認識した上でとらわれなく生きること。望むものを手に入れるために戦い、敗北しても悔いないこと。

(以上引用)

これらの思想家・哲学者の幸福論と比較して、SRKWブッダの説く「幸福論」が卓越して、明解であることがわかるでしょう。

最後に、ゴータマ・ブッダの幸福論をスッタニパータ(ダニヤ経)から引用します。
https://76263383.at.webry.info/201602/article_15.html

34 師は答えた、「子のある者は子について憂い、また牛ある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのない人は、憂うることがない。」



SRKWブッダ著「仏道の真実++」衆生の本質

(以下引用)

【衆生の本質】

 本当に誰もが覚り得るのか?

 読者が心から知りたいことは、この一点に集約されるかも知れない。

 答えを言えば、

 「本当に誰もが覚り得る」

と言うことになる。

 そして、このことは読者が衆生であるということを基礎にしている。要するに、衆生は覚って仏になることができ得るということである。

 ところで、もろもろの如来は誰もが覚り得ると説くが、誰もが覚るとは説かない。これは、覚りが画一的なことがらではなく微妙なことがらであることに由来している。

 すなわち、誰が覚るかは仏にも予見できないということである。逆に、この人は現世では決して覚らないだろうなどと断言することもできない。したがって、この瞬間に誰が覚ってもおかしくないし、しばらくの間は、——たとえばこの後数百年間は——誰一人として覚らないかも知れない。要するに、覚りの可否成否を予め知ることはできないということである。ゆえに、もろもろの如来は「誰もが覚り得る」という言い回しをするわけである。

 なお、もろもろの如来が「誰もが覚り得る」と断言して説くのは、絶対に覚れない人など存在しないことを知っているからである。そして、これは覚りが解脱と同義であることによっている。すなわち、解脱とは、衆生が心に保有するこの名称と形態(nama-rupa)が脱落・終滅することに他ならないからである。つまり、解脱とは何かを身につけることではなく、心を覆う余計なものが脱落・消滅することなのである。したがって、人であれば誰もが、原理的には解脱し得ることになる。

 また、この事実があるゆえに、もろもろの如来は相手を選別することなく世に広く理法を説くのである。そして、このことは、覚りにおいて特別な素質や才能など存在していないことを意味するものでもある。

 例えば、蜂の社会では女王蜂がすべての生みの親であり、働き蜂はすべて女王蜂の娘である。時を経て、一族の総数が多くなり分家を考える時期が来ると、女王蜂は王台を作り分蜂するための新しい女王蜂を育てることになる。このとき、育てる女王蜂は働き蜂の中から無作為に選ばれるのである。その娘を王台に入れ、ローヤルゼリーを与えることで女王蜂に成長することを得る。要するに、女王蜂になるための特別な選別は行われず、適当に選んだ娘を王台に入れてローヤルゼリーさえ与えれば女王蜂に育つことが分かっているということである。

 同様に、人は誰もが覚ってブッダとなり得るのである。なぜならば、同じ人類だからである。ここで、ローヤルゼリーに当たるのが「法の句」である。これを耳にして、その真実を理解できれば誰であろうが解脱が起こる。これが覚りの全貌である。もちろん、読者もその一人になり得るということである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この文章は不思議な文章です。

まず、「衆生の本質」について、誰が興味を持つだろうかという点にあります。

しかも、その書き出しは「本当に誰もが覚り得るのか?」です。

確かに、この問いならば、「仏道の真実++」の読者ならば、興味があるでしょう。

「衆生の本質」と「本当に誰もが覚り得るのか?」の関係が重要なのです。

「衆生の本質」がわかることによって「覚り(=解脱)の本質」がわかるのです。

なお、文中の「名称と形態(nama-rupa)が脱落・終滅」や「法の句」については、おいおい明らかになってくるでしょう。






SRKWブッダ著「仏道の真実++」人生の意味

(以下引用)

【人生の意味】

 人は、漫然と生きているわけではない。何となれば、誰もが自分が生きていく意味を知りたいと思うからである。すなわち、ただ生まれ、生きて、死んでいくだけの存在であるとは思いたくないということであろう。

 しかしながら、人生の意味を見出す人は少ない。そもそも、人生に特別な意味など無いという意見が大勢を占めているに違いない。そして、実のところその意見は基本的には的を射ている。確かに、人生は何かを為し遂げるために存在しているわけではないからである。

 ただし、この世には自分の人生をしっかりと意味づけることを得た人が存在する。それは、覚った人、すなわち解脱者である。逆に言えば、覚って初めて人生の意味づけが本当の意味で為されるということである。彼は、自分が何者であるかということを知っており、この世の真実を完全に把捉し理解している。彼には一切の疑惑は存在しない。

 もしも読者が、人生の意味を本当に知りたいと思うならば、覚る(=解脱する)しかない。そして、実際にそれを達成したとき、それだけでなくこの世のすべてが明らかとなるであろう。

 未だ覚っていない人は、眠っているが如くである。彼は、迷妄と妄執の中に生きていて、この世の真の姿を知らずにいるのである。覚って初めて、心を覆うものが消失し、この世の本当の有り様を見ることを得る。そこで、覚った人を目覚めている人とも呼ぶのである。

 なお、覚ることは本来、決して難しいことではない。志のある人が仏道をしっかりと歩むならば、必ずやそれを達成することができるであろうからである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この文章の要約は次の通りです。

人生の意味を見出す人は少ない。そもそも、人生に特別な意味など無いという意見が大勢を占めているに違いない。

確かに、人生は何かを為し遂げるために存在しているわけではないからである。

ただし、この世には自分の人生をしっかりと意味づけることを得た人が存在する。それは、覚った人、すなわち解脱者である。逆に言えば、覚って初めて人生の意味づけが本当の意味で為されるということである。

なお、覚ることは本来、決して難しいことではない。志のある人が仏道をしっかりと歩むならば、必ずやそれを達成することができるであろうからである。




SRKWブッダ著「仏道の真実++」人生観

(以下引用)

【人生観】

 人生を歩むとは、生まれ、育ち、学び、伴侶や友人を得、金銭を手に入れ、財物を所有し、幸福を求めて日々を生きることであると言えよう。そして、仏道を歩むとは、覚りへの求めを生じ、発心し、功徳を積み、善知識を得て、この世の最上たるしあわせの境地に達して住するということに他ならない。

 さて、ここで仏道を歩むことが人生の歩みそのものとなる人がある。彼は、もちろん自分自身でその生き方を選んだわけであろうが、その人生の選択は称賛に値するものである。何となれば、人生においてこの選択を為す人は本当の意味で慧眼のある、世に得難い人だと言えるからである。

 このとき、別に世俗を離れることを考える必要はない。何となれば、いわゆる在家であっても何ら支障なく仏道を歩むことができるからである。すなわち、仏道を歩むことと生活の糧として職業を持つこととは、互いに排他性の無い、独立なことがらであると言えるからである。

 もちろん、彼は片手間に仏道を歩んでいるわけではない。ある意味では自分のすべてを賭けて、心底から仏道を歩む気持ちを起こしているのである。すなわち、彼はしあわせの境地たるニルヴァーナに至ることを人生の目標としているのである。

 このような人生を送る人は、すでにそれだけでしあわせであると言えよう。彼は、楽しみと栄えとともに修行生活を送り、ついにはしあわせの境地たるニルヴァーナへと到達するであろうからである。そして、万が一、ニルヴァーナに到達することができなくてもその人生は豊かな道の歩みとなるであろう。

 読者は、その一人である可能性が高い。もしそうであるならば、すでに仏道を見出して歩んでいるかも知れない。そのような人のために、私は本書を書いた。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この文章の要点は、「人生を歩むとは、生まれ、育ち、学び、伴侶や友人を得、金銭を手に入れ、財物を所有し、幸福を求めて日々を生きることであると言えよう。そして、仏道を歩むとは、覚りへの求めを生じ、発心し、功徳を積み、善知識を得て、この世の最上たるしあわせの境地に達して住するということに他ならない。」ということです。

その上で、仏道を歩むとき、私が誤解しないでほしいと思うことは、「別に世俗を離れることを考える必要はない。何となれば、いわゆる在家であっても何ら支障なく仏道を歩むことができるからである。すなわち、仏道を歩むことと生活の糧として職業を持つこととは、互いに排他性の無い、独立なことがらであると言えるからである。」ということです。




SRKWブッダ著「仏道の真実++」はじめに(3)

(以下引用)
・・・・・
 さて、本書はこのような修行者にありがちなことがらを鑑み、仏道を歩むことについての真実を述べたものである。これは、修行者が道の歩みの真実を知ることによって修行途中に起こる種々様々な困難を乗り越えることを得、自分は覚れないのではないかなどという馬鹿げた疑念を払拭することに役立つと考えたことによる。

 そうは言っても、仏道の真実には世間の常識や概念を超えたものが含まれており、普通の人々にとっては理解し難いものであろうことは目に見えている。このため、電子書籍として上梓した前著では敢えて高弟向けの著作物であることを明記し、仏縁がとくに深い修行者にのみ供することを考えたものである。本書も、基本的にはその流れにしたがっており、難解さは否めないかも知れない。しかしながら、今回、同書を紙の書籍として上梓するに当たり、一般の人々にもこの一なる道の真実が多少なりとも理解できるように再編集することを思い立った次第である。

 このような経緯から、本書の基本的な構成は既刊の電子書籍版に倣っているが、より一般向けの内容とするために前著よりも仏教全般に亘る広範なものとなるように章立てを増補している。また、本書では女性の修行について一章を設け項目ごとに説明を加えている。この項目は、世間一般において女性らしいキーワードとしてしばしばフォーカスを当てられている単語やセンテンスをピックアップして並べたものである。このようにした理由は、本書を手に取った女性たちが、仏教は難しいことだけを説くものであるという不当な感想を抱かないで済むように、より取っつきやすい項目を個別に設けたいと考えたことによる。そして、この章でとくに言いたかったことは、覚りは女性も男性も基本的には同じように達成可能なものであり、性差に関係なくこの世の最上のしあわせをつかむことができるということである。もし、仏教では女性はしあわせにはなれないなどと誤って思い込んでいる人があるならば、そのような人にこそ本書を読んで戴き、その誤解を解いて欲しい。

 仏道は、基本的に誰にでも歩むことができる平らかな道であり、誰もが覚ってブッダになり得る道である。その真実を真実に語るために、本書を著した次第である。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この文章の要約は次の通りです。

「仏道の真実には世間の常識や概念を超えたものが含まれており、普通の人々にとっては理解し難いものであろうことは目に見えている。」

「しかしながら、今回、同書を紙の書籍として上梓するに当たり、一般の人々にもこの一なる道の真実が多少なりとも理解できるように再編集することを思い立った次第である。」

「また、本書では女性の修行について一章を設け項目ごとに説明を加えている。」

「仏道は、基本的に誰にでも歩むことができる平らかな道であり、誰もが覚ってブッダになり得る道である。その真実を真実に語るために、本書を著した次第である。」



SRKWブッダ著「仏道の真実++」はじめに(2)

(以下引用)
 ところで、仏道を歩むことについての困難さは何に由来しているのであろうか。その困難について、私はしばしば智慧の輪を解くことと似ていると説明することにしている。知っている人も多いと思うが、智慧の輪は解けるということだけが予め分かっていることのすべてであり、ヒントは何一つ与えられない。また、答え合わせの正解手順が示されることもない。そのようでありながら、正しく解ければ正しく解けたと分かるというのである。もちろん、ヒントを与えないことも作者の意図によるものである。

 仏道を歩むことも、これと似ている。予め分かっていることは、人は誰もが覚ってブッダになり得るということだけである。また、修行に関しても具体的な方法論などは何一つ示されない。説かれるのは、「覚るために大事なことは気をつけることである」という程度のことに過ぎない。そして、正しく覚れば正しく覚ったと自ら分かると説かれるのである。ここで、もろもろの如来はもったいつけてヒントや修行法を出し惜しみしているわけではない。余計なことを説かないことが、結局は修行者の利益(りやく)になると考えてのことである。

 しかしながら、これでは修行しようとする人は仏道が何であるのかが分からず、途方に暮れてしまうだろう。ある修行者は、道の歩みを途中で止めてしまうかも知れない。あるいは、覚り(=解脱)など存在しないのだと仏教そのものに疑念を抱いてしまうかも知れない。これは、智慧の輪で言えば「この智慧の輪は解けないというのが答えである」などと誤って判じてしまうようなものである。

 ただし、ある人々がそのような愚見に陥ってしまうことはブッダ達にとっては折り込み済みのことなのである。残念ではあるが、仏縁の無い人が仏道を歩めば、却って自身を害してしまうことになりかねない。それならば、敢えて仏道を歩まない選択肢もあるというものである。その一方で、仏縁ある人々はそもそも愚見に陥ることがなく、余計なことを言わなくてもしっかりと仏道を歩むことを得るであろう。

 智慧の輪は、解けると信じて真摯に取り組めばいつかは解ける。なぜならば、智慧の輪は解けるものだからである。同様に、人は覚ってブッダになることができるのであるということを深く信じて精進する人は、ついには覚りに達する。なぜならば、それが法(ダルマ)だからである。

 もちろん、仏道を歩むことがいろいろな意味で困難を極めることは本当のことである。仏縁があって、実際に仏道を歩もうと志す人であっても、予想外の出来事が起こり仏教に疑念を抱くようになってしまう恐れは付きまとう。また、そもそも仏道は単純な道ではなく、いわゆる英才教育によって覚るわけには行かないという事情もある。仏道修行は、基本的に遍歴修行であり、修行者は紆余曲折を経てついに正しい道を見出すことになるのである。その上で、さらに功徳を積むことによってついに解脱が起こるというものだからである。つまり、一なる道であるが一本道ではない。仏道は、まことに微妙な道なのである。
(以上引用)


*法津如来のコメント

「仏道を歩むことについての困難さは何に由来しているのであろうか。」
それは、智慧の輪を解くことと似ていると説明されています。
私はこのように喩えられた例は知りません。どこが似ているのでしょうか?

また、私は、「仏道は一なる道であるが一本道ではない。」という言葉も気に入っています。

この文章は明日の「はじめに(3)」に続きます。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」はじめに(1)

「感興のことば(ウダーナヴァルガ)」の解説を終えて、このブログの来し方を振り返ると、ダンマパダの解説を三度ほど繰り返し、スッタニパータの解説を一回半ほど行い、SRKWブッダのホームページの「正法」「善知識」「素質」「理法」「感興句」の解説を行い、その後「感興のことば(ウダーナヴァルガ)」の解説を行ってきました。

その間、年号は平成から令和に変わりました。その年2019年には、SRKWブッダが指導された四名の弟子たちが解脱知見を得て、四名の如来が誕生しました。

SRKWブッダは2019年12月2日に「覚りの境地(2019改訂版)」、2020年3月30日に「ブッダの世界観」、2020年6月29日に「仏道の真実++」と矢継ぎ早に発行されました。

この三冊は21世紀の仏教経典というべきもので、新時代にふさわしい仏道の真実を説くものです。

私としては、これらの三冊から、今回は一番最近の「仏道の真実++」を解説を思い立ちました。解説と言っても、付け加えて解説すべきことは少なく、むしろこの内容を、わたしのブログを通じて、広く世に伝えたいと思っています。

ということで、「仏道の真実++」の文章を毎日少しずつ引用します。

(以下引用)

はじめに(1)

 本書は、拙著『仏道の真実』(電子出版:パブー)のいわば完全版である。前著では、高弟に向けて敢えて簡潔に書いたため一般の読者にとっては難解なものとなっていたに違いない。本書は、それぞれの文章を詳細化しつつ平易な説明や具体例、比喩などを加え、分かり易くしたつもりである。

 さて、仏道とは一言で言えば普通の人が覚ってブッダになるための道程のことである。そして、その道は幾つもあるわけではなく基本的には一筋の道、すなわち一なる道であると説かれるものである。したがって、修行者はこの道にしたがってまっすぐに歩みさえすれば、無上のしあわせの境地である覚りの境地(=ニルヴァーナ)に到達することを得るということである。

 ならば簡単ではないか。気が早い人は、そのように思うかも知れない。ところが、実際に仏道を歩むことは決して容易なことではない。その理由は、人々(衆生)がいろいろな勘違いをしていて、そもそも仏道を見出すことができずにいることが大きい。また、仏道を見出したとしても今度はこの一なる道を歩むことに困難が伴うのである。人々はともすれば道を逸れ、極端な場合には道を踏み外してしまう。簡単そうで難しい。それが仏道なのである。
・・・・・

(以上引用)


*法津如来のコメント

「仏道の真実++」の「はじめに」は6ページになりますので、「はじめに(1)」、「はじめに(2)」、「はじめに(3)」と3回に分けて引用します。

これがもどかしいと思われる方は、是非「仏道の真実++」をアマゾンなどで購入されて、一気にお読みになることをお薦めします。電子書籍でも購入できます。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ)まとめの句

まとめの句 
(1)無常と(2)愛欲と(3)愛執と(4)はげみと(5)愛するものと、(6)戒しめと(7)善い行いと(8)ことばと(9)行ないと(10)第10として信仰と(11)道の人と(12)道と(13)尊敬と(14)憎しみと(15)念いをおちつけてと(16)さまざまなことと(17)水と(18)花と(19)馬と、第10に(20)怒りと、(21)如来と(22)学問と(23)自己と(24)広く説くと第5に(25)友と(26)安らぎ(ニルヴァーナ)と(27)観察と(28)悪と(29)ひと組みずつの章と(30)楽しみと(31)心と(32)修行僧と(33)バラモンと、___

これらの33であると伝えられている。
正しく覚った人の説かれたこれらの章とまとめの句が終った。


*法津如来のコメント

まとめの句にあるように、感興のことば(ウダーナヴァルガ)の33章が終わりました。全部で979偈ありました。このブログでこれらのを掲載し始めたのは、2018年5月21日からです。

「第1章 無常」のはじめの2つの偈を引用します。
https://76263383.at.webry.info/201805/article_21.html

(以下引用)

1 この世で、心が暗くふさぎ込んだり眠くなるのを取り除いて、心を喜ばせ、勝利者(=仏)の説かれたこの感興のことばをわれは説くであろう。さあ聞け。

2 すべてを知りきわめた人・救世主・慈悲ぶかい人・最後の身体をたもつ人である仙人・尊師は次のように説かれた。____

(以上引用)

以上ですが、感興のことば(ウダーナヴァルガ)の偈の一つでも、思い出して読み、他人のために説いて聞かせるならば、大きな功徳になります。


さて、感興のことば(ウダーナヴァルガ)は終わるわけですが、このブログは続きます。どのような続くのかは、明日のお楽しみです。

読者の皆様、ご愛読ありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。








#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 83偈

83 熱心につとめ瞑想しているバラモンにとって、これらの徳が現れるとき、かれは悪魔の軍勢を追い払っている。ブッダはすべての束縛の絆(きずな)から解脱しているからである。

                           以上第33章 バラモン


(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
 

*法津如来のコメント

前回の82偈と今回の83偈の違いは、「かれは全世界を照らしている。」の部分が「かれは悪魔の軍勢を追い払っている。」に変わっているところです。

「かれ」とはブッダですが、このバラモンはブッダになっているのです。かれは悪魔の軍勢を追い払っているので、かれは全世界を照らしているのです。

「悪魔の軍勢」とは何か? それは束縛の絆です。

束縛の絆とは、思考や感情や感覚や直感や本能などへの執着です。
さて、今回の偈で第33章バラモンが終わりますが、同時に感興のことば(ウダーナヴァルガ)のすべての偈の掲載が終わります。

明日最後に、「まとめの句」で、感興のことば(ウダーナヴァルガ)が終わります。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 82偈

82 熱心につとめ瞑想しているバラモンにとって、これらの徳が現れるとき、かれは全世界を照らしている。___ブッダはすべての束縛の絆(きずな)から解脱しているからである。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
 

*法津如来のコメント

「かれは全世界を照らしている。」とは、ブッダ(仏、如来)は人々に進むべき道を示しているという意味です。

かれがそれができるのは、「すべての束縛の絆(きずな)から解脱しているからである。」と説かれています。

「束縛の絆(きずな)」については、この章の72偈で説明しました。
https://76263383.at.webry.info/202007/article_11.html

その要点は次の通りです。
(以下引用)

「一切の煩悩の汚れ」が「かれの束縛の絆(きずな)」なのです。

例えば、怒りという煩悩を考えましょう。怒りが現れた人は怒りに束縛されます。かれは穏やかな幸せな気分で居たくともそれはできません。

欲望という煩悩でも同じです。あるものに対する欲望が生まれた人には、どんな美しい風景のなかに居ても、その風景を楽しむことはできません。その人はその欲望に束縛されているからです。

しかし、真理を観ずることができるようになれば、かれの潜在意識は束縛の絆(きずな)は幻想であることを知るのです。それがわかれば束縛の絆(きずな)は消滅するのです。
(以上引用)



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 81偈

81 熱心につとめ瞑想しているバラモンにとって、これらの徳が現れるとき、かれは全世界を照らしている。___太陽が昇ったときに空中を照らすように。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
 

*法津如来のコメント

「かれは全世界を照らしている。」とは、ブッダ(仏、如来)は人々に進むべき道を示しているという意味です。

同様のことは、74偈でも説かれていました。

74 太陽は昼にかがやき、月は夜に照らし、武士は鎧を着てかがやき、バラモンは瞑想に専念してかがやく。しかしブッダはつねに威力もて昼夜に輝く。
https://76263383.at.webry.info/202007/article_13.html

ダンマパダでは次のように語られています。

172 また以前は怠りなまけていた人でも、のちに怠りなまけることが無いなら、その人はこの世の中を照らす。___あたかも雲を離れた月のように。

173 以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。___雲を離れた月のように。

この照らされて光を感じられる人は、すなおな人で、心が汚れていない人なのです。残念なことに心がねじ曲がって、汚れた人には見えません。






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 80偈

80 熱心につとめ瞑想しているバラモンにとって、これらの徳が現れるとき、諸の煩悩の消滅に近づくとき、かれの疑惑はすべて消え失せる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
 

*法津如来のコメント

「諸の煩悩の消滅」の煩悩について、この章の71偈で説明しました。
https://76263383.at.webry.info/202007/article_10.html

(以下引用)
煩悩は悪いものだからこれを無くそうと思っても、無くすことははできないのです。煩悩は潜在意識の働きです。顕在意識ではどうすることもできないのです。しかし、真理を観ずることができれば、一切の煩悩をなくすことができます。
真理を観ると、潜在意識が納得するのでしょう。煩悩が自分の自由を拘束して、苦しめていることを知るのです。同時に、煩悩がその真実に気づかせてくれたことを知るのです。
そのことを、煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)と言うのです。しかし、誤解しないように「煩悩=菩提(覚り)」ではありません。
(以上引用)

昨日は、横浜にバンクシー展(天才か反逆者か)を見に行きました。そこに次の一文がありました。

‘THERE IS NOTHING
MORE DANGEROUS
THAN SOMEONE WHO
WANTS TO MAKE
THE WORLD A BETTER
PLACE’

(ある人が世界を良い場所にしようと望むことより危険なことはない。)

社会を良くしようと思って活動しても、それがよい結果になるとはかぎりません。それは多くの場合、他人を変えようとすることであり、それは他人にも自分にもよいことではありません。

ですから、社会を変えるのではなく、自分を変えることです。修行や解脱は個人の事柄です。

101匹目の猿現象ということがありますから、個人が変われば、社会もかわります。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 79偈

79 熱心につとめ瞑想しているバラモンにとって、これらの徳が現れるとき、諸の感受作用の消滅に近づくとき、かれの疑惑はすべて消え失せる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
 

*法津如来のコメント

「諸の感受作用の消滅」の感受の消滅について、この章の69偈のコメントで次のように説明しました。
https://76263383.at.webry.info/202007/article_8.html

「一切の感受は消滅する」とは、感覚はあるが、快や不快を感じないということです。これにともなって、敵か味方か、善か不善かなどが問題にならないということです。また欲や怒りが現れなくなるのです。

一切の感受が消滅すると、彼岸に達して(=完全になって)、かれの疑惑はすべて消え失せるのです。

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 78偈

78 熱心につとめ瞑想しているバラモンにとって、これらの徳が現れるとき、諸の因縁の消滅に近づくとき、かれの疑惑はすべて消え失せる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
 

*法津如来のコメント

昨日掲載した77偈では、物事は因縁にもとづいて起こることが説かれていました。

そうすると、「諸の因縁の消滅に近づくとき」とは、物事は起こらなくなります。

それは、苦しみや喜びの消滅です。大方の方はそんなのつまんないと思われるでしょうが、

そこには今までとは異なる安らぎ、安心、静けさ、楽しみなどがあります。

もちろん、すべての疑惑は消えるのです。

人間の本性はやさしいと信じてよいのです。

#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 77偈

77 熱心につとめ瞑想しているバラモンにとって、これらの徳が現れるとき、物事が因縁にもとづいて起こることを明らかに知るとき、かれの疑惑はすべて消え失せる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
 

*法津如来のコメント

瞑想については昨日説明しました。

「これらの徳が現れるとき」・・・修行の結果が現れるときという意味です。

「物事が因縁にもとづいて起こることを明らかに知るとき」の部分は、76偈では「苦しみが因縁にもとづいて起こることを明らかに知るとき」になっていました。

「苦しみ」は「物事」の一つですから、物事が因縁にもとづいて起こることがわかれば、苦しみも因縁にもとづいて起こることがわかります。

しかし、物事が因縁にもとづいて起こることはわかることは難しく、多くの場合、苦しみが因縁にもとづいて起こることがわかってから、わかる場合が多いでしょう。

さて、因縁についてですが、辞書などには、「物事が生じる直接の力である因と、それを助ける間接の条件である縁。すべての物事はこの二つの働きによって起こること。」などと説明されています。
しかし、因と縁の区別も難しく単純には理解されにくいものなのです。

ただ、ここで言える重要なことは、物事は多くの縁(要素、条件)で構成されていて、そのうちの一つでもなければ、その事柄は存在しえないことを知ることです。

ですから、苦しみも喜びも同様です。苦しみは一つの縁をなくせば無くすことができ、喜びは多くの感謝すべきことでなりたっているのです。







#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 76偈

76 熱心につとめ瞑想しているバラモンにとって、これらの徳が現れるとき、苦しみが因縁にもとづいて起こることを明らかに知るとき、かれの疑惑はすべて消え失せる。


(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
 

*法津如来のコメント

この偈における「瞑想」と訳された言葉は、瞑想と訳すよりは修行と理解したほうがよいのです。

今回はこのことのみをコメントします。それ以外の言葉については明日以降で説明します。

瞑想について、SRKWブッダは最近出された著書「仏道の真実++」の「具体的な覚りの機縁(広義)」において次のように説かれております。

(以下引用)
● 瞑想(メディテーション)を捨て去ることは、覚りの機縁となる。これに限らず神 秘的な現象はすべてその対象となる。これらは一種興味深いものではあるが、覚りとは 無関係である。したがって、どこまで掘り下げて体得しても時間の無駄である。これは食 物に譬えれば、瞑想は酒のようなものに過ぎないということである。飲んでも栄養とは ならず、加水分解されて終わる。大量に飲めば、身体に大きな負担を掛ける。もちろん、 酒を飲むと日常を離れた独特の精神状態となるのは確かである。この状態にある者どうしは親しくなるが、それは酔っている間のことに過ぎない。酔いが覚めれば親しさも元 の木阿弥である。また、これによって暴力的な事件が起きることもある。実例を挙げる までもなく、酒の席での失態は多くの人が経験していることであろう。そして、酒の本 当の恐ろしさは、止めることが極めて難しいということである。どんな嫌な目に遭って も、人々は次の酒宴を楽しみにしてしまうのである。同様に、瞑想は人に何ももたらさ ない。ただ興味深い神秘的な現象を味わうだけのことである。瞑想を解けば、素晴らし い境地も元の木阿弥である。瞑想によって修行が進むことは何一つない。そもそも、瞑 想に耽るものは功徳を積むことがない。そして、当然のことながら覚ることがない。
(以上引用)

この文章は、瞑想を熱心に行っている修行者には、ショックなことではあろうと思われますが、この際、この文章を正しく理解してください。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 75偈

75 バラモンにとってこれほどすぐれたことは、またと有り得ない。心を快楽から遠ざけるにつれて、かれの意(おもい)が退くのにつれて、苦悩が静まる。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
 

*法津如来のコメント

「バラモンにとってこれほどすぐれたことは、またと有り得ない。」の、「これほどすぐれたこと」とは、「心を快楽から遠ざけるにつれて、かれの意(おもい)が退くのにつれて、苦悩が静まる。」です。

「心を快楽から遠ざけるにつれて」とは、快楽は「毒入りの饅頭のようなものだ」とわかってくると来るというような意味です。

余談ですが、砂糖、特に精製された「砂糖は毒である」と知っておいた方がよいのです。

さて、「かれの意(おもい)が退くのにつれて」とは、「あれこれ考えることをやめる」というような意味です。
このようなことがあると、苦悩が静まってきます。

しかし、まだ解脱は起こりません。功徳を積むなどの因縁があり、善き友と遭遇し、法の句(覚りの智慧)を聞き、解脱することになります。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 74偈

74 太陽は昼にかがやき、月は夜に照らし、武士は鎧を着てかがやき、バラモンは瞑想に専念してかがやく。しかしブッダはつねに威力もて昼夜に輝く。

(ダンマパダ387 太陽は昼にかがやき、月は夜に照らし、武士は鎧を着てかがやき、バラモンは瞑想に専念してかがやく。しかしブッダはつねに威力もて昼夜に輝く。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
 

*法津如来のコメント

太陽の昼のかがやきは誰もがわかります。すべての生命は夜にも太陽の恩恵を受けていますが、夜には見えません。

月は昼にも存在しますが、太陽が明るすぎて見えません。月が夜に照らすのは、太陽が沈むからです。

武士が鎧を着てかがやくのは、武士がかがやいているのではありません。鎧がかがやいているのです。

「バラモンは瞑想に専念してかがやく。」、この場合のバラモンは、真のバラモンではありません。身分制度におけるバラモンです。バラモンが瞑想してかがやくように見える人は錯覚をしているのです。

「ブッダはつねに威力もて昼夜に輝く」と見える人はブッダを信じる人です。愚かな人々にはその輝きは見えません。






#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 73偈

73 もしもバラモンが自分のつとめに関して彼岸に達した(=完全になった)ときには、かれは生まれと老いと死とを超えるであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)
 

*法津如来のコメント

ブッダは、人生の苦しみは、生まれること、老いること、死ぬことであると説かれておられます。

生まれることが苦しみであることは、わかりにくいかもしれません。そこで、ある人は赤ん坊が狭い産道を通るときが苦しいのだと言います。それもありますが、それ以上に、生まれるとそれからの人生で多くの苦しみが待っているということです。

青春時代は夢や希望ばかりではありません。その裏には、不安や挫折、絶望などがあります。壮年時代には、労働、責任、人間関係、ストレス、病気などがあります。すぐに高齢、後期高齢が待っています。それらは苦しみであり、恐怖なのです。

老いることが苦しみであることは、誰もがよくわかるでしょう。老いると身体のあちらこちらが弱くなって、痛みも現れもあらわれます。身体だけではなく、心も弱くなり、もの忘れなどもはじまります。死が近づいているのを感じるのです。それらは苦しみであり恐怖なのです。

「かれは生まれと老いと死とを超えるであろう。」とは、どういうことでしょうか?

解脱した彼は、凡夫が苦しみや恐怖と感じる生まれと老いと死に対して、苦しみとは感じないし、恐怖と感じないないということです。むしろ、楽しみと感じ、喜びと感じるのです。

それは解脱すればわかりますが、苦しみや恐怖は、真実を知らせる鈴の音のように思えるのです。それは楽しみです。そして、それらの真実がわかった時は、喜びであり、満足なのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 72偈

72 もしもバラモンが自分のつとめに関して彼岸に達した(=完全になった)ときには、真理を観ずるかれにとって、かれの束縛の絆(きずな)はすべて消滅するであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

前回の71偈の「一切の煩悩の汚れは消滅するであろう。」の部分が、今回は「かれの束縛の絆(きずな)はすべて消滅するであろう。」となっていますが、意味は同じです。

「一切の煩悩の汚れ」が「かれの束縛の絆(きずな)」なのです。

例えば、怒りという煩悩を考えましょう。怒りが現れた人は怒りに束縛されます。かれは穏やかな幸せな気分で居たくともそれはできません。

欲望という煩悩でも同じです。あるものに対する欲望が生まれた人には、どんな美しい風景のなかに居ても、その風景を楽しむことはできません。その人はその欲望に束縛されているからです。

しかし、真理を観ずることができるようになれば、かれの潜在意識は束縛の絆(きずな)は幻想であることを知るのです。それがわかれば束縛の絆(きずな)は消滅するのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 71偈

71 もしもバラモンが自分のつとめに関して彼岸に達した(=完全になった)ときには、真理を観ずるかれにとって、一切の煩悩の汚れは消滅するであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「真理を観ずるかれにとって、一切の煩悩の汚れは消滅するであろう。」という言葉は重要です。

煩悩は悪いものだからこれを無くそうと思っても、無くすことははできないのです。煩悩は潜在意識の働きです。顕在意識ではどうすることもできないのです。しかし、真理を観ずることができれば、一切の煩悩をなくすことができます。

真理を観ると、潜在意識が納得するのでしょう。煩悩が自分の自由を拘束して、苦しめていることを知るのです。同時に、煩悩がその真実に気づかせてくれたことを知るのです。

そのことを、煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)と言うのです。しかし、誤解しないように「煩悩=菩提(覚り)」ではありません。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 70偈

70 もしもバラモンが自分のつとめに関して彼岸に達した(=完全になった)ときには、真理を観ずるかれにとって、一切の縁は消滅するであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈の前半は前回の偈と同じです。すなわち解脱してニルヴァーナ(涅槃)に達したバラモンはということです。

彼は、真理を観ているので、「一切の縁は消滅する」ということです。

「縁」とは、助力する、援助するという意味です。

ということで、解脱した、すなわち覚ったかれは、一切の助け、援助が必要なくなるということです。

別の言葉で言えば、縁は有為の事柄でありますが、ニルヴァーナ(涅槃)は無為の事柄(?)であります。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 69偈

69 もしもバラモンが自分のつとめに関して彼岸に達した(=完全になった)ときには、真理を観ずるかれにとって、一切の感受は消滅するであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

前半の「もしもバラモンが自分のつとめに関して彼岸に達した(=完全になった)ときには、」は、前回の68偈と同じです。それを「修行者が、自分に必要な修行にはげみ、解脱して、ニルヴァーナ(涅槃)に達したときは、」と説明しました。

後半の「真理を観ずるかれにとって、一切の感受は消滅するであろう。」と書いてありますが、一切の感受が消滅しているから、真理が観えているということであります。

「一切の感受は消滅する」とは、感覚はあるが、快や不快を感じないということです。これにともなって、敵か味方か、善か不善かなどが問題にならないということです。また欲や怒りが現れなくなるのです。


#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 68偈

68 もしもバラモンが自分のつとめに関して彼岸に達した(=完全になった)ときには、かれは独りで魔女や悪鬼をも超えるであろう。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は、次のように解釈します。

修行者が、自分に必要な修行にはげみ、解脱して、ニルヴァーナ(涅槃)に達したときは、その修行者は心の形態作用や名称作用を克服しているだろう。

私のイメージでは、魔女とは心の形態作用です。そして、悪鬼とは心の名称作用です。

ところで、昨日は豪雨は九州北部に拡大していると新聞報道がありますから、SRKWブッダや法風如来が気がかりですが、彼らは魔女や悪鬼をも超えておられますので、無事であることは間違いないことです。







#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 66偈、67偈

66 正しくさとった仏の説かれた理法をはっきりと知っている人を、尊敬して敬礼せよ、___バラモンが火の祭りを恭しく尊ぶように。

67 正しくさとった仏の説かれた理法をはっきりと知っている人を、尊敬して仕えよ、___バラモンが火の祭りに仕えるように。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「正しくさとった仏の説かれた理法をはっきりと知っている人」とは、前回の64偈、65偈に記されていた「道理を識別している人」と同じ内容です。

今日は「尊敬して敬礼せよ」「尊敬して仕えよ」ということを考えてみましょう。

これは、正しくさとった仏の説かれた理法をはっきりと知りたい、というならば、「尊敬して敬礼せよ」「尊敬して仕えよ」ということです。

本当に正しくさとった仏の説かれた理法をはっきりと知りたいというならば、自然に「尊敬して敬礼せよ」「尊敬して仕えよ」ということになるでしょう。

そのようにならないならば、無理にそうする必要はありません。

その前に、正しくさとった仏の説かれた理法とは、何のためにあるのか知っておく必要はあります。

それは、あなたの悩みや苦しみを取り除き、あなたを幸せにするためにあるのです。



#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 64偈、65偈

64 老人であろうと、若者であろうと、(老若を問わず)、道理を識別している人を、尊敬して、敬礼せよ。___バラモンが火の祭りを尊ぶように。

65 老人であろうと、若者であろうと、(老若を問わず)、道理を識別している人を、尊敬して、仕えよ。___バラモンが火の祭りに仕えるように。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

「老人であろうと、若者であろうと」とは、誰でもということです。

「道理を識別している人」を「尊敬して、敬礼せよ。(尊敬して、仕えよ。)」とありますが、誰が「道理を識別している人」かどうか、ほとんどの人々がわかっていません。誰もが、自分の考えに近い人、自分に都合がよいことを言う人を、尊敬し、敬礼するのです。

「道理を識別している人」とはどんな人か知ることが必要です。その前に、道理とは何か?知る必要があります。

道理を知らないものが、「道理を識別している人」を探すのはむずかしいですが、道理を知らないと思われる人を知ることは比較的やさしいでしょう。

最近ユーチューブを見ていたら、「今だけ、金だけ、自分だけ」という言葉を聞きました。このような人は、道理を知らない人です。

「今だけ、金だけ、自分だけ」の人でない人でも、本当に道理を識別している人かどうかはわかりません。

しかし、道理を識別している人は、本当にやさしい人だとは言えます。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 63偈

63 バラモンを打つな。バラモンはかれ(=打つ人)にたいして怒りを放つな。バラモンを打つものには禍があり。(打たれて)怒る者に禍あり。

(ダンマパダ389 バラモンを打つな。バラモンはかれ(=打つ人)にたいして怒りを放つな。バラモンを打つものには禍がある。しかし(打たれて)怒る者にはさらに禍がある。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダ389の解説を以前しました。それを引用します。
https://76263383.at.webry.info/200910/article_1.html

(以下引用)

バラモンを打たないように
バラモンは彼に怒りを現さないように
バラモンを打つ者は糞だ
彼に怒りを現す者はそれより糞だ

〇この詩の蛇足

釈尊の言われるバラモンは阿羅漢の可能性があります。阿羅漢は尊敬されるべき人であります。その人に暴力を振るったら、その人は幸福にはなれません。悟 ろうと修行しても悟ることは出来ません。ですから、バラモンには暴力を振るわないことです。今特に日本ではバラモンはいませんから、お坊さんと考えたらい いでしょう。お坊さんには暴力を振るわない方が安全です。もちろん、お坊さんに限らず、どんな人にも暴力を振るわない方が安全です。

 一方、暴力を振るわれたバラモンは、暴力を振るった人に怒りを持ってはいけません。バラモンはどんな時でもどんな人にも怒りを持ってはいけないのです。バラモンたる者は怒りを現してはバラモンではありません。

 「バラモンを打つ者は糞だ」の「糞だ」はパーリ語では「ディー」という言葉です。パーリ語辞書には「厭わしきかな。嫌らしい。」と出ていますが、以前ス マナサーラ長老に「この言葉は口にもだすのは嫌な言葉なのだ。」と聞いていました。釈尊の詩の中で「糞だ」などと言う言葉はどうかとは思いましたが、この 文脈ではこの言葉が一番相応しいと思い、あえてこう訳すことにしました。御批判も多々あるとは思いますが、一応そういうことで御了承お願いいたします。

 「彼に怒りを現す者はそれより糞だ」はバラモンは暴力を振るわれても怒りを現してはいけません。もし、暴力を振るった人に怒りを現したら、その人以上に糞だと言われるのです。
 なぜ、でしょうか?バラモンと一般人の関係は、大人と子供の関係なのです。大人が子供に暴力を振るわれたからと言って、子供と同じ立場で大人が子供にやり返せば、大人気ないということになります。ですから、バラモンたる者は打たれても怒ってはいけないのです。

 釈尊がバラモンに対して述べていることは、バラモンにだけに述べているわけではありません。私たちに述べられていると考えた方がよいのです。出家者や修行者や人格を向上させようと思っている人たちは、バラモンに学んで、打たれても怒らないように努力した方がいいのです。

〇坊さんを打たないように坊さんは打たれても怒らないように(389)

(以上引用)





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 61偈、62偈

61 (「妄愛」という)母と(「われありという想い」である)父とをほろぼし、国王(「われ」という慢心)と(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の博学なバラモンとをほろぼし、(主観的機官と客観的対象とあわせて十二の領域である)国土と(「喜び貪り」という)従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。

62 (「妄愛」という)母と(「われありという想い」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の博学なバラモンをほろぼし、第五には(「疑い」という)虎をほろぼして、人は<浄められた>と言われる。
 

(ダンマパダ294 (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の武家の王をほろぼし、(主観的機官と客観的対象とあわせて十二の領域である)国土と(「喜び貪り」という)従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。)

(ダンマパダ295 (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、国王(「われ」という慢心)と(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人のバラモン王をほろぼし、第五には(「疑い」という)虎をほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

カッコの中は訳者の注釈です。読みにくいので、注釈を除くと以下のようになります。

61 母と父とをほろぼし、国王と二人の博学なバラモンとをほろぼし、従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。

62 母と父とをほろぼし、二人の博学なバラモンをほろぼし、第五には虎をほろぼして、人は<浄められた>と言われる。

この内容では意味が過激なので、母や父などは何かの象徴であることがわかります。その意味を知るためには注釈が必要です。

2010年6月5日、これらの偈によく似たダンマパダ294と295を解説しました。
https://76263383.at.webry.info/201006/article_5.html

(以下引用)

 「殺仏殺祖」(仏に会ったら仏を殺せ。祖に会ったら祖を殺せ。)という言葉が禅語にあります。ずいぶん、過激な言葉と思いましたが、その起源はダンマパダの294番、295番にあったのかもしれません。

 今回の二つの詩の、母、父、二人の王、王国と従臣、五頭目の虎、これらの言葉はすべて、ある概念を象徴する言葉なのです。ですから、それを知らなければ意味が分かりません。先ずそれを調べましょう。

 母とは、渇愛の象徴です。渇愛に縁って輪廻、生命の再生が起こるからです。
 父とは、慢心の象徴です。(自我と言ってもよいと思います。)
 二人の王の一人の王は、無常なるものを永遠不滅と見る常見の象徴であり、もう一人も王は、死んだらすべて終わりと見る断見の象徴です。
 王国とは、眼、耳、鼻、舌、身、意、色、声、香、味、触、法の12処の象徴です。
 従臣とは、喜びと貪りの象徴です。
 経聞者とは、聖典に通じて知識を誇ることの象徴です。
 五番目の虎とは、解脱を妨げる五蓋の五番目、「懐疑」の象徴です。(前回は五番目の虎とはしないで、五頭の虎として、五蓋の象徴として訳しましたが、文法的に単数ですので、五番目として改訳して、誤りを訂正いたします。)

 はじめの「殺仏殺祖」は直接この詩とは関係はありませんが、書いた以上どのような意味か気になる人もおられると思いますので、一応の解釈を書いておきま す。「仏や祖師というものに執着している限り、真理に気づくことが無い。」ということで、仏や祖師方の言葉にさえ執着してはいけないと意味だと理解してお きます。

 「母と父を殺し」。 なぜ、この詩は過激な言葉から始まるのでしょうか。第一にぼんやりしている私たちに喝を入れるためではないでしょうか。この言葉を聞くと、何を言っている のか考えます。またこの母は渇愛のことですが、自分の渇愛は本当の母以上に殺せないものです。私たちは渇愛で生きているのです。渇愛をエネルギーにして生 きているのですから、渇愛を殺すことなどできないのです。できないことですが、渇愛こそが苦しみの原因なのです。父とは慢心の象徴です。慢心は自我から生 まれます。自我は父以上に殺すことが困難なのです。

 渇愛には3種類あります。欲愛と有愛と無有愛です。有愛は「なんとしてでも生きたいとい気持ちです。」 これは「二人の王」の一人、常見に基づく想いで す。無有愛は「死んでしまいたい」という気持ちで、もう一人の王の象徴である断見に基づくものです。死んだらすべて終わりだという見解です。二人の王を殺 すことは、この間違った見解を捨てることなのです。渇愛を殺すために必要なことなのです。

 渇愛の第一は欲愛です。欲愛はどこから生まれるのでしょうか?それは王国なのです。眼、耳、鼻、舌、身、意に、色、声、香、味、触、法が触れる所から生 まれるのです。そこには従臣(喜びと貪り)が居るのです。欲愛を殺すには、王国と従臣を殺す必要があるのです。つまり感官を防護することです。

 感覚の防護は、渇愛を殺し、解脱への道なのです。しかし、この道を妨げる五頭の虎がいます。
この虎は五蓋といわれ、欲、怒り、だらけと眠気、混乱と後悔、懐疑の5つです。 この五頭の虎を退治する必要があるのです。先ず、五頭目の懐疑を退治することが大切です。なぜならば、懐疑はブッダが教えるこの道筋を疑う懐疑だからで す。ブッダの教えに対する懐疑を殺してこそ、確信を持って、この道を進めるからです。

 バラモンと言われる阿羅漢聖者は、これらのことを実践して、涅槃への道を進んだのです。

(以上引用)

なお、2010年6月5日のブロブ記事には、チューラパンタカさんのコメントがありました。
チューラパンタカさんは、最近コメントしてくださる自分さんに、私がつけた名前です。懐かしいですね。





#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 60偈

60 バラモンよ。流れを断て、勇敢であれ。諸の欲望を去れ。つくり出された諸の現象の消滅を知って、汝は、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知る者となるだろう。

(ダンマパダ383 バラモンよ。流れを断って。勇敢であれ。諸の欲望を去れ。諸の現象の消滅を知って、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知る者であれ。)

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

ダンマパダ383について、以前解説を書いています。
https://76263383.at.webry.info/200909/article_25.html

その時は、解脱以前でしたから、次のように書いています。
「このバラモンの章は阿羅漢の境地が多く述べられます。この境地を体験してない私には荷が重いのですが、なるべくこのブログを読む方が、誤解をしないように注意して書くつもりでが、分かってない者が書いているという前提で特に、この章はお読み下さい」

その時の解説では、「流れを断て」を「因縁の流れを断ち切って」としてありましたが、「流れ」とは「愛執」を意味しているのです。以前の解釈をここで訂正します。

「勇敢であれ。」は「努力せよ。」というほどの意味です。

諸々の現象は作り出されたものでありますが、ニルヴァーナ(涅槃)は作り出されたものではないのです。




#感興のことば(#ウダーナヴァルガ) 第33章 バラモン 59偈

59 紐(ひも)と革帯と、悪い欲求と貪ぼりとを断ち切って、妄執を、根こそぎにえぐり出して、___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」岩波文庫より引用しました。)


*法津如来のコメント

この偈は58偈を参考にすると「根こそぎにえぐり出して」の次に、「めざめた人(ブッダ)」が抜けているのかもしれません。

昨日は、過去のブログ記事により、パーリ文注釈に基づいて、紐を怒り、革紐を渇愛のたとえと解釈しましたが、今日は、「ように」を補って、「紐(ひも)と革帯と」を「紐(ひも)と革帯と」のように断ち切りがたいと解釈します。

「悪い欲求」とは、不必要な欲求です。

「貪ぼり」とは、際限なく欲しがることです。

「妄執」とは、盲目的は執著です。自分でも気づくことなく執著しているのです。これは潜在意識の働きによるものです。

潜在意識の働きを、意識的に根こそぎえぐり出すことはできません。ではどうするか?

これは一大事の因縁によって起こるのです。善知識(善友)と遭遇し、「法の句」を聞くことにより起こるのです。これが解脱(覚り)です。

一大事の因縁は、功徳を積むことでできます。ですから、功徳を積むことが修行です。