SRKWブッダ著「仏道の真実++」やさしい人が覚る?

(以下引用)

【やさしい人が覚る?】

 ブッダとは、真実のやさしさの相を体現した人格完成者である。

 では、世俗においてもやさしい人がその先にある存在としてブッダになるかと言えば、そう単純なことではないということになる。これは、やさしい人がさらにやさしくなって——つまり段階的にやさしさが極まって——ついにブッダになるというわけではないということである。

 繰り返しになるが、

 「真のやさしさの出現を見て、それがそうだとを知った人は、覚ってブッダとなる。」

 これが真理である。

 すなわち、その人が現時点でやさしくなくても、真のやさしさを知ればブッダになるということである。もちろん、ブッダになれば真のやさしさを体現した存在となる。つまり、衆生からブッダになることは連続しておらず、飛躍したできごとなのである。そして、その契機が、世に希有なる法の句を聞き及び、その真実を完全に理解したということである。

 このようなことから、仏道を歩むということは真のやさしさを知る道程であると言えよう。要するに、真のやさしささえ知ることができれば目的地たるニルヴァーナに到達することを得る。よって、これはいわゆる精神的な成長とは無関係であると言えることになるのである。

 ただし、功徳は積まなければならない。これは、功徳を充分に積んでいないと、法の句を聞くことができたとしてもそれを理解することができないためである。

 たとえば、いきなり数学の公式を与えられても、その公式の意味が理解できていなければ使いようがないであろう。高度な公式を自在に使いこなすためには、予め勉強してその公式にまつわる数学的な素養を持っていなければならない。同様に、法の句の意味を解脱を生じるレベルで理解するには、予め功徳を積んでいなければならないというわけである。

 その素養を培うのに役立てるために、経典にはさまざまな方便の説が盛り込まれていることが多い。ある経典では、譬え話によってそれを述べている。別の経典では、一種混乱するような巧みなレトリックを用いてその根底の真意を表現している。またある経典では、洗練された言い回しを用いてその機微をさらりと伝えている。仏道を歩む人は、自分に合った経典を読誦することによって覚りに向けた素養を高めることができるであろう。

 ここで、読者は難しく考えないで欲しい。何となれば、覚りに向けた素養を高めるというのは、要するにやさしさとは何かということを追究することに他ならないからである。そこにおいて、自分がどうしたらやさしくなれるかということは考える必要がない。ただ、真のやさしさの何たるかを知ろうとさえすれば良いのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この文章の骨子は、「やさしい人がさらにやさしくなって、ブッダになるわけではない、ある人が現時点でやさしくなくても、真のやさしさを知ればブッダになる」ということです。

ここで大切なことは、真のやさしさを知ることにまつわることがらです。

それは法の句を聞くことです。

また、そのためには、法の句を聞いたとしても、その言葉が法の句であると理解できなければならない。

また、そのためには、功徳を積まなければならない。

なかなか難しくなってきましたが、SRKWブッッダは次のようにまとめられています。

「ここで、読者は難しく考えないで欲しい。何となれば、覚りに向けた素養を高めるというのは、要するにやさしさとは何かということを追究することに他ならないからである。そこにおいて、自分がどうしたらやさしくなれるかということは考える必要がない。ただ、真のやさしさの何たるかを知ろうとさえすれば良いのである。」



この記事へのコメント

m
2020年08月11日 11:51
功徳を積んでいる時は、功徳を積んでいるな、成長しているなという実感はあるものでしょうか?
法津如来
2020年08月11日 12:41
mさん、コメントありがとうございます。

質問にお答えします。

功徳を積んでいるという実感はありません。

しかし、心の落ち着きや満足感はあります。


hal
2020年08月11日 12:55
よき 質問と答えを 読ませて頂きました。

ありがとうございました。
m
2020年08月11日 18:13
ご回答ありがとうございます。
参考にさせていただきます。
ありがとうございました。
これからも毎日の投稿楽しみにしています。