SRKWブッダ著「仏道の真実++」聖求(前半)

(以下引用)

【聖求】(前半)

 衆生が、ニルヴァーナを未だ知らぬ身でありながらニルヴァーナを求める心を起こす。これが聖求である。

 聖求ある人には、明知を生じる。明知を生じたならば、仏道を見出す。この一なる道の歩みは功徳を積むことである。功徳を積めば、覚りの機縁——苦の覚知と法の句を聞き及ぶこと——を生じる。ここで、功徳が充分に積まれていて、かつ信仰に篤ければ慧解脱が起こる。ここに彼の修行は完成し、修行完成者(=ブッダ)となる。これが覚りの全貌である。

 読者は、すでに聖求を抱いているだろうか。もしそうならば、そのまま進めばそれが仏道そのものとなるであろう。そうでないならば、先ず聖求を抱かなければ始まらない。

 さて、聖求の有無をどうすれば知ることができるのであろうか。聖求あることの証とは何であろうか。それを知りたいであろう。それは、次のようにして知ることができる。

 「未だ覚っていない身でありながら覚りの虚妄ならざることを覚知し、未だ覚っていない身でありながら自分が覚りに達することを信じて疑わないこと。」

 これが自分自身その通りであると断言できるならば、間違いなく聖求を抱いていると言えよう。

 もちろん、皆が聖求をこのようにはっきりと覚知するわけではない。実際に覚知されることは、次のようなことである。

 ○ いろいろな宗教の中で仏教が一番正しいであろうと思い、心惹かれる。
 ○ もし仏教がいつわりであるとするならば釈尊は嘘つきということになるが、そうであるとは思えない。
 ○ 仏教だけが苦の滅を説くが、自分自身そのことについて興味がある。
 ○ 仏は怒ることがないというが、自分もそのようになりたい。

 修行者の中には、口では覚りを求めていると言うが実際には聖求無き者が散見される。そのような者は、覚りではなく別のものを求めているのである。そして、それでは彼は修行者とは呼べないことになる。

 その一方で、世間の中にあって自分では覚りを明確に求めているという自覚は無いのであるが、実際には聖求ある人もある。もちろん、そのような人は修行者の部類に入る。

(以上引用)


*法津如来のコメント

聖求(しょうぐ)とは、「衆生が、ニルヴァーナを未だ知らぬ身でありながらニルヴァーナを求める心を起こす。これが聖求である。」と定義されています。

聖求ある人は問題ありません。功徳を積めば、いずれニルヴァーナにたどり着くでしょう。

しかし、「修行者の中には、口では覚りを求めていると言うが実際には聖求無き者が散見される。そのような者は、覚りではなく別のものを求めているのである。そして、それでは彼は修行者とは呼べないことになる。」と指摘されています。

このような人は、覚りではなく別のものを求めているので、それはそれでよいのですが、それでは嫌だと思うのであれば、自分の思いを修正する必要があります。

そのためには、明日引用する「聖求(後半)」を参考にしてください。

また、「聖求」については、パーリ仏典経蔵中部に収録されている第26経(聖求)が参考になります。この経は仏伝としても有名です。





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