SRKWブッダ著「仏道の真実++」聖求(後半)

(以下引用)

【聖求】(後半)

 ところで、もし覚りに素質というものがあって敢えてそれを論じるとするならば、それはこの聖求に帰せられるであろう。と言うのは、聖求には次のような性質が認められるからである。

 ● 聖求ある人の聖求を損ない挫くことは誰にもできない。
 ● 聖求無き人に外から聖求を与えたり喚起したりすることはできない。
 ● 聖求とは見掛け上は求めであるが、その本質は心底において覚知しているしあわせの境地の実在である。
 ● 聖求は他のことで代替できない。

 さて、このようなことから、聖求ある人は修行の可否成否を心配する必要はない。聖求ある人は、必ず覚ることになるからである。問題は、聖求無き人である。このような場合、どうあっても覚ることができないのであろうか。

 結論を先に言えば、聖求無き人はおそらく覚ることはないであろう。聖求は、仏道を歩むことにおける最初から最後まで通じる軸のようなものだからである。聖求が無ければ、しあわせの境地に至るための道を見出すことはできず、運良く見つけることができたとしてもまっすぐに歩むことは難しいであろうからである。これでは、正しく目的地に到達することはとてもできない。

 では、聖求を自分自身で喚起して抱くことはできないものであろうか。これについては、充分に可能性があると言えよう。ここに、修行者における根本の希望が存在することになる。すなわち、

 ● 聖求無き人が、仏道には聖求というものがあることを聞き知って、自分もその聖求を持とうと思ったならば、それが聖求を持つことの始まりとなり得る。

ということである。

 これは、言うなれば、途中からその気になるということである。仏教に無関心だった人が仏道を歩むようになる場合、これが普通かも知れない。

 実際、涼風尊者(現在は法風如来)のように、他の人が仏教の覚りの階梯に至ったことを知って発心し、その発心と同時に聖求を持つに至ったという事例がある。彼女は、私(=SRKWブッダ)の細君ということもあり経緯をよく知っているが、明らかに最初は聖求は無かった。

 これは例えば、独身貴族を楽しんでいて結婚する気などさらさら無かった人が、乗り気でないお見合いに無理矢理出席させられたところ相手に一目惚れしてしまい、同時に結婚したいという気持ちをも生じたなどと言うようなものである。

 なお、経典を読むことは聖求無き人が聖求を持つことに間違いなく役立つ。それによって、ある人は目指すべきしあわせの境地のイメージが明確化され、それが聖求に結びつくからである。経典にこのような力があるのは、それを書いたのがブッダ自身であり、覚りの境地に関する本当のことが書かれていることによるのであろう。

(以上引用)


*法津如来のコメント

SRKWブッダは、ご自身のホーム・ページの「素質」という欄において「人は、それをこころから望むならば、誰でも覚りの境地(=ニルヴァーナ)に至り得る。したがって、覚りの素質などというものは何ら存在していない。」と説かれておられます。

しかし、この文章をよく読むと「それをこころから望むならば」と書かれてあります。このことは、それをこころから望んでいないならば覚の境地に至らないことであります。

別の言い方をすると、それをこころから望んでいるならば、覚りの素質があるということであり、それをこころから望んでいないならば、覚りの素質がないということになります。

それをこころから望んでいない人が、覚りの境地に至らないことは、それはその人の生き方で別に問題ないのですが、その人が覚りの境地というものがあるということを知らずに、望んでいないのならば、ブッダはそれは残念なことだと思うのです。

そこで、「● 聖求無き人が、仏道には聖求というものがあることを聞き知って、自分もその聖求を持とうと思ったならば、それが聖求を持つことの始まりとなり得る。」という言葉となるのです。

また、独身貴族の喩えが出てくるのです。






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