SRKWブッダ著「仏道の真実++」具体的な覚りの機縁(広義)(1)

(以下引用)

【具体的な覚りの機縁(広義)】(1)

 覚りの機縁の具体的なことを列挙したい。読者の中には、似たようなことがあったと思い当たる人もあるかも知れない。

 ● 第一の善知識との出会いは、仏道を歩むことについての決定的な一歩となる。真の仏道修行は、この時点から始まると言っても過言ではない。私(=SRKWブッダ)が出会ったこの第一の善知識は、高貴であり、世にも希有なる決心を見せてくれた。その人の風貌からは想像も付かないその凜とした言葉は、私の修行のいい加減さを思い知らされるに充分であった。私はそれまでに仏教のことをいろいろと学んで来たつもりであったが、その学びの根本の姿勢においてこの人には及ばないと思った。どうあっても、もう一度仏教を一から勉強しなければならないと思ったのである。そして、それが私の発心となった。

(以上引用)


*法津如来のコメント

私の場合は、はじめは正法眼蔵を読み、禅の修行をし、テーラワーダ仏教を学び、出家して比丘になっていましたが、2014年7月14日、SRKWブッダから初めてメールをいただきました。その内容はご自分のホームページの紹介でした。その時の事情については、このブログの2016年12月26日の記事に書いてあります。その時が私の発心の機縁となります。ですから、私の第一の善知識はSRKWブッダです。
https://76263383.at.webry.info/201612/article_26.html


SRKWブッダ著「仏道の真実++」覚りの機縁(広義)

(以下引用)

【覚りの機縁(広義)】

 覚りの機縁とは、狭い意味では善知識の出現を目の当たりに見るということを意味しているが、ここで言いたいのは広い意味のことがらである。すなわち、仏道を歩むことに際して遭遇する種々の機縁を総称してのことである。

 さて、機縁とは次のようなものを指す。

 あることについて図らずも「それ」が起こり、そのことを契機として結果的にそのあることが成就する。このようなとき、その図らずも起きた「それ」がそのことについての機縁と呼ばれる。

 このとき、そのあることは予め認知されていなくても構わない。つまり、それが事前にはイメージできないことであっても、実際に成就した後に「それ」がそのことであったと後付けで認知されるのであるならば、機縁そのものはそれで成立しているということである。

 さて、覚りの機縁にはいくつかの順序や遍歴の様相があるようである。と言うのは、覚った後で人生を振り返ったとき、たとえば発心の切っ掛けたるその機縁が認知されるのは当然のことながら、その発心以前においても類似のことがらが幾つかあったことが思い出されたりするからである。つまり、この場合、覚りにまつわる類似の機縁を生じつつ言わば前段階の修行が水面下で進み、あるときについに決定的な機縁を生じたということになろう。そして、これは珍しいことではなく、しばしば見られることなのである。

 また、覚りの機縁は、仏道の歩みそのものに関することがらだけではない。例えば、当初は仏道とは関係のない道を歩んでいて、あるときにふとその道から離れる切っ掛けを得たなどという場合も含まれる。すなわち、「この道によっては究極の境地には達しない」ということを覚知し離脱する機縁となったわけである。

 このように、覚りにまつわる種々さまざまな機縁が存在している。そして、人は幾つかの機縁を得てついに覚ることを得るのである。したがって、当人にとって、覚りは偶然に起こったことではないと理解されることになる。何となれば、覚ったときに、いくつかの機縁を明瞭に思い出すからである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

仏道において、機縁を重視することの根拠は、「この世には、何一つ偶然はない」と言う事実です。

このことに関しては、SRKWブッダのホームページの理法から「偶然ははない」の文章を引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou292.htm

(以下引用)

この世には、何一つ偶然はない。人々(衆生)にとっても、修行者にとっても、覚者にとってもそうである。

そのときに誰かと出会ったのは、まさにそのときでなければならないからなのである。

それを覚りの機縁とする人もあれば、それを無為にやり過ごしてしまう者もある。

気をつけている人が、その機縁を正しく機縁と為す。

ことに臨んだそのときが、この世においていつでも生じ得るの理由は、気をつけている人があるからである。

つまり、まるで偶然に見えて、実は偶然ではないのである。

こころある人は、それ以前のことも、それ以後のことも考えず、ただ目の前のことだけを考える。そこに偉大なる智慧が出現する。その刹那に、一切の心の動揺を静めて、定を為す人があるからである。


(以上引用)



SRKWブッダ著「仏道の真実++」賢者の道(13)

(以下引用)

【賢者の道】(13)

 ● 仏道とは、やさしさとは何かを追究する道に他ならない。それが世の真実を見極めることに繋がり、苦の真実を知ることにも繋がる。そして、ついに智慧を得ることになるのである。やさしさを追究するのに、何の遠慮が要るだろうか。何の恥ずかしいことがあるだろうか。全人類が、このことについて本当のことを知りたいと思っている筈である。この意味において、仏道を歩むことは至極真っ当なことなのである。胸を張って、凜として道を歩め。

(以上引用)


*法津の如来のコメント

「賢者の道」の具体的なことの最後は、「仏道とは、やさしさとは何かを追究する道に他ならない。」ということです。

「世の真実を見極めること」「苦の真実を知ること」を明らかにすれば「覚り=解脱」を達成出来るのですが、それをさらに具体的に、それは「やさしさとは何かを追究する道に他ならない。」と明言されたブッダは、SRKWブッダが初めてはないでしょうか。

その言葉を聞いて解脱する前の私は、SRKWブッダは本物だと思ったのです。




石法如来の特別寄稿「この世の真実・・・そして『この世の虚妄に生きる』」

石法如来の特別寄稿「この世の真実・・・そして『この世の虚妄に生きる』」


「この世の真実」を明らかにすれば「覚り=解脱」を達成出来るという。・・・言葉としては決して難しくはありませんが、実際問題として「この世の真実を明らめる」人間は多くはないでしょう。

何より、衆生にはこの言葉の意味が良く理解出来ないでしょうし、決して世間解では無く十分に功徳が積まれてはいないという理由も考えられます。また、別の視点からはこうも考えられます。・・・すなわち「この虚妄なる世界に、どっぷりと浸かりすぎている」という理由です。

自分自身が存在している「この世」が虚妄に覆われているなど、俄に信じ難い話ですが、事実はその通りであってそれ以外のものではありません。私自身が、覚りを得たせいも有りますが、身近で起こっている世間の事象を見渡す限り、それが目につきます。それは特別なことではなく、日常どこにでも起こっている事柄なのです。

それを、今年(2020年)年初から世間を賑わせている新型コロナウィルス騒動を例に上げ述べて行きたいと存じます。
新型コロナウィルスは世界中で騒いでおりますが、日本国内にだけ焦点を当てて見るならば死亡者数は1,229名(8月26日現在)・同日感染者数も10,788名と数字的には決して多くは無く、何故国を挙げて大騒ぎしているのか私には理解出来ません。

当然、それなりの死者数・感染者数が出ているのだから「騒ぐのは当然だろう」というもっともな意見をお持ちの方もおり、それを否定する気持ちはありません。
しかし、人間という生き物は生きている限り、いつ何時どこで病気になる・事故に遭う・あるいは次の瞬間死に至る・・・という不測の事態は避けられないのもまた事実です。要するに、人間であってこの世に生存する限り「リスクゼロ」はあり得ないという事です。人間は、自らの周辺に存在するリスクを「ある程度許容することにより」日々の生活を継続出来ている生き物でもあるのです。

私が、新型コロナウィルス騒動を選んだ理由は、なぜ世間は殊更新型コロナウィルスだけを取り上げ話題にし危機を煽るのか?ということです。出始めは「新型?」と言う事で、正体が不明である。と言うのは確かに理解出来ますが、今となれば相応の時間も経過し既に解明されている事実も多いのです。 

私自身、テレビを見る時間が極めて少ないので、テレビのみから情報を得影響を受けると言うことはほとんどありません。反面、テレビからの一方的な情報のみをまともに受けている人間にすれば、新型コロナウィルスという存在は、この世で最も忌み嫌い絶対に罹患したくない病気の一つと捉え、おびえながら生活している人も少なくないかも知れません。
私もたまにテレビを見ると、新型コロナウィルスの恐怖を煽る内容に「極端すぎる」という感想を持ちます。

何が極端かと申しますと、一方的に恐怖を煽る内容はテレビ局の視聴率アップの戦略であるとしても、広く視聴者に対し安心させるような材料の付与には感心が払われていないと言う点から考え、完全な片手落ち報道であり大きな謀略の気配すら感じます。
例えば、「日本人は既に集団免疫が達成されているという説」(京都大学大学院医学研究科・上久保靖彦特定教授)や、「コロナはインフルより毒性が弱いという説」(国際医療福祉大学大学院・高橋泰教授)がテレビあるいはマスコミで話題となることはありません。
テレビ・マスコミで取り上げないから、「間違っている・正しくない」とは言えない筈なのに、世間は全く無視を決め込んでいます。

国民生活における行動の制限などを緩和し、以前のような行動の自由を取り戻すための前向きな議論は多種多様な意見の交換から始まります。最新のコロナウィルスの知見を基に、前向きな意見を議論の俎上に載せるなら「より良い結論に導く」ことが出来る筈です。しかし、こと新型コロナウィルスに関する限り「怖い怖い」の一点張り、国民に対しては今まで同様、恐怖を煽り行動を制限させることが「より良い選択肢」であるかのよう仕向けられているのが現実です。

何より怖いのは、人々が「テレビウィルス」に犯され、「コロナ脳」となり、コロナに罹患しないあるいは死なない為なら、どの様な処置も受け入れますという態度で、それを国民の大多数が違和感なく受け入れ支持していることです。
本来なら日本の場合、欧米諸国に比べ死者数は2桁少ないのだから真っ先にコロナを克服し、以前と同じ日常を真っ先に取り戻している筈なのに、「テレビウィルス」の拡散による強度のマインドコントロールにより新型コロナウィルス克服は遠い日の夢と化しています。

日本国民が、「伝家の宝刀」の如き信頼を寄せ、その結果に日々一喜一憂させられているPCR検査こそ大きな問題を含んでいます。
武漢発とされる新型コロナウィルスは、「その病原性・伝播性は確認されておらず、このウィルスの単離同定(目的に応じて、さまざまな方法によってその特徴を解析する)はされておらず地球上にいるかどうかはっきり確認されていない」、「PCR検査で、似たような遺伝子の断片が発見され「検査陽性」とされても、果たして何のウィルスを検出しているか分からない。益々混乱が深まりとんでもない結論に導かれる怖れがある。」(徳島大学名誉教授・大橋眞氏・「学びラウンジ」)と語り、今や「PCR真理教」と化した日本社会に警鐘を鳴らす科学者もいます。

以上の様に、虚妄の世界の現実を目の当たりにし、「この世の真実を明らめる」のは相当に難しいと思い至るとともに、逆にこの様に「とても分かりやすい世であるからこそ、そのメカニズムを解明し」早々と真実に辿り着く賢者が出現しそうな気もするのです。


*法津如来のコメント

本日二度目のブログ更新です。

般若心経に「遠離一切顚倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう)」という言葉があります。その意味は、衆生はこの世の一切を真実と逆さまの見方をして、それを真実であると夢想してるが、菩薩はその夢想から離れて真実を観るということです。

新型コロナウィルス騒動における衆生のあり方はまさに、その通りであり、心ある修行者はこの世の真実を明らかにすべきでしょう。

石法如来ありがとうございます。




SRKWブッダ著「仏道の真実++」賢者の道(12)

(以下引用)

【賢者の道】(12)

 ● 修行の紆余曲折を気にすべきではない。最初から最後まで一直線に、用意周到に道を歩む修行者などありはしない。仏道はまっすぐに歩めと説かれるが、実際には、その歩みは遍歴修行であり当然に紆余曲折が伴う。この紆余曲折には、たとえば経典に疑問を持ったり、生き身のブッダに疑義を呈したりすることも含まれる。何があっても、最終的には正しい道に至ると信じて、自分の遍歴修行に邁進すべきである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

ゴータマ・ブッダも遍歴を勧めています。スッタニパータ第2 小なる章には「正しい遍歴」という経があります。

また、「よく気をつけて、修行者は遍歴すべきである。」という言葉はスッタニパータの741偈、753偈、1039偈など、何度も繰り返されて述べられています。

パーリ仏典経蔵中部の第26経(聖求)には、ゴータマ・ブッダの遍歴の様子が詳しく書かれています。

私(法津如来)の遍歴については、昨日述べたことテーラワーダ仏教の修行の前には、道元禅の修行、仙道の修行などがあります。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」賢者の道(11)

(以下引用)

【賢者の道】(11)

 ● 適宜に引き返すことをためらうべきではない。怪しいと思ったら引き返す勇気を持たなければならない。時期早尚だと思ったら、まず立ち止まり、しばらく様子を見るべきである。その上で、どうするか決めれば良いのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

山で道に迷ったら、「最後に現在地を確認した地点まで引き返す。『もうちょっと先まで行ってみよう』『迷ったと いうのは自分の思い過ごしかもしれない』などと都合よく考えて先に進んでいってしまうのは、道迷いの深みに陥る典型的なパターンである。少しでも『あれ、 おかしいな』と感じたら、なにはともあれその場から引き返すことだ。」と、登山の注意事項に書かれています。

賢者の道を歩む際も同様なことが言えます。怪しいと思ったら引き返すことが必要なのです。
私は2016年12月にテーラワーダ仏教の比丘(僧侶)を辞めましたのはそのことなのです。私は2004年5月に出家しましたから、約12年6ヶ月比丘として修行して来ました。

しかし、テーラワーダ仏教の教義に従って修行しても覚ることはできないと確信しましたので、それを辞めることにしたのです。

「長いこと比丘をやって来たのにもったいない」と言われる方もおられました。確かにそれは12年半の修行を否定することになりますが、そうではないのです。

原点に戻り、如何にしたら正しい道(仏道、賢者の道)を進むことができるか考えるべきなのです。




SRKWブッダ著「仏道の真実++」賢者の道(10)

(以下引用)

【賢者の道】(10)

 ● 闇雲に突き進んではならない。たとえば、旅人は暗い夜道を好んで歩んだりしないであろう。知らない土地を安全に歩むためには、明るいうちに進むのが良いと考えるからである。仏道も同じである。修行者にとって、道は未知の領域にある。しかも、先達のアドバイスさえ存在しない。ただ、「気をつけて歩め」と説かれるだけである。これは要するに、物事をよく吟味して仏道を歩めということである。また、よく吟味できる環境を自ら整えなければならないということでもある。どんな理由があろうとも、怪しげなことに手を染めてはならない。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「闇雲に突き進んではならない。」のは、危険な道を避けることができないからです。

危険な道を避けるを避けるためには、気をつけて歩まなければなりません。

気をつけて歩むとは、よく吟味して歩むことです。

よく吟味して歩むためには、よく吟味して歩むことができる環境を自ら整えなければなりません。

例えば、落ち着いてない人は、よく吟味できないからです。

環境を整えるとは、功徳を積む、四つの徳行を実践するなどです。

「どんな理由があろうとも、怪しげなことに手を染めてはならない。」とは、どんな理由があろうとも、危険な道を進んではならないということです。




SRKWブッダ著「仏道の真実++」賢者の道(9)

(以下引用)

【賢者の道】(9)

 ● 主張する口よりも、聞く耳を持って道を歩まなければならない。何となれば、聞く耳を持つことが気をつけることに繋がるからである。なお、目で見ることが聞くことになる場合もある。声なき声を能く聞く人は、すでにニルヴァーナの近くにあるからである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「主張する口よりも、聞く耳を持って道を歩まなければならない。」にはいくつか重要な意味があります。

その第一は、「法の句」を聞いて人は覚るからです。

その第二は、目の前の人を大切に思わなければ、その人の話を聞けないからです。

その第三は、目の前の人の話を聞かなければ、その人を悲しませることになるからです。

その第四は、主張する口を押さえることは、自制するという重要な徳行を実践することです。

さらに、聞くことは人の話は人の話ばかりではありません。自然にはいろいろな音があります。それは自然の声です。最近は朝起きると、虫たちが「もう秋だよ。もう秋だよ。」と鳴いています。




SRKWブッダ著「仏道の真実++」賢者の道(8)

(以下引用)

【賢者の道】(8)

 ● 目の前の人を、道の障害物であるなどと考えてはならない。むしろ、目の前の人がいなかったならば自分の覚りは無いのだと考えなければならない。要するに、目の前の人を予め軽んじてはならないということである。しかし、もちろん、目の前の人がすべて重要な人物であると見做すのは間違いである。大事なことは、目の前の人をよく見ることである。衆生は、自分ならざるものに突き動かされているのである。相手が誰であろうとも、目の前の人の振る舞いを見て、彼自身知らないその本当のすがたを見極めたならば、大きな功徳を積むことになるのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「犀の角のようにただ独り歩め。」とは、目の前の人を、道の障害物であるなどと考えることではありません。ただ独り歩むのではありますが、目の前の人がいなければ覚りにまつわる因縁が生まれないのです。

しかし、「目の前の人がすべて重要な人物であると見做すのは間違いである。」に関して、SRKWブッダのホームページの「興感句」に次の言葉があります。面白いので引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/udana098.htm

(以下引用)

【出会った人と会話して】

初めて出会った人と会話をして、

 法の句(善知識)を聞く これが最上である
 理法を語らう これは素晴らしい
 挨拶を交わし親しむ これは喜ばしい
 愚痴をこぼす これは空しい
 悪口を共にする これは恐ろしい
 話がすれ違う これは悲しい
 争論をする これは最低である

安らぎを求める人は、最上をこそ求めよ。

(以上引用)

「相手が誰であろうとも、目の前の人の振る舞いを見て、彼自身知らないその本当のすがたを見極めたならば、大きな功徳を積むことになるのである。」に関しては、ご自分で考えてみて下さい。








SRKWブッダ著「仏道の真実++」賢者の道(7)

(以下引用)

【賢者の道】(7)

 ● 仏道は、独り歩む道であり徒党を組んで歩むことはできない。具体的に言えば、自分の意見に別の修行者を従わせたり、あるいは自分が他の修行者に安直に従ったりするべきではないということである。道の歩みは、互いに対等・平等でなければならない。仏道は、自分のタイミングで歩み始め、自分のペースを保って歩み、自分が覚るべき時期に解脱を生じる道である。そのタイミングが、他の修行者と度々一致することなどあり得ないからである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「仏道は、独り歩む道であり徒党を組んで歩むことはできない。」このことは、ゴータマブッダもスッタニパータの「犀の角」という経のなかで41の偈で説かれています。その最初の偈を引用しましょう。
https://76263383.at.webry.info/201305/article_5.html
「あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。」

仏道修行者は、「犀の角のようにただ独り歩め。」ということです。

具体的にはいろいろな場合があります。ケースバイケースです。初心者は集団で学ぶこともあり、それが必要な場合があります。しかしその場合でも、精神は自主・独立でなければいけません。





石法如来の特別寄稿「宗教について・・・オウム信者は、なぜ間違えたのか?」

まず最初に述べておかなければいけないことがあります。それは、仏教は、宗教とは関係が無いということです。仏教とは、「仏の教え」であり、「仏になる教え」だからです。

私も、その肝心なことが分からず約7年の歳月を新興宗教団体で過ごしました。それでも私の場合は、大きな事件に巻き込まれることも無く、釈迦直説に最も近いという『阿含経』の存在を知り得たのですから、個人的には収穫があったものと考えております。
既に自分自身が経験したことではありますが、新興宗教の教祖は仏教の教義を巧みに利用して衆生の心に入り込んで来ます。特に、一見真面目で頭が良くて素直そうな、この世界を前向きに生きていこうとする意識の高い人が、騙されてしまう傾向が強いようです。

私自身も、7年の間所属した宗教団体に多額の授業料を支払いましたので大きいことは言えませんが、その組織を抜け出すのは簡単ではありません。
寄進(お金)すればするほど、「万一退会する」となった時、それまでつぎ込んだ資金が無駄になる訳ですから、それを考えたら退会など簡単に出来るはずがありません。

ただひたすら所属教団への信仰心を強め、信仰の証としてしっかりお布施をし、教団内で相応のお役(役職)を頂きます。何と言っても教団内の信仰から生まれる「自分自身は救われている」という思いは蜜の味で、それを断ち切ることは容易なことではありません。
それと新興宗教教団は入会当初から、無意識の抑圧を会員にかけます。「この教団を離れたら地獄に落ちる」という脅しは、面と向かって言葉にはしませんが確かに存在するのです。私自身も退会の時、教団の行法を少しずつ減らし完全に断ち切るのに数ヶ月時間を要しました。

そんな中、オウム真理教の話を取り上げるのは、私にとって阿含宗最後の「夏期伝法会」に出席していた際、桐山靖雄から直接当時売り出し中のオウム真理教の話を聞いたことが記憶にあるからです。
桐山氏の話によると、麻原彰章(本名:松本智津夫)がオウム立ち上げ前に阿含宗に入会し、仏教の教義・お金の集め方・人の動かし方を学んだことは間違いなく、その意味では阿含宗とオウム真理教は「一卵性親子」の如き関係に成ります。

桐山氏の詐術能力は天下一品、だれでもコロリと騙されてしまいます。何より、「ペンが立つ」と言うのが大きな強みです。得意のペン先を自在に駆使すれば、どんな難行苦行も難なく完遂し、超能力も望み通りです。(最も、あまりやり過ぎると化けの皮がはがれますが・・・)
それに読者はコロリと騙され、会員となり資金を注入し、更なる教団拡大の手先として動かされるのです。

オウム真理教が注目され出すのは、私が既に阿含宗に対する熱意が冷めて退会した後ですから、当然オウム真理教に対しては冷めた視線で見ておりました。「こんな不潔そうな導師(麻原)に、多くの人間が騙されているんだろうな」というのが正直な気持ちで、外見から判断する限り桐山靖雄の方が「さもそれらしい風貌・風格」が備わった人物に見えます。麻原彰晃の方は、「あまりに品がなさ過ぎの三文役者」にしか見えませんでした。

全ては結果論で、今更あの当時を振り返り何とでも言えるのですが、当時から私自身が判断基準として考えていたのは、やはり「自分自身で、根拠ある経典に当たる」ことの大切さです。オウム真理教はヨーガや密教の修行を取り入れ、基本仏教思想(特にパーリー経典を重視)を売りにしていましたが、信者達は麻原本を信じるあまり原始仏典など読んではいなかったのでしょう。
本当に読んでいたら、仏教の開祖ゴータマ・ブッダの崇高な教えとお姿が、麻原教祖とは雲泥の差があることは一目瞭然判断出来る筈です。その肝心な点に気が付かなかったということが、その後の破滅に繋がりました。

私の所属していた阿含宗でも実体は全く同じで、原始仏教経典の阿含経は釈迦の直説の教えに最も近いと、教祖(桐山靖雄)自らが著書であるいは法話で何度も何度も述べているのに、それを学んでいると言う人物に出会ったことがありません。
私が所属していた道場でも、退会を決めてそれまで仲間だった人達に阿含経の素晴らしさ、ゴータマ・ブッダの教えの素晴らしさを伝えようとしても完全に無視されました。宗教活動に熱心な衆生からすれば、仏教の教えなど何の感心もないのです。

結果的に、その後難なく教団を存続発展させた阿含宗と、日本中を震撼させ稀に見る犯罪集団と化したオウム真理教ではどこが違うかと分析すると、結局は「教祖の持つ因縁」に辿り着きます。
凡夫である麻原彰晃は、自ら「尊師」を名乗り周囲の信者に崇め奉られているうちに増上慢に陥いってしまいます。増上慢に陥る中で、本来麻原彰晃の持っていた多くの悪因縁が、一気に激しくこの地上を焼き尽くすかのような勢いで吹き出して参ります。
オウム信者の多くは、仮に「真面目で素直で勉強家」であったとしても教祖の持つ悪因縁とは結局一蓮托生、一気に滅びの道を転げ落ちて行きます。


*法津如来のコメント

本日2回目のブログ記事の更新です。

石法如来の特別寄稿「宗教について・・・オウム信者は、なぜ間違えたのか?」は、ちょうど今引用中の「仏道の真実++」の「賢者の道」の章の中の「危険を避けて進むというのが正しい道となる。」、「修行生活が、神秘体験に埋没してはならない。」などの内容に参考になるものです。


また、石法如来にはこのブログでの公開の許可をとっております。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」賢者の道(6)

(以下引用)

【賢者の道】(6)

 ● 為し難きことを為すことが、功徳を積むことに繋がる。これは、できもしないことをやれという意味ではない。ここで、為し難きこととは徳行を意味しているからである。具体的には、堪え忍ぶこと、誠実であること、慳みしないこと、および自制することをいう。人々(衆生)は、徳行を為したがらない。むしろ、徳行を為さない理由を見つけようとするかのようである。しかしながら、本来、徳行を為すことに理由は要らない筈である。徳行は、基本的に咄嗟に為される。また、そうであってこそ、徳行は真の意味で為されたと言えるのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

8月18日に書いた記事で「ここでいう、危険は何か? 」の一つに、私は「難しいことは危険です。」と書きました。

たぶんそれを読んで、mさんがコメントされたのではないかと思いますが、「難しいことは危険です。」は不正確でした。ここでお詫びします。

正確には、「為し難きことを為すことを避けることが危険です。」でした。

ただし、ここでいう「為し難きこと」とは、徳行を意味しているのです。

徳行については、8月4日に記事「【右も左もわからない修行者へ】(4の2)勤しむべきこと」で説明しました。
https://76263383.at.webry.info/202008/article_5.html




SRKWブッダ著「仏道の真実++」賢者の道(5)

(以下引用)

【賢者の道】(5)

 ● 修行生活が、神秘体験に埋没してはならない。仏教は神秘体験そのものを否定するものではないが、それはニルヴァーナとは無関係であることが分かっているということである。確かに、ニルヴァーナは無上の楽しみであると知られる境地である。しかしながら、ニルヴァーナは別に神秘的なものではない。人のあり得べき究極の境地だからである。したがって、神秘体験のような特殊な体験の先にニルヴァーナが存在しているわけではないと言うことである。また、神秘体験が修行の進み具合を示す指標になることもない。何一つ神秘体験をすることが無くても、人はニルヴァーナに到達するからである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

神秘体験に埋没する修行者は、覚りは神秘体験だと誤解しているのです。確かに、覚りは一大事の因縁によって起こるので、それは不思議であり、神秘に思えるかもしれないが、それは決して神秘体験ではないのです。

神秘体験を求める修行者はけして、ニルヴァーナには到達しません。求めるものが異なるからです。

仏道修行者の中には、禅定を目指す人がいます。このような人々も神秘体験を求める人と同様です。ダンマパダ372では、「明らかな智慧の無い人には精神の安定統一(禅定)がない。」と説かれています。





SRKWブッダ著「仏道の真実++」賢者の道(4)

(以下引用)

【賢者の道】(4)

 ● 仏道は、ゆっくりと邁進すべき道である。慌てなくても、それぞれの機縁をピッタリの時期に生じ、適時に解脱が起こることになるのである。拙速であると、却って遠回りすることになってしまう。

(以上引用)


*法津如来のコメント

実は、以下の考えはミヒャエル・エンデの児童文学「モモ」からヒントを得たのです。

ゆっくり何かを行った時間から、急いで何かを行った時間の差の時間はどうなるのだろうと考えたことがありますか?

例えば、江戸時代は江戸から長崎まで歩いて行きました。1日40Km歩くとすると、だいたい30日かかるようです。今は飛行機で1時間30分ほどでしょう。

普通は、この差の時間は他の有意義なことに使われたと考えるでしょうが、本当にそうでしょうか。

他の有意義なことも急いで行って、その時間は本当にあなたのしたいことだったのでしょうか?

江戸時代には、30日かけて歩くのは大変ですが、その間いろいろ景色を見て、地方地方の食べ物を食べ、いろいろな人々に出会って、いろいろ経験をします。もちろん、楽しいことよりは苦労の方が多いのでしょうが、それが人生ではないでしょうか?

今では、本当に短時間で用事は済みますが、大切な経験はできないのです。残りの時間は、しなくてもよいことで浪費しているのではないでしょうか。

慌てると大切なことを見落とすことになるのです。ゆっくり、落ち着いて、生きた方がよいのです。




SRKWブッダ著「仏道の真実++」賢者の道(3)

(以下引用)

【賢者の道】(3)

 ● 荒々しいことを避けて静かに進むことが道の歩みとなる。何となれば、ニルヴァーナは究極の静けさの境地であり、そこに至る道も静かに進み行く道となるからである。


(以上引用)


*法津如来のコメント

「賢者の道」の3回目になります。

「荒々しいことを避けて静かに進む」にちなんで、「荒々しい」という言葉に関連するダンマパダの偈を三つ引用します。

133 荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。
https://76263383.at.webry.info/201002/article_10.html


256 あらあらしく事がらを処理するからとて、公正な人ではない。賢明であって、義と不義との両者を見きわめる人。

257 粗暴になることなく、きまりにしたがって、公正なしかたで他人を導く人は、正義を守る人であり、道を実践する人であり、聡明な人であるといわれる。
https://76263383.at.webry.info/201005/article_6.html




SRKWブッダ著「仏道の真実++」賢者の道(2)

(以下引用)

【賢者の道】(2)

 ● 危険を避けて進むというのが正しい道となる。世人は、危険な領域に踏み込まないと目覚ましい成果は得られないように思い込んでいるきらいがあるが、仏道はそのような道ではないということである。仏道は、最初から最後まで安心して歩める道である。

(以上引用)


*法津如来のコメント

ここでいう「危険」は何か? 考えて欲しい。

明日以降に引用する「賢者の道」の具体的内容のネタバレになるのですが、その触りを述べておきます。

荒々しいことが危険です。

急ぐことが危険です。
神秘体験は危険です。

難しいことは危険です。

徒党をくむことは危険です。

目の前の人を避けることは危険です。

主張することは危険です。

闇雲にに進むことは危険です。

時には、引き返すことをためらうのは危険です。

紆余曲折をよしとしないのは危険です。

まだありますが、ここまでにしておきます。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」賢者の道(1)

(以下引用)

【賢者の道】(1)

 賢者の道と言うと、何か大変な勉強と努力を重ねなければならないと思うかも知れないが、仏道が賢者の道であるというのはそのようなことではない。

 その本意は、たとえば小さな子供が利発であると「君は賢いね」と言いたくなるようなことがあるが、それと同様の意味合いである。すなわち、仏道が賢者の道であるというのは、がむしゃらに事を進めず、また余計なことをせず、かと言って必要なことは為し、しかも楽しんでそれを行うべきことを指しているのである。

 以下に、その具体的なことを述べたい。

(以上引用)


*法津如来のコメント

仏道は、一なる道、正しい道であると説かれてきましたが、ここでそれは「賢者の道」あると述べられます。
「仏道が賢者の道であるというのは、がむしゃらに事を進めず、また余計なことをせず、かと言って必要なことは為し、しかも楽しんでそれを行うべきことを指しているのである。」ということです。

その具体的な内容は、12項目で述べられることになるのですが、それらを一挙に引用するのは、それらを読み流すことになるおそれがありますので、このブログでは、一項目ずつ楽しめるように、明日から一項目ずつ引用します。

尚、それらの内容を速く知りたい読者は、SRKWブッダ著「仏道の真実++」を購入してお読みください。電子書籍もあります。
http://srkw-buddha.main.jp/sinnkann3.htm



SRKWブッダ著「仏道の真実++」信仰

(以下引用)

【信仰】

 覚るには、信仰に篤いことが必要となる。ただし、それは仏教を宗教として信仰することではない。また、仏を闇雲に信じることが信仰なのではない。仏が説いた言葉(=理法)を鵜呑みにして信じることが信仰なのでもない。諸の経典がすべて正しいと、頑迷に信じることが信仰なのでもない。では、真に必要な信仰とはどのようなものなのであろうか。それについて述べたい。

 ● 人は信仰によって妄執を超えると説かれる。これは、妄執を超えることに役立つ信の精が信仰であるという意味である。そして、これは仏道の歩みの最後の局面に関わる重大なことがらである。要するに、順調に修行を進めてきた修行者が、最後に怖じ気づくことなくしあわせの彼岸に渡れるかどうかという最後の一押しに関することだからである。このようなことが説かれるのは、修行の最後の最後に信仰心が揺らぎ、解脱しない修行者が見られることを危惧してのことである。

 ● 「誰もが仏になることができ得る」と信じるのが、一つの信仰である。これは、この人はとても覚るのは無理だろうと思えるような相手に出会っても、その人が仏に成り得るということを信じなければならないと言うほどの意味である。そして、この信仰は、他ならぬ自分が覚ることができるという自分に対する信に関わってくることなのである。

 ● 「仏の境地は無上の楽しみである」と信じるのが、一つの信仰である。これは、聖求に関わる信仰である。実際に修行者がニルヴァーナに至ったとき、それが当初考えていた以上の素晴らしい境地であることを実感することになる。したがって、この信仰は裏切られることがないものである。実際、経典に記された方便の説は素晴らしい境地を語るが、そこに嘘はない。ニルヴァーナは、それ以上の境地だからである。ところが、これを人々が信じることは意外にも難しい。世の多くの人は、そんな都合の良い境地が実在するとは信じられないのである。その疑いを、信仰によって超えなければならない。

 ● 「自分ならざる何ものにも依拠してはならない」ということを心底から信じるのが、一つの信仰である。これは、たとえ如来の言葉であっても、そのままに信じてはならない。自分自身でよく吟味せよ。というほどの意味である。もちろん、手前勝手な解釈によっては仏道を正しく歩むことはできない。ことがらの理解は、理法に適ったものでなければならないのはその通りである。その上で、このようなことが説かれるのには理由がある。それは、修行者は、仏道が本来独り歩む道であると知っていても、少なからず誰かを頼って道を歩みたがるものだからである。その思いを断ち切り、道の歩みの要所要所においてはすべて自分自身でよく吟味して決心しなければならないということである。これは、当人が思っているよりも難しいことである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

 ● 人は信仰によって妄執を超えると説かれる。
このことについて、詳しく知りたい方はSRKWブッダの「理法:信は最上の財」を参照して下さい。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou150.htm

 ● 「誰もが仏になることができ得る」と信じるのが、一つの信仰である。

 ● 「仏の境地は無上の楽しみである」と信じるのが、一つの信仰である。

 ● 「自分ならざる何ものにも依拠してはならない」ということを心底から信じるのが、一つの信仰である。

これらの言葉にもう一つ加えるとすれば、それは「 ● 「人は実はやさしい」と信じることが、一つの信仰である。」ということです。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou016.htm


石法如来の特別寄稿「もうじき覚る・・・『二種の観察』」

石法如来の特別寄稿「もうじき覚る・・・『二種の観察』」

令和2年6月23日午後、釧路の春採湖をゆっくり眺めながら、やや高台に位置する六花亭の喫茶店でコーヒーを飲みながら法津如来と穏やかな一時を過ごしました。お話の中で、法津如来が「覚る前から、覚りは虚妄ならざるものという意識がありましたか?」という質問があり、私は、「当然、覚りは虚妄ならざるものであると信じていました。」とお答え致しました。

私自身、がむしゃらに「覚り=解脱」を求めて修行して来た訳ではありませんが、ゴータマ・ブッダを尊敬し彼を目標にずっと生きてきたので、結果的に「覚り=解脱」を目指すことに繋がっていたようです。
長年、ゴータマ・ブッダの教えを学び「覚りは虚妄ならざるもの」と頭から信じ、そのことを疑ったことなど一度も無く、その意味では法津如来の質問は意外なものでした。
それどころか私は、覚る以前からもうじき覚るという自覚があり、根拠として『スッタニパータ』の「二種の観察」の話をしました。今日は、その話を少し書いてみます。

私は仕事を全て終える61歳の少し手前位から、毎朝の坐禅後『スッタニパータ』と『ダンマパダ』を大体3:1位の割合で読み学んで参りました。(3:1というのは、『スッタニパータ』3巡読み終えたら、『ダンマパダ』1巡読むという意味です。)
何故かと申しますと、40歳代のある時「最後は、この二冊の経典だな」と心に決めていたからです。理由は、仏教思想では最も最古層のものであり、最も原初的な内容を含み、最もゴータマ・ブッダの教えに近いと考えられる経典だから、間違いなく何かを掴めるはずだと見当をつけていたのです。
私にとって、人生の晩年時間をかけ明らかにしたいと切望したのが、この二冊の経典だったのです。

そこで今回取り上げる経典は、『スッタニパータ』の第三章・大いなる章一二、「二種の観察」です。師(SRKWブッダ)は、ホームページ「覚りの境地」の「理法」において、「035=縁起」として「二種の観察」で縁起を説いておりますが、私が書きたいのは縁起に関することではありません。

さてここからは、微妙な教えの部分に入りますので、詳しい説明はなるべく省きます。(興味ある読者は、経典を手元にじっくり学んで下さい。)

問題とするのは、七五五偈以下の散文の内容以降です。この部分以降は、それ以前の部分と明らかに内容が違います。少なくても、縁起のことを述べているわけではありません。
ここから、相反する見解を述べる二種の存在が登場します。・・・「神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者(以下、「神々並びに世人」と称する。)」と、「諸々の聖者」です。

七五五偈以下の散文では、神々並びに世人が〈これは真理である〉と考えたものを、諸々の聖者は〈これは虚妄である〉と如実に正しい智慧をもってよく観ずる。・・・これが一つの観察(法)である。
神々並びに世人が〈これは虚妄である〉と考えたものを、諸々の聖者は〈これは真理である〉と正しい智慧をもってよく観ずる。・・・これが第二の観察(法)である。・・・と説きます。
 
七五六偈から七五八偈は、以上の散文の説明になります。

七五八偈以下の散文では、神々並びに世人が〈これは安楽である〉と考えたものを、諸々の聖者は〈こ
れは苦しみである〉と如実に正しい智慧をもってよく観ずる。・・・これが一つの観察(法)である。神々並びに世人が〈これは苦しみである〉と考えたものを、諸々の聖者は〈これは安楽である〉と正しい智慧をもってよく観ずる。 ・・・これが第二の観察(法)である。・・・と説きます。


七五九偈から七六二偈までは、以上の散文の説明になります。

七六三偈から七六五偈までは、今学んだ教えがいかに重要であるかが説かれています。
・・・覆われた人々には闇がある。(正しく)見ない人々には暗黒がある。善良なる人々には開顕される。あたかも見る人々に光明のある様なものである。理法が何であるかを知らない獣(のような愚人)は、(安らぎの)近くにあってもそれを知らない(七六三偈)
・・・生存の貪欲にとらわれ、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。(七六四偈)
・・・諸々に聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るであろうか。この境地を正しく知ったならば、煩悩の汚れのない者となって、まどかな平安に入るであろう。(七六五偈)

私は、この経典の重要性に気がついて「ゆっくり・じっくり」思索を繰り返しました。よく数えてはいませんが、何年か時間がかかったように記憶しています。
ある日突然、自分自身の思考回路と経典が述べている言葉の内容が繋がったのです。私は、はっきりと「そのこと」を理解し認識しました。
私は個人的に、そのことを「理解を超えた理解」と表現します。経典の内容を理解しただけでは大した力にはならず、理解を更に超えた理解こそ力を生むのです。

経典によると、「このように二種〔の観察法〕を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧には、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。-すなわち現世における〈さとり〉か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」と・・・。
この経典に説かれていることが本当に正しいのなら、私はこれからの人生のどこかの時点で必ず「覚り=解脱」に至ると考えました。
それは、丁度ワンギーサ先生(法津如来)に出会う半年ほど前の話です。

その後、自分でも信じられない位不可思議な展開が続きました。ワンギーサ先生(法津如来)と出会い、次いで師(SRKWブッダ)と出会い、そしてついに「覚り=解脱」を成し遂げたのです。
・・・もしかしたら、この経典に着目し思索を続けた人間は、この世では私一人しか存在していなかったかも知れません。それでも、自らを信じ経典を信じその道を歩むならば、覚りはごく身近に存在するということなのです。

同経典最後の教え・・・「師(ブッダ)はこのように説かれた。修行僧たちは悦んで師の所説を歓喜して迎えた。実にこの説明が述べられたときに、六十人の修行僧は執著がなくなって、心の汚れから解脱した。」


*法津如来のコメント

本日2回目のブログ記事の更新です。

石法如来の特別寄稿「もうじき覚る・・・『二種の観察』」は、ちょうど今引用中の「仏道の真実++」の内容に沿ったものなので、石法如来にお願いして、私のブログで公開させて頂きました。石法如来には感謝申し上げます。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」発心

(以下引用)

【発心】

 覚ってしあわせの境地たるニルヴァーナに到達できるかどうかは、聖求を抱いていることや功徳を積んでいること、そして信仰に篤いことがその要件となる。しかしながら、現実にそれを実現できるかどうかの鍵を握っているのが、修行途中において生じる発心である。発心あればこそ修行は真の意味で為され得、発心しているからこそ覚りの機縁を生じると言えるからである。そして、そもそも発心は仏道を歩むことにおける大きな不可思議だからである。

 さて、発心は疑いなく第一の善知識との出会いによってもたらされるものである。それゆえに、覚りを望む人は先ずこの出会いを果たさなければならない。そして、善知識と実際に遭遇したときに自分自身が本当に発心できるかどうかが覚りの道における重要な試金石となる。と言うのは、発心は善知識と出会いさえすれば単純に起こることではなく、本人にこの一なる道の歩みに本気で没入しようとする気持ちがあってこそ生じるものだからである。

 例えば、結婚を望んで相手を探していると公言している人の前に、まさしく相応しく好ましい異性が出現したとしても、その人に対して確かな恋愛感情を持つことができるかどうかは本人次第であるようなものである。健全な結婚生活を送ることについて自信が無い人は、相手の素晴らしさに気後れしてしまうかも知れない。同様に、善知識の出現を目の当たりに見ても、真剣に仏道修行を為すことについて怖じ気づいてしまう人もあるということである。

 ところで、そもそも善知識とはどのようにして出会うことになるのか知りたい人もあるだろう。それについて述べたい。

 善知識との出会いは、不意に訪れるものである。気をつけている人が善知識との邂逅を果たすのは確かなことであるが、それは世間的な意味ではない。実際、見知らぬ人が善知識として出現するだけでなく、すでに知っている人がある日突然に善知識と化すという場合があるからである。したがって、当たりをつけて善知識を探すことはできないのである。

 一般に、善知識は大事の局面において世に出現する。この大事というのは、ある人が極限まで苦しい状況に追い込まれ、それにも関わらず相手に対して究極のやさしさを表明しようとするときに生じるその人のすべてが集約される局面を指す。もちろん、これは誰の人生においても滅多に遭遇しない局面である。しかも、この大事は自分についてではなく、他の人がその局面に立っていなければならないのである。

 なお、発心は善知識に遭遇したときに直ちに生じるとは限らない。過去に遭遇した善知識を思い出した場合でも、発心することを得るからである。いずれにせよ、発心した人はこの仏道を本気で歩む決心を為す。それは頭だけの決意ではなく、全身全霊を傾けたものとなる。このため、発心した人は他のことを差し置いても仏道の歩を歩むことを最優先にしようと思うようになる。そして、通常の場合、自分がそれまで学んできた何某かの仏教を深く再点検しようとする動機を生じる。要するに、真に知るべきことを何としても知ろうと思うようになるのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

発心とは、悟りを得ようとする心を起こすことと理解されていますが、ここでいう発心とは、「通常の場合、自分がそれまで学んできた何某かの仏教を深く再点検しようとする動機を生じる。要するに、真に知るべきことを何としても知ろうと思うようになるのである。」のです。

私の場合は、はじめは正法眼蔵を読み、禅の修行をし、テーラワーダ仏教を学び、出家して比丘になっていましたが、2014年7月14日、SRKWブッダから初めてメールをいただきました。その内容はご自分のホームページの紹介でした。その時の事情については、このブログの2016年12月26日の記事に書いてあります。その時が私の発心の契機となります。ですから、私の第一の善知識はSRKWブッダです。
https://76263383.at.webry.info/201612/article_26.html




SRKWブッダ著「仏道の真実++」聖求(後半)

(以下引用)

【聖求】(後半)

 ところで、もし覚りに素質というものがあって敢えてそれを論じるとするならば、それはこの聖求に帰せられるであろう。と言うのは、聖求には次のような性質が認められるからである。

 ● 聖求ある人の聖求を損ない挫くことは誰にもできない。
 ● 聖求無き人に外から聖求を与えたり喚起したりすることはできない。
 ● 聖求とは見掛け上は求めであるが、その本質は心底において覚知しているしあわせの境地の実在である。
 ● 聖求は他のことで代替できない。

 さて、このようなことから、聖求ある人は修行の可否成否を心配する必要はない。聖求ある人は、必ず覚ることになるからである。問題は、聖求無き人である。このような場合、どうあっても覚ることができないのであろうか。

 結論を先に言えば、聖求無き人はおそらく覚ることはないであろう。聖求は、仏道を歩むことにおける最初から最後まで通じる軸のようなものだからである。聖求が無ければ、しあわせの境地に至るための道を見出すことはできず、運良く見つけることができたとしてもまっすぐに歩むことは難しいであろうからである。これでは、正しく目的地に到達することはとてもできない。

 では、聖求を自分自身で喚起して抱くことはできないものであろうか。これについては、充分に可能性があると言えよう。ここに、修行者における根本の希望が存在することになる。すなわち、

 ● 聖求無き人が、仏道には聖求というものがあることを聞き知って、自分もその聖求を持とうと思ったならば、それが聖求を持つことの始まりとなり得る。

ということである。

 これは、言うなれば、途中からその気になるということである。仏教に無関心だった人が仏道を歩むようになる場合、これが普通かも知れない。

 実際、涼風尊者(現在は法風如来)のように、他の人が仏教の覚りの階梯に至ったことを知って発心し、その発心と同時に聖求を持つに至ったという事例がある。彼女は、私(=SRKWブッダ)の細君ということもあり経緯をよく知っているが、明らかに最初は聖求は無かった。

 これは例えば、独身貴族を楽しんでいて結婚する気などさらさら無かった人が、乗り気でないお見合いに無理矢理出席させられたところ相手に一目惚れしてしまい、同時に結婚したいという気持ちをも生じたなどと言うようなものである。

 なお、経典を読むことは聖求無き人が聖求を持つことに間違いなく役立つ。それによって、ある人は目指すべきしあわせの境地のイメージが明確化され、それが聖求に結びつくからである。経典にこのような力があるのは、それを書いたのがブッダ自身であり、覚りの境地に関する本当のことが書かれていることによるのであろう。

(以上引用)


*法津如来のコメント

SRKWブッダは、ご自身のホーム・ページの「素質」という欄において「人は、それをこころから望むならば、誰でも覚りの境地(=ニルヴァーナ)に至り得る。したがって、覚りの素質などというものは何ら存在していない。」と説かれておられます。

しかし、この文章をよく読むと「それをこころから望むならば」と書かれてあります。このことは、それをこころから望んでいないならば覚の境地に至らないことであります。

別の言い方をすると、それをこころから望んでいるならば、覚りの素質があるということであり、それをこころから望んでいないならば、覚りの素質がないということになります。

それをこころから望んでいない人が、覚りの境地に至らないことは、それはその人の生き方で別に問題ないのですが、その人が覚りの境地というものがあるということを知らずに、望んでいないのならば、ブッダはそれは残念なことだと思うのです。

そこで、「● 聖求無き人が、仏道には聖求というものがあることを聞き知って、自分もその聖求を持とうと思ったならば、それが聖求を持つことの始まりとなり得る。」という言葉となるのです。

また、独身貴族の喩えが出てくるのです。






SRKWブッダ著「仏道の真実++」聖求(前半)

(以下引用)

【聖求】(前半)

 衆生が、ニルヴァーナを未だ知らぬ身でありながらニルヴァーナを求める心を起こす。これが聖求である。

 聖求ある人には、明知を生じる。明知を生じたならば、仏道を見出す。この一なる道の歩みは功徳を積むことである。功徳を積めば、覚りの機縁——苦の覚知と法の句を聞き及ぶこと——を生じる。ここで、功徳が充分に積まれていて、かつ信仰に篤ければ慧解脱が起こる。ここに彼の修行は完成し、修行完成者(=ブッダ)となる。これが覚りの全貌である。

 読者は、すでに聖求を抱いているだろうか。もしそうならば、そのまま進めばそれが仏道そのものとなるであろう。そうでないならば、先ず聖求を抱かなければ始まらない。

 さて、聖求の有無をどうすれば知ることができるのであろうか。聖求あることの証とは何であろうか。それを知りたいであろう。それは、次のようにして知ることができる。

 「未だ覚っていない身でありながら覚りの虚妄ならざることを覚知し、未だ覚っていない身でありながら自分が覚りに達することを信じて疑わないこと。」

 これが自分自身その通りであると断言できるならば、間違いなく聖求を抱いていると言えよう。

 もちろん、皆が聖求をこのようにはっきりと覚知するわけではない。実際に覚知されることは、次のようなことである。

 ○ いろいろな宗教の中で仏教が一番正しいであろうと思い、心惹かれる。
 ○ もし仏教がいつわりであるとするならば釈尊は嘘つきということになるが、そうであるとは思えない。
 ○ 仏教だけが苦の滅を説くが、自分自身そのことについて興味がある。
 ○ 仏は怒ることがないというが、自分もそのようになりたい。

 修行者の中には、口では覚りを求めていると言うが実際には聖求無き者が散見される。そのような者は、覚りではなく別のものを求めているのである。そして、それでは彼は修行者とは呼べないことになる。

 その一方で、世間の中にあって自分では覚りを明確に求めているという自覚は無いのであるが、実際には聖求ある人もある。もちろん、そのような人は修行者の部類に入る。

(以上引用)


*法津如来のコメント

聖求(しょうぐ)とは、「衆生が、ニルヴァーナを未だ知らぬ身でありながらニルヴァーナを求める心を起こす。これが聖求である。」と定義されています。

聖求ある人は問題ありません。功徳を積めば、いずれニルヴァーナにたどり着くでしょう。

しかし、「修行者の中には、口では覚りを求めていると言うが実際には聖求無き者が散見される。そのような者は、覚りではなく別のものを求めているのである。そして、それでは彼は修行者とは呼べないことになる。」と指摘されています。

このような人は、覚りではなく別のものを求めているので、それはそれでよいのですが、それでは嫌だと思うのであれば、自分の思いを修正する必要があります。

そのためには、明日引用する「聖求(後半)」を参考にしてください。

また、「聖求」については、パーリ仏典経蔵中部に収録されている第26経(聖求)が参考になります。この経は仏伝としても有名です。





SRKWブッダ著「仏道の真実++」苦諦がすべて

(以下引用)

【苦諦がすべて】

 繰り返しになるが、仏道を歩む目的はしあわせの境地たるニルヴァーナに至ることである。そして、それはこの世の一切の苦悩から脱れることと同じである。すなわち、一切の苦悩が終滅した境地がニルヴァーナに他ならないということである。

 したがって、この根本の苦悩から脱れることを得る方法があれば、それはニルヴァーナへと向かう道であると言えることになる。ただし、実際にはその道は一つしか無いことが分かっている。それを仏道と呼ぶわけである。

 ところで、仏道を歩む上で最も重要なポイントは苦の覚知である。これがあるゆえに、人はしっかりと仏道を歩むことを得るし、これがあるゆえについに智慧を見出すからである。すなわち、

 「苦の真実を見る人は、同時に苦の解決をも見る」

ということである。このことを維摩経では、

 「衆生を完成するのに随って、その仏国土が浄らかになる」

と説いている。

 もちろん、伝統的な仏教においては四諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)を説くが、この中の苦諦が教えの根本部分であるという意味である。何となれば、苦諦を知った人は他の諦についてほぼ自動的に知ることになるからである。

 これは例えば、「困ったことは発明の母」などと言われることに似ている。実際、解決すべき問題点が明らかになったならば、その解決の方法はいろいろと思いつくものだからである。そして、そのようにして得られた究極の対策が発明に繋がるわけである。同様に、苦の真実を知った人はその苦の解決方法として智慧を見出す。その瞬間に解脱が起こり、ブッダとなるということである。

 ここで読者は、次のように思うかも知れない。

 「苦を知るのは簡単だ。この世は苦に満ちているではないか。」

 なるほど、衆生は苦を味わっているであろう。しかしながら、それは味わっているだけに過ぎず、苦の真実は未だ知らずにいるということである。

 知るべきは苦の真実であって、苦の現れ方ではない。苦を感受すると、苦に喘いでしまうことになる。そして、そのような状態では苦の真実を明らめることは却って難しい。そのようになる前に、苦の真実を知らなければならないのである。

 では、どうすれば苦の真実を知ることができるのであろうか。それは、次のように為されなければならない。

 「真実を知ろうと熱望せよ」

 すなわち、この世の分かり易いことがらを吟味して、さらにこの世の本当のありさまを見極めなければならないということである。その先に、この世の実相たる苦の真実が明らかとなるのである。

 この世は、苦もあれば楽もある世界ではない。楽という観念の対偶として苦が存在しているわけでもない。現実には、この世はすべて苦に満ちている。人々が楽しみだと思っていることも、実は苦なのである。仏道を歩む人は、その真実を自分自身で見極めなければならない。

 なお、苦の真実とは別の言い方をすれば「この世のことがらはやさしさに欠けている」ということである。具体的に言えば、ある人にとって嬉しいことがらは他の誰かにとっては悲しいことかも知れないということである。ある人が快楽に浸っているとき、他の誰かは苦しんでいるかも知れないということである。

 このように物事を深く考究し、この世の極限の苦を理解したとき、苦の真実を明らめることができるであろう。同時に、その解決法を見出すことになる。ここで、因縁があれば解脱が起こる。ある人は心解脱し、ある人は慧解脱を果たしてニルヴァーナへと至るのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この文章の前半のポイントは次の部分です。

「伝統的な仏教においては四諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)を説くが、この中の苦諦が教えの根本部分であるという意味である。何となれば、苦諦を知った人は他の諦についてほぼ自動的に知ることになるからである。」

後半のポイントは次の部分です。

「衆生は苦を味わっているであろう。しかしながら、それは味わっているだけに過ぎず、苦の真実は未だ知らずにいるということである。」

このことに関しては、SRKWブッダの理法「苦の覚知」を参考にして下さい。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou158.htm


もう一つ面白いポイントがあります。それは「苦の真実とは別の言い方をすれば『この世のことがらはやさしさに欠けている』ということです。




SRKWブッダ著「仏道の真実++」やさしい人が覚る?

(以下引用)

【やさしい人が覚る?】

 ブッダとは、真実のやさしさの相を体現した人格完成者である。

 では、世俗においてもやさしい人がその先にある存在としてブッダになるかと言えば、そう単純なことではないということになる。これは、やさしい人がさらにやさしくなって——つまり段階的にやさしさが極まって——ついにブッダになるというわけではないということである。

 繰り返しになるが、

 「真のやさしさの出現を見て、それがそうだとを知った人は、覚ってブッダとなる。」

 これが真理である。

 すなわち、その人が現時点でやさしくなくても、真のやさしさを知ればブッダになるということである。もちろん、ブッダになれば真のやさしさを体現した存在となる。つまり、衆生からブッダになることは連続しておらず、飛躍したできごとなのである。そして、その契機が、世に希有なる法の句を聞き及び、その真実を完全に理解したということである。

 このようなことから、仏道を歩むということは真のやさしさを知る道程であると言えよう。要するに、真のやさしささえ知ることができれば目的地たるニルヴァーナに到達することを得る。よって、これはいわゆる精神的な成長とは無関係であると言えることになるのである。

 ただし、功徳は積まなければならない。これは、功徳を充分に積んでいないと、法の句を聞くことができたとしてもそれを理解することができないためである。

 たとえば、いきなり数学の公式を与えられても、その公式の意味が理解できていなければ使いようがないであろう。高度な公式を自在に使いこなすためには、予め勉強してその公式にまつわる数学的な素養を持っていなければならない。同様に、法の句の意味を解脱を生じるレベルで理解するには、予め功徳を積んでいなければならないというわけである。

 その素養を培うのに役立てるために、経典にはさまざまな方便の説が盛り込まれていることが多い。ある経典では、譬え話によってそれを述べている。別の経典では、一種混乱するような巧みなレトリックを用いてその根底の真意を表現している。またある経典では、洗練された言い回しを用いてその機微をさらりと伝えている。仏道を歩む人は、自分に合った経典を読誦することによって覚りに向けた素養を高めることができるであろう。

 ここで、読者は難しく考えないで欲しい。何となれば、覚りに向けた素養を高めるというのは、要するにやさしさとは何かということを追究することに他ならないからである。そこにおいて、自分がどうしたらやさしくなれるかということは考える必要がない。ただ、真のやさしさの何たるかを知ろうとさえすれば良いのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この文章の骨子は、「やさしい人がさらにやさしくなって、ブッダになるわけではない、ある人が現時点でやさしくなくても、真のやさしさを知ればブッダになる」ということです。

ここで大切なことは、真のやさしさを知ることにまつわることがらです。

それは法の句を聞くことです。

また、そのためには、法の句を聞いたとしても、その言葉が法の句であると理解できなければならない。

また、そのためには、功徳を積まなければならない。

なかなか難しくなってきましたが、SRKWブッッダは次のようにまとめられています。

「ここで、読者は難しく考えないで欲しい。何となれば、覚りに向けた素養を高めるというのは、要するにやさしさとは何かということを追究することに他ならないからである。そこにおいて、自分がどうしたらやさしくなれるかということは考える必要がない。ただ、真のやさしさの何たるかを知ろうとさえすれば良いのである。」



SRKWブッダ著「仏道の真実++」やさしさの本質とは何か

(以下引用)

【やさしさの本質とは何か】

 「この世はやさしさに満ちあふれている」

 あるいは、

 「この世には真のやさしさが存在する」

などと、多くの人々は考えているかも知れない。

 しかしながら、このどちらも真実ではない。なぜならば、もしこの世に真のやさしさが当たり前のように存在するならば、希有なる法の句の出現を待つまでもなく、それによってすでに多くの人々がブッダとなっているに違いないからである。しかしながら、現実にはそのようにはなっていない。この事実が、これらの言明を否定せざるを得ない証左となっているのである。

 では真実はどうなっているのであろうか。それは、次の通りなのである。

 ● この世には真のやさしさは何一つ存在していない。世間のやさしさは、お涙頂戴に過ぎない。
 ● ただし、時として真のやさしさが世に出現することがある。
 ● 真のやさしさの出現を見て、それがそうだとを知った人は、覚ってブッダとなる。

 さて、ブッダとは、一言で言えば「やさしさの究極の相たる人格完成者」である。そして、元々は衆生に過ぎなかった人がどうしてブッダとなったのかと言えば、それは真のやさしさを知ったからである。すなわち、真のやさしさを知った人は真のやさしさに生きることしかできなくなるという道理である。これは例えば、大人になれば子供じみたことができなくなってしまうことと同じである。

 したがって、もしもこの世に真のやさしさが最初から存在しているのであるならば、先に述べたように、そのやさしさに触発されてブッダになる人があちらこちらに出現する筈である。しかしながら、現実はそうではない。この事実から、真のやさしさは日常的にはこの世には存在しておらず、因縁があるときに限り世に出現するものであると推認されることになるわけである。

 そして、その出現の具体的な形が「法の句」であると知られることになる。何となれば、人が覚るときには必ず、この法の句がその機縁となるからである。

 なお、法の句の出自は「法界」であると推認されるのであるが、詳細は後述することにしたい。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「この世には真のやさしさは何一つ存在していない。」は本当のことだろうか考えてみましょう。

「真のやさしさ」とは、あなたが考えている「やさしさ」とは異なるということです。

例えば、Aさん、Bさん、Cさんの三人がいて、AさんがBさんだけやさしくしたら、どうでしょうか?
Cさんはどう思うでしょうか?

真のやさしさは、自分にも、相手にも、また他の第三者にもやさしいものでなければなりません。
だれも悲しませてはいけないのです。

もし、真のこの世にあったとすれば、それはこの世のものではないのです。





SRKWブッダ著「仏道の真実++」正法の知識

(以下引用)

【正法の知識】

 仏伝を読む限り、釈尊は明文化された正法を知らずに作仏している。しかしながら、覚る機縁となったのは、自ら想起して世に誦出した正法であることは間違いない。その経緯は、仏伝の「明けの明星が輝くのを見て・・・」と言う下りに表わされている。釈尊は、この瞬間に慧解脱しブッダとなったのである。なお、釈尊は成道後も正法を記述的に表現することはなかったようであるが、それにまつわることがらをいろいろな表現で仏典に残していることが見て取れる。

 私(=SRKWブッダ)の場合には、正法がどのようなものであるかは知識としては知っていた。具体的には、六祖壇経の中にある法達の参門という章を読んで、法華経の正法を知っていたからである。ただし、その知識だけでは覚りは生じなかった。「これが正法である」という六祖壇経の下りを何度読んでも、それによって解脱を生じることは無かったのである。ところが、ある日、過去に耳にしていた法の句を——その時点ではそれが法の句であるとは意識しなかったのだが——ふと想い出した。そして、知識として知っていた正法が何を言っているのかをその法の句に絡めて理解することを思い立ったのである。その瞬間に、まさしく解脱を生じたのである。そうして、私はブッダとなった。ここにおいて、人は正法にしたがい、正法により、正法の真の理解を生じつつあるとき、まさしく正法を理解する機縁を生じ、因縁があって、正法の記述が真実であると知った人が、この正法によって仏となることを知ったのである。

 さて、私はこのような体験をしたことから、修行者が仏道を歩むときには予め正法を知っているに越したことはないと考えるようになった。何となれば、すでに発心している修行者が第二の善知識との邂逅を果たしたとき、彼が正法を知っているならば、聞き及んだ法の句がまさしく正法の通りに世に出現したものであることを覚知すると期待されるからである。

 もちろん、正法の記述は一通りではなく、それぞれの経典にはそれぞれの正法の記述がある。修行者が、そのどれによって覚りを生じるかを言い当てることはできないが、彼が実際に慧解脱したとき、どの経典と仏縁があったのかははっきりするわけである。

 なお、正法を知っているというのは、正法を具体的に知っているというのはもちろんのことであるが、同時に正法でないものを正法ではないと心底に知っていることをも指している。すなわち、正法の真偽の区別がつくことが、正法を正しく知っている証左となるのである。

 ところで、古典的な経典においては「ここが正法ですよ」などとは明示的には記されていない。そんな必要は無いし、それをあからさまに書くようでは経典とはならないとの往時の判断に基づくことであろう。確かに、そんなことをすれば、笑い話のネタを解説するような愚に映りかねない。そもそも、功徳を積んだ人には経典のどの部分が正法であるかは分かる筈だという判断もあったかも知れない。

 通常、経典は修行者が繰り返し読んで学識を豊かならしめることを意図して記されているものである。このため、経典は仏教的な素養に当たる部分が多くを占めており、主題たる正法の記述部分は極短いのが通常である。それは、漢訳経典の場合、白文にして十数文字で記述できるほどの短さである。仏道を歩む人は、本来この正法を自ら発見せよということであろう。

 この歴史的な事実を鑑み、本書では私(=SRKWブッダ)の正法のみ明示しておくことにする。

 「真実にやさしい人は必ずあなたの身近に現れる。それを自ら発見せよ。」

(以上引用)


*法津如来のコメント

わたしは40代の終わりころから、仏教を学び始めました。法華経を読んだ時、この経は非常に大事なことが書いてあると繰り返し書かれていたので、この大事なことは何か繰り返し読んだのですが、それがそれが何かはわかりませんでした。その結果、大事なことが書かれているだけの変な経典だと思っていました。

その後、六祖壇経の法達の参門の章(タチバナ教養文庫中川孝訳「六祖壇経」では、法華の持者法逹の大悟)も読みましたが、その意味がよくわからずに、SRKWブッダのホームページで、法華経の正法がそこに書かれていること知るまでは、それに気づかなかったのです。

私が、正法が何か知るまでは、20年以上の年月がかかったのです。


SRKWブッダ著「仏道の真実++」正しい道の特徴

(以下引用)

【正しい道の特徴】

 仏道だけが、しあわせの境地に至る正しい道である。そして、正しい道には特徴がある。それについて述べたい。

 ● 覚りの道は、広大で平らかである。したがって、今いる場所からどちらの方向に進んでも問題は無い。ただ、危険に近づかないように気をつけて歩まなければならない。逆に言えば、危険に近づかない限りその道は正しい道だと言えるのである。

 ● この道は、僅か二歩で目的地に達する道である。この意味において、目的地に到着するまで決して長い道のりではない。さて、一歩目は発心である。そして、二歩目は覚りの因縁を生じることである。それで、人はニルヴァーナへと到達することを得るのである。

 ● 人が覚らない理由は、発心しないからである。すでに発心した人が解脱しないのは、覚りの因縁を生じなかったからである。そして、このどちらも善知識によって喚起されることがらである。したがって、善知識との出会いが極めて重要であるということになる。

 ● 善き人には善き人が集う。これは、不滅の真理である。つまり、自分が善き人であるゆえに善知識との出会いがあるということである。この意味において、修行者は善き人でなければならない。なお、善き人になるためには徳行に篤く精励すべきことが説かれる。

 ● 道に危険がないというのは、危険を避けて歩めばそれが正しい道そのものとなることを意味している。これは、心が健全であれば決して難しいことではない。たとえば、健康な人が美味しい料理を口にしながらも、それでいて栄養のバランスが自然と取れているようなものである。

 ● 苦行は、無益である。いかなる苦行も、仏道とはならない。苦行は、道の危険の一つに他ならない。修行者は、この危険を避けよ。

 さて、このような特徴を知っていれば、正しい道を見出すことは決して難しくはない筈である。

 例えば、車を運転して遠い場所まで早く着きたいとしよう。このような場合、一般道ではなく主に高速道路を走ることを選択するであろう。なぜならば、高速道路は道幅も広く、平らかに舗装されており、カーブも緩やかで、交差点も信号機も無いので、目的地に向かって速い速度で、かつ安全に走り続けることができるからである。運転手が気をつけるべきことは、目的地に近づいたときに出口の標識を見逃さないことだけである。

 同様に、人をしあわせの境地に導き至らしめる仏道も、楽しみと栄えとともに歩むことができ、危険が無く、誰も邪魔せず、基本的には平らかで広大な道である。こころある人がこの道を歩めば、すみやかにニルヴァーナに到達することを得るであろう。修行者が気をつけるべきことは、世に出現した真実のやさしさの現れたる法の句を、聞き逃さないことだけである。

 車を運転して目的地に向かう人にとっては、高速道路は夢のような道である。同様に、しあわせの境地たるニルヴァーナを目指す人にとっては、仏道は夢のような道であろう。しかも、仏道を歩むことについては何の対価も求められない。功徳を積みさえすれば、目的地に到達することを得るからである。しあわせを求める人が、この仏道を選択しない理由はない筈である。実際、こころある人は仏道を歩み行くであろう。

(以上引用)


*法津如来のコメント

仏道について、このように語られたことがあるだろうか。

これこそが仏道の真実を語っている。

「危険に近づかない限りその道は正しい道だと言えるのである。」

「この道は、僅か二歩で目的地に達する道である。」

「修行者は善き人でなければならない。なお、善き人になるためには徳行に篤く精励すべきことが説かれる。」



SRKWブッダ著「仏道の真実++」一なる道

(以下引用)

【一なる道】

 これまでの説明で、読者は仏道を歩むことのおおよそのことが分かった筈である。ここでは、仏道が一なる道であることについて述べたい。

 さて、読者は、ニルヴァーナは一つであってもそこに到達するための道は複数あるに違いないと考えているかも知れない。何となれば、この世にはしあわせの境地に至るための道と称するものが色々と提唱され、実践されているからである。

 しかしながら、現実にはニルヴァーナに至る道は一つしか存在していない。そのことは、実際にニルヴァーナに到達したブッダ達が等しく知っていることである。そこで、もろもろの如来は、仏道を「一なる道」とも呼ぶ。そして、その他の道はニルヴァーナには通じていない道であるとして、やや過激な言い方に聞こえるかも知れないが、古典的には外道と呼ぶのである。

 ただし、この一なる道というのは徹頭徹尾そうである必要はなく、道の歩みの最終段階においてそうであれば良いということである。したがって、その最初、あるいはその途中における紆余曲折については問われない。要するに、当初は外道を歩んでいたとしても途中から正しい道に合流することを得たならばそれで良いということである。あるいは、途中で道を逸れてしまったが、後に再びこの仏道に戻ることを得た人についても同様である。実際、これまでに覚った人もほとんどはそのような紆余曲折を経ていると考えてもあながち嘘ではない。実際、私自身そうであったし、作仏した弟子達もそうであった。そして、古くは釈尊もそうであったことが仏典の記述から読み取れる。

 もちろん、仏道ならざる道を歩んでいる間は覚る(=解脱する)ことがない。このため、いわゆる神秘体験も覚りとは無関係である。また、哲学や学問的知識によって直接覚ることもあり得ない。修行者は、学問ではなく学識を豊かならしめることによってこの一なる道を見出し、歩まなければならない。

(以上引用)


*法津如来のコメント

仏道を「一なる道」と呼ぶのでありますが、仏道ならざる道を歩んでいる間は覚る(=解脱する)ことがないのです。

この「一なる道」は仏道の修行ですが、その概要については、すでに「右も左もわからない修行者へ ・修行」で引用しました。https://76263383.at.webry.info/202008/article_6.html


「修行は基本的に本人の自由な意思に任されており、要するに知りたいところから学びを進めて行けば良いということである。このため、その学びは必然的に紆余曲折を伴うものとなるのであるが、それが修行の遍歴となるわけである。そして、人と世の真実を見極めようと努力する中で次第次第に功徳が積まれることになる。そして、あるときに機縁を生じ、ついに覚りに達することを得る。これが、覚りに向けた修行の全貌である。」

これは、神秘体験や哲学や学問的知識とは無関係です。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」右も左もわからない修行者へ(4の4)

(以下引用)

 ◇ 仏道を歩む目的

 目的地は、ニルヴァーナである。そこに至るための道を仏道と呼ぶわけである。ここでニルヴァーナとは、

 ● 貪りや情欲が消滅して完全な自制力に転換した境地
 ● 怒りや嫌悪が消滅して揺らぐことのない落ち着きが定まった境地
 ● 愚かさや迷いが消滅して労せずして最上の行ないだけを為す境地

を指している。

 さらに平易な表現では、次のように言ってよいであろう。

 ● まったく、きょろきょろすることがない
 ● まったく、いらいらすることがない
 ● まったく、じたばたすることがない

 ニルヴァーナにおいては、次のようなことが日常に体現される。

 ● いずこからか不意にやって来る衝撃音や怒声、罵声にまったく驚かない(どきっとしない)
 ● 突然、目の前に飛び出た衝撃的映像にまったく驚かされない(ひやっとしない)
 ● 顔が触れ合うほどの至近距離に他人が近づいてきても嫌でない(ぞわっとしない)
 ● 全世界において嫌いな人が一人もいないと確信する(すべての人が親族や我が子のように見える)
 ● 他の人の行為に、影響を受けない(おののかない、じれない、せかされない)
 ● 他の人の行動に、いかなる悪意をも見出せない(悪意が何かさえ思い出せない)
 ● 争いに巻き込まれることが無くなり、また他の人々の争いを見かけることも無くなる
 ● (大好きだった人でも)お酒を一滴たりとも飲めなくなる
 ● あらゆる味わいが余韻を残さず、同時に嫌な味も無い(味や旨みは正常に分かる)
 ● 過去に為したことについて、気にやむことが一切無くなる(くよくよしない)
 ● 未来のことについてとくに思い悩むことがない(あくせくしない)
 ● 身体の中心軸が通り、重心が安定する(動作が基本的に対称的になる)
 ● ため息をつくことが出来ない(その演技さえ出来ない)
 ● (時を経て)声が響く声になる
 ● (時を経て)瞳が透き通ってくる
 ● すべてがそれしかないぴったりのタイミングで起こることを知る
 ● [諸天および神々が何としてでも仏を守護する]ことを知る

 すなわち、ニルヴァーナとは、好ましからざる、余計な、煩いを生じるような識別作用が完全に無くなり、くつろいだ、ときほごされた、怒ることのない、世の一切と争わない境地である。したがって、ニルヴァーナに至った覚者を驚かせたり、動揺させたり、怒らせたり、争ったりすることはできない。世間においても、怒ることがない人を仏様のようだと言うことがあるが、ニルヴァーナはそれが極まった不動安寧の境地である。

 なお、このニルヴァーナは、一旦そこに至ればその後は一瞬たりとも途切れることなくその人を安穏たらしめるものである。つまり、ニルヴァーナにいる人は一瞬たりともニルヴァーナ以外の境地に堕してしまうことがない。要するに、このニルヴァーナを維持するためにいかなる努力も必要としないということである。そこで、「ニルヴァーナに住する」と説かれることになる。

 ところで、目的地に到達しても、そこからさらに別の目的地に向かう必要があるのであればその道は果てしないものであると言わざるを得ないであろう。しかしながら、仏道を歩むことについてはそのようなことはない。なぜならば、ニルヴァーナに達してしまえば、さらに別の目的地に向かう必要などないからである。つまり、ニルヴァーナは人の究極の目的地ということである。そこで、人が覚ることを「苦しみの此岸からしあわせの彼岸へと渡る」と表現するわけである。要するに、向こう岸に渡ったのであるから、さらにどこか別の場所に渡る必要はないということである。

 このことを理解していないと、覚った後も修行が必要だなどという誤った見解を抱くことになる。修行には、終局がある。それで、覚った人を修行完成者とも呼ぶのである。

(以上引用)

*法津如来のコメント

ニルヴァーナ(涅槃)の内容が非常に具体的で、これは覚った人しか書けないなとSRKWブッダのホームペジで読んだ時に思ったものです。

私が解脱して、今この文章を読んでみると、全くこの通りだと言えます。

しかし、細かい点は人により、少しことなるかもしれませんので、細かい点にはこだわらないようにしてください。

例えば、「● ため息をつくことが出来ない(その演技さえ出来ない)」について、私は「法の句」を聞いて、解脱したようだと思いながらも、私はため息が出たのです。それで、私は解脱してないのかなという疑念が出ましたが、その後、解脱知見を得て、解脱を確信しました。今では、ため息は演技でもできません。






SRKWブッダ著「仏道の真実++」右も左もわからない修行者へ(4の3)

【右も左もわからない修行者へ】(4の3)

 ◇ 修行

 仏道を歩み始めたばかりの人は、修行することが道の歩みそのものであろうと考えているかも知れない。もちろん、それはその通りなのであるが、知っておかなければならないことは、この世には固定的な修行法など何一つ存在していないという事実である。そして、この点がおそらく仏道を歩もうとする人を混乱させる一つの要因となっているのであろう。ここで、固定的な修行法が存在しないというのは、要するに、「これを履修せよ」などというようなカリキュラム的な修行法が存在していないということである。では、修行の実際とは何であるのか。読者は、知りたいであろう。

 仏道を歩むための修行は、「遍歴修行」と呼ばれるものである。これについては後の章で詳しく述べるが、人をしあわせの境地に導く真理を求めてさまざまに研鑽したり考究したりすることが遍歴修行の意味するところである。したがって、修行は基本的に本人の自由な意思に任されており、要するに知りたいところから学びを進めて行けば良いということである。このため、その学びは必然的に紆余曲折を伴うものとなるのであるが、それが修行の遍歴となるわけである。そして、人と世の真実を見極めようと努力する中で次第次第に功徳が積まれることになる。そして、あるときに機縁を生じ、ついに覚りに達することを得る。これが、覚りに向けた修行の全貌である。

 このようなことから、「修行法を教えて下さい」とか「何を修行すれば良いのですか?」などという問いは意味をなさない。なぜならば、それを自ら見出そうと努力することそれ自体が修行だからである。このため、修行においては師さえ必要ではない。修行者は、最初から最後まで自分自身で道を歩めば良く、基本的にはそうでなければならない。ただし、もちろん、その道の歩みは理法に適ったものでなければならない。


*法津如来のコメント

今回は右も左もわからない修行者へのアドバイスの第3回目ですが、実は修行初心者ばかりでなく、むしろベテラン修行者にとって重要な内容なのです。何故ならば、多くの修行者が修行について勘違いしているからです。

多くの修行者は、ある特定の修行法を実践すれば、覚れる、解脱できると勘違いしているのです。その為に、覚るための修行法を詮索したり、特定の修行法に執著して、無意味は努力を続けているのです。それは残念なことです。

本文の要点を再度引用すると次の通りです。

「修行は基本的に本人の自由な意思に任されており、要するに知りたいところから学びを進めて行けば良いということである。このため、その学びは必然的に紆余曲折を伴うものとなるのであるが、それが修行の遍歴となるわけである。そして、人と世の真実を見極めようと努力する中で次第次第に功徳が積まれることになる。そして、あるときに機縁を生じ、ついに覚りに達することを得る。これが、覚りに向けた修行の全貌である。」


<お知らせ>
昨日のブログ記事の「スッタニパータ189」に関するURLが間違っていましたので、昨日(8月4日正午)に訂正しました。ご指摘いただいた読者には感謝申し上げます。また、昨日午前中にお読み頂きました読者にはお詫びいたします。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」右も左もわからない修行者へ(4の2)

(以下引用)

【右も左もわからない修行者へ】(4の2)

 ◇ 勤しむべきこと

 仏道を歩む人が勤しむべきことは、功徳を積むことに繋がることがらである。これを徳行と呼ぶが、これには4つある。

 ● 堪え忍ぶこと
 ● 誠実であること
 ● 慳みしないこと
 ● 自制すること

 ただし、実際にこれらのことに勤しむことは決して容易ではないであろう。世人は、ほとんど反射的にこれらに反する行為を為してしまうからである。しかし、その決して容易ではないことに勤しむ人は大きな功徳を積むことになる。そして、その積んだ功徳が覚りの因縁を培う元のものなのである。

(以上引用)

*法津如来のコメント

仏道には特定の修行法はないと既に述べられていましたが、勤しむべきことはあります。そのことによって、功徳が積まれるからです。

それが今回挙げられた四つの徳目です。順番は重要ではないのですが、全部必要です。人によって得意な項目と不得意な項目があるでしょう。それを知ることは自分を知る上で役に立ちます。

堪え忍ぶこと:肉体的痛みや感覚的な不快に耐えること、他者からの非難・批判などの精神的な苦痛に耐えることなどです。これにより怒りを抑えることができます。

誠実であること:誠実であることの意味は、人によりまちまちですが、はじめは各自のやり方で誠実であるように努力してください。まごころ、嘘のないこと、真実につながります。

慳みしないこと:ものが不足して困っている人に分け与えることです。自分の過剰な欲望を抑えることができます。

自制すること:自分で自分の欲望・感情を抑えることです。これには自分をよく観察することが必要です。

以上ですが、この四項目にかんしては、SRKWブッダのホームページの理法の「徳目」が参考になります。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou014.htm

また、スッタニパータ189には次のように説かれています。
https://76263383.at.webry.info/201309/article_4.html?pc=on

「もしもこの世に、誠実、自制、施与、耐え忍びよりもさらに勝れたものがあるならば、さあ、それら他のものをも広く<道の人>、バラモンどもに問え。」




SRKWブッダ著「仏道の真実++」右も左もわからない修行者へ(4の1)

(以下引用)

【右も左もわからない修行者へ】(4の1)

 さて、読者の中には、ここまで読んですでに仏道を歩むことに対して不安を感じている人もあるかも知れない。そこで、その不安を払拭できるように仏道を歩むための手ほどきをしたいと思う。以下に述べることがらを理解したならば、安心して、胸を張って仏道を歩むことができるようになる筈である。そして、その先に間違いなくニルヴァーナが存在しているのである。

 ◇ してはならないこと

 仏道を歩もうとしている人が最初に気になることは、何をしてはならないのかということであろう。これは、古典的には戒律として定められていたことがらであるが、現代においては往時のように厳密に履行する必要はないことが分かっている。そこで、現代に仏道を歩むことにおいてしてはならないことを列記したい。なお、ここでは表記上「○○のようにすべき」という形で示している。

 ● 他の人が仏道を歩んでいるのを邪魔しないこと
 ● 他の人が功徳を積もうとしているのを邪魔しないこと
 ● 他の人を苦しめ悩ませ悲しませないこと
 ● 他の人を不当に動揺させないこと
 ● 苦行に勤しまないこと
 ● 他の人をけしかけず自分を駆り立てないこと

 これらのことを守っていれば、仏道を踏み外すことは無いであろう。ここで、戒律の要諦は、やさしくない行為はしないようにすることである。何となれば、仏道とは真実のやさしさを追究する道に他ならないからである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

今回から4回に分けて仏道初心者へのアドバイスになります。

はじめは、「してはならないこと」です。これに関しては、本文を読めばわかることですが、最後の言葉は重要ですので、再度引用します。

「戒律の要諦は、やさしくない行為はしないようにすることである。何となれば、仏道とは真実のやさしさを追究する道に他ならないからである。」

最後に蛇足ですが、私は「仏道とは真実のやさしさを追究する道に他ならない」という言葉に参りました。





SRKWブッダ著「仏道の真実++」仏道を歩むことが難しい要因(2)

(以下引用)

【仏道を歩むことが難しい要因】(2)

 ところで、ともあれ仏道を歩む気を起こして歩み始めた人においても別の難しい問題が待ち受けている。

 それは、仏道の歩みの終局において幾つかの困難があるためである。その最も大きなことは、覚りが因縁によって起こるという事実であろう。この因縁ということが修行者には分かり難く、これをどうすれば培うことができるのかの理解とそのための実践は雲を掴むような話になりやすい。しかも、その努力の成否が修行者によって分かれるという現実も待っている。

 ここで、覚りのメカニズムについて概要を述べておきたい。

 1 発心(第一の善知識に出会う)
 2 善知識に出会う
 3 解脱(覚る)

 この3番目の、解脱が起こるために必要となるのが覚りの因縁である。これはつまり、他のすべての条件が整っていたとしてもこの因縁がなければ覚りは生じないということである。このことが、修行者に一抹の不安を感じさせる要因となっているに違いない。要するに、自分の修行を完成させることについて自信が持てるかどうかという問題である。

 さて、この覚りの因縁は、最初からあるものではなく功徳を積むことによって培わなければならないものである。ところが、それが充分に培われているかどうかは修行の途中では判断できず、道の歩みの最後の局面に臨んで初めてその可否が分かることになる。すなわち、ことに臨んだとき、功徳が充分に積まれていれば覚りを生じるが、そうでなければ覚りは生じないという現実が突きつけられることになる。このことは、確かにある修行者にとっては怖いことかも知れない。それでも、修行者は勇気を持ってこの重大な局面に臨まなければならない。

 さらに、仏道を歩むことにおける重要な要素である善知識との出会いも、用意周到には行かないことがらである。それは、善知識の出現が世に希有なることであるという事実によるところが大きい。また、気をつけていなければその出現を感知することができないということも指摘しておかねばなるまい。このようなことから、誰でも簡単に覚りに達するわけではないことはその通りである。

 それでも、読者は心配しないで欲しい。これらのことは、しっかりと気をつけていさえすればクリアできることだからである。善知識との遭遇の機会も、覚りの機縁についても、一度しか無いわけではなく人生において何度か訪れると考えて差し支えないからである。そのどれかで解脱すればよいわけである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

仏道を歩むことが難しい要因のもう一つは、「覚りが因縁によって起こるという事実であろう。」と説かれています。

「覚りが因縁によって起こるという事実」が困難の要因になる理由は二つあると法津如来は考えています。

その一つは、多くの修行者は「覚りが因縁によって起こるという事実」を知らないとということです。多くの修行者は、ある修行法を実践すれば覚れると考えているのですが、そうではないのです。覚りは因縁によって起こるのです。

もう一つは、修行者が覚りが因縁によって起こるという事実を知ったとしても、ではどうしたらよいのかわからないという点です。

その答えは「SRKWブッダ著「仏道の真実++」全体で説かれているのですが、SRKWブッダその要点をこの文章で述べておられます。

そして、最後に「それでも、読者は心配しないで欲しい。・・・・・」と励ましの言葉を添えておられます。

尚、文中の「善知識」とは、法の句(覚りの縁になる言葉)を呟く人です。それがどのような人かわかりません。わたしの場合はわたしの9歳の孫でした。





SRKWブッダ著「仏道の真実++」仏道を歩むことが難しい要因(1)

「仏道を歩むことが難しい要因」を二回に分けて引用します。

(以下引用)

【仏道を歩むことが難しい要因】(1)

 高速道路の上りにしたがって車を走らせさえすれば、東京に辿り着く。そして、車で東京に向かう道としては、これが最短かつ最も効率的な道である。日本の道路事情を知る人であれば、このことに疑いはないであろう。

 仏道を歩みさえすれば、誰もがしあわせの境地たるニルヴァーナへと至る。そして、この一なる道は人が最短で目的地に到達する道であり、この世ではこれ以外の道によっては目的は達せられない。仏教徒であれば、このことに疑いはないであろう。

 事実、仏道を歩みさえすれば誰もがしあわせの境地に達し得ることは間違いないことである。また、仏道を歩むことそれ自体が楽しみと栄えを伴うことであるとも説かれる。このようなことから、人々が仏道を歩まない理由はない筈である。にも関わらず、実際には多くの人々が仏道を歩むことをしない。これはなぜであろうか。

 それは、

 「仏道を歩みさえすれば誰もがしあわせの境地に達し得る。また、仏道を歩むことそれ自体が楽しみと栄えを伴うことである。」

ということが信じ難いと言うことに尽きるであろう。つまり、仏教への疑いを残しているということである。

 もちろん、もし覚りが虚妄なるものであるならばこの疑いを生じるのも当然のことであろう。しかしながら、覚りは虚妄ならざるものであることは、実際に覚りを生じた人にとっては明らかなことなのである。そして、そのことは、釈尊以来複数のブッダが知り得たままに説いていることである。

 すると、人々が仏道を歩むことに二の足を踏む理由は次のようなことしかあるまい。

 ○ 覚りを説くブッダが信用できない。
 ○ 覚りの実在が信じられない。
 ○ 覚りの存在は本当かも知れないが自分が覚れるとは思えない。
 ○ 他に簡便にしあわせに至る道があるように思える。
 ○ 得るものよりも無くすものの方が大きいような気がする。
 ○ 明確な理由は無いが仏道を歩みたくない。

 ここで、世間を見るに、意外にも最後の「明確な理由は無いが仏道を歩みたくない」人が多いことに気づかされるのである。まるで、子供が「大人になりたくない」「子供のままでずっと楽しんでいたい」などとわがままを言うようなものである。これは、要するに世の人々が苦に安住していて苦悩から脱却しようという気持ちに欠けていることを意味しているのであろう。

(以上引用)


*法津如来のコメント

SRKWブッダは、仏道を歩むことが難しい要因を大きく二つに分けて説かれています。

今回はその前半で、その主な理由は「明確な理由は無いが仏道を歩みたくない。」ということで、「世の人々が苦に安住していて苦悩から脱却しようという気持ちに欠けていることを意味しているのであろう。」ということです。

さて、明日の後半では、どのような要因が述べられるのでしょうか?