SRKWブッダ著「仏道の真実++」右も左もわからない修行者へ(4の4)

(以下引用)

 ◇ 仏道を歩む目的

 目的地は、ニルヴァーナである。そこに至るための道を仏道と呼ぶわけである。ここでニルヴァーナとは、

 ● 貪りや情欲が消滅して完全な自制力に転換した境地
 ● 怒りや嫌悪が消滅して揺らぐことのない落ち着きが定まった境地
 ● 愚かさや迷いが消滅して労せずして最上の行ないだけを為す境地

を指している。

 さらに平易な表現では、次のように言ってよいであろう。

 ● まったく、きょろきょろすることがない
 ● まったく、いらいらすることがない
 ● まったく、じたばたすることがない

 ニルヴァーナにおいては、次のようなことが日常に体現される。

 ● いずこからか不意にやって来る衝撃音や怒声、罵声にまったく驚かない(どきっとしない)
 ● 突然、目の前に飛び出た衝撃的映像にまったく驚かされない(ひやっとしない)
 ● 顔が触れ合うほどの至近距離に他人が近づいてきても嫌でない(ぞわっとしない)
 ● 全世界において嫌いな人が一人もいないと確信する(すべての人が親族や我が子のように見える)
 ● 他の人の行為に、影響を受けない(おののかない、じれない、せかされない)
 ● 他の人の行動に、いかなる悪意をも見出せない(悪意が何かさえ思い出せない)
 ● 争いに巻き込まれることが無くなり、また他の人々の争いを見かけることも無くなる
 ● (大好きだった人でも)お酒を一滴たりとも飲めなくなる
 ● あらゆる味わいが余韻を残さず、同時に嫌な味も無い(味や旨みは正常に分かる)
 ● 過去に為したことについて、気にやむことが一切無くなる(くよくよしない)
 ● 未来のことについてとくに思い悩むことがない(あくせくしない)
 ● 身体の中心軸が通り、重心が安定する(動作が基本的に対称的になる)
 ● ため息をつくことが出来ない(その演技さえ出来ない)
 ● (時を経て)声が響く声になる
 ● (時を経て)瞳が透き通ってくる
 ● すべてがそれしかないぴったりのタイミングで起こることを知る
 ● [諸天および神々が何としてでも仏を守護する]ことを知る

 すなわち、ニルヴァーナとは、好ましからざる、余計な、煩いを生じるような識別作用が完全に無くなり、くつろいだ、ときほごされた、怒ることのない、世の一切と争わない境地である。したがって、ニルヴァーナに至った覚者を驚かせたり、動揺させたり、怒らせたり、争ったりすることはできない。世間においても、怒ることがない人を仏様のようだと言うことがあるが、ニルヴァーナはそれが極まった不動安寧の境地である。

 なお、このニルヴァーナは、一旦そこに至ればその後は一瞬たりとも途切れることなくその人を安穏たらしめるものである。つまり、ニルヴァーナにいる人は一瞬たりともニルヴァーナ以外の境地に堕してしまうことがない。要するに、このニルヴァーナを維持するためにいかなる努力も必要としないということである。そこで、「ニルヴァーナに住する」と説かれることになる。

 ところで、目的地に到達しても、そこからさらに別の目的地に向かう必要があるのであればその道は果てしないものであると言わざるを得ないであろう。しかしながら、仏道を歩むことについてはそのようなことはない。なぜならば、ニルヴァーナに達してしまえば、さらに別の目的地に向かう必要などないからである。つまり、ニルヴァーナは人の究極の目的地ということである。そこで、人が覚ることを「苦しみの此岸からしあわせの彼岸へと渡る」と表現するわけである。要するに、向こう岸に渡ったのであるから、さらにどこか別の場所に渡る必要はないということである。

 このことを理解していないと、覚った後も修行が必要だなどという誤った見解を抱くことになる。修行には、終局がある。それで、覚った人を修行完成者とも呼ぶのである。

(以上引用)

*法津如来のコメント

ニルヴァーナ(涅槃)の内容が非常に具体的で、これは覚った人しか書けないなとSRKWブッダのホームペジで読んだ時に思ったものです。

私が解脱して、今この文章を読んでみると、全くこの通りだと言えます。

しかし、細かい点は人により、少しことなるかもしれませんので、細かい点にはこだわらないようにしてください。

例えば、「● ため息をつくことが出来ない(その演技さえ出来ない)」について、私は「法の句」を聞いて、解脱したようだと思いながらも、私はため息が出たのです。それで、私は解脱してないのかなという疑念が出ましたが、その後、解脱知見を得て、解脱を確信しました。今では、ため息は演技でもできません。