SRKWブッダ著「仏道の真実++」修行(10)

(以下引用)

【修行】(10)

 さて、もしも覚りに向けた修行が、たとえば幾何学を理解するようなことであるならばまだ分かり易いであろう。つまり、シンプルな幾何学の証明を沢山学んでおき、その上で高度な幾何学の問題に取り組む。ここで充分に学んでいればその問題が周到に解けるものと期待され得るというようなものである。実際、素養を身につけた人は、問題を見た瞬間にその具体的な解き方がひらめくであろう。

 ところが、覚りに向けた修行はこのような単純な構図とはならない。何となれば、経典や論典、釋などを沢山読んでおきさえすれば法の句の理解が確実に生じると保証されるなどというわけにはいかないからである。もちろん、ある修行者は法の句を耳にして直ちにその理解を生じ、解脱を果たす。それが彼の修行の結果であることは明らかである。では、どうして法の句を聞いて理解できる修行者とそうでない修行者とに分かれてしまうのであろうか。

 そこで、「功徳」ということが説かれることになる。仏道修行の結果として功徳が積まれ、それが充分に積まれている人に解脱が起こるという構図である。幾何学を譬えにすれば、功徳とは問題を見た瞬間に適切な補助線を思いつくということに相当する。これさえ見出せば、あとはシンプルな公理や公準を適用して問題を解くことができるであろう。同様に、功徳を積んだ修行者は、法の句を聞いた瞬間に自ら積んだ功徳によって法の句の意味について蓋然性のある意味づけを為し遂げるのである。そして、その土台の上で法の句の真の意味を理解することになる。

 ところで、なぜ功徳のような別の言葉を作り出して説明するのかと言えば、修行の結果解脱が起こるというのでは修行量が問題にされてしまう恐れがあるためである。現実には、見掛けの修行量と覚りの成否は連動しない。そこで、功徳が覚りに直結するものであるとして論議されることになったわけである。幾何学で言えば、練習問題を手当たり次第に解いた量が見掛の修行量であり、効果的に練習問題を解いて問題の出題傾向を網羅した人が功徳を積んだ人に相当する。後者の方が、新しい問題を見たときにも上手く対応できると期待されるであろう。同様に、功徳を積んだ修行者は、この世に初めて出現した法の句を聞いて、その真の意味を理解できると期待されるということである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

今回の引用文は少し長いので、繰り返し読んで理解しようとするならば、以下の文章を繰り返し読んでください。

「ところで、なぜ功徳のような別の言葉を作り出して説明するのかと言えば、修行の結果解脱が起こるというのでは修行量が問題にされてしまう恐れがあるためである。現実には、見掛けの修行量と覚りの成否は連動しない。そこで、功徳が覚りに直結するものであるとして論議されることになったわけである。

幾何学で言えば、練習問題を手当たり次第に解いた量が見掛の修行量であり、効果的に練習問題を解いて問題の出題傾向を網羅した人が功徳を積んだ人に相当する。後者の方が、新しい問題を見たときにも上手く対応できると期待されるであろう。

同様に、功徳を積んだ修行者は、この世に初めて出現した法の句を聞いて、その真の意味を理解できると期待されるということである。」


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