SRKWブッダ著「仏道の真実++」具体的な覚りの機縁(広義)(3)

(以下引用)

【具体的な覚りの機縁(広義)】(3)

 ● 瞑想(メディテーション)を捨て去ることは、覚りの機縁となる。これに限らず神秘的な現象はすべてその対象となる。これらは一種興味深いものではあるが、覚りとは無関係である。したがって、どこまで掘り下げて体得しても時間の無駄である。これは食物に譬えれば、瞑想は酒のようなものに過ぎないということである。飲んでも栄養とはならず、加水分解されて終わる。大量に飲めば、身体に大きな負担を掛ける。もちろん、酒を飲むと日常を離れた独特の精神状態となるのは確かである。この状態にある者どうしは親しくなるが、それは酔っている間のことに過ぎない。酔いが覚めれば親しさも元の木阿弥である。また、これによって暴力的な事件が起きることもある。実例を挙げるまでもなく、酒の席での失態は多くの人が経験していることであろう。そして、酒の本当の恐ろしさは、止めることが極めて難しいということである。どんな嫌な目に遭っても、人々は次の酒宴を楽しみにしてしまうのである。同様に、瞑想は人に何ももたらさない。ただ興味深い神秘的な現象を味わうだけのことである。瞑想を解けば、素晴らしい境地も元の木阿弥である。瞑想によって修行が進むことは何一つない。そもそも、瞑想に耽るものは功徳を積むことがない。そして、当然のことながら覚ることがない。

(以上引用)

*法津如来のコメント

「瞑想(メディテーション)を捨て去ることは、覚りの機縁となる。」・・・この言葉は覚りを目指して瞑想修行してきた人々には衝撃的なものでしょう。

しかし、その事実を否定的にばかり考える必要はありません。瞑想修行をしてない人々には体験できない覚りの機縁だからです。瞑想をしていた人がその意味を知り、それを捨てることによって得られる体験だからです。

それにしても、これほど明確に瞑想の意味が明らかにされるとさっぱりします。

「瞑想は酒のようなものに過ぎないということである。飲んでも栄養とはならず、加水分解されて終わる。大量に飲めば、身体に大きな負担を掛ける。」・・・瞑想を酒にたとえるとその意味がよくわかります。

「瞑想によって修行が進むことは何一つない。そもそも、瞑想に耽るものは功徳を積むことがない。そして、当然のことながら覚ることがない。」・・・というわけで瞑想を捨て去ることは、覚りの機縁となるのです。

最後に以前にも引用したダンマパダの偈を引用します。
271、272 わたしは、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。




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