石法如来の特別寄稿「境涯と因縁(その1:境涯)」

私は、この世に生を受けてもうじき70年になります。平和だった、日本という国の歴史上一番良い時代に生まれ育ち、戦後の高度成長期も経験し豊かな日常が築かれた事を思い出します。
私は覚り以前にも、自分自身が生まれ育った境涯を「天上界」に近いものであったと振り返っています。読者の皆様は、自分自身の境涯をどの様に捉え・考えておられるでしょうか?

仏教には、境涯を表す言葉として六道(ろくどう・りくどう)というものがあり・・・「仏教において、衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界(あるいは境涯)のこと。六趣、六界のこと。」とし、「六道には6つがあり、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道」と記されています。『ウィキペディア(Wikipedia)より引用』

SRKWブッダは、六道を諸界(しょかい)として「原始的、古典的仏教観においては、法界だけではなく諸界が世界に距離を隔てて点在しているものと考えられた。具体的には、天界、梵天界、修羅界、地獄界などである。」としたあと、「しかしながら、諸界が地上の遙か上空部や地面の下部に物理的に存在しているわけでは無いことは現在では周知の事実となった。」と著書にあります。(『ブッダの世界観』SRKWブッダ著、98頁引用)

境涯(六道)について私の見解は、「六道(に代表される種々なる境涯)は全てこの世に存在し、この世を離れた場所に物理的に存在している訳ではない。」というものです。

ゴータマ・ブッダの教えの中に「一切(いっさい)」というのがあり、自らの主観と客観以外の世界は単なる言葉に過ぎないと言い切りましたが、私も同様の立場を取ります。
「・・・いまブッダが人間の感官とその対象の問題をとりあげる取りあげ方は、まったく現実そのものに焦点をあてていることを示している。この眼で見るところ、この耳で聞くところ、この身体で触れるところ、これが「一切」である。この「一切」をおいて、いかに他のことを語っても、それは所詮、単なる言説にすぎないのだといっておる。それこそ、まさにリアリストの立場であるというものであろう。」(『原初経典阿含経』増谷文雄著・筑摩書房、187頁引用)

私は、仏教にある「六道」あるいは「六道輪廻」という言葉は、私達の住んでいる世界から遠く離れた世界に別に存在するのではなく、むしろ私達の世界そのものを表していると言いたいのです。
人間には、それぞれ「境涯」というものがあり、大きくは国によってあるいは地域によって更には時代によって違いはありますが、結局は同類項同士が集まり、、仮に紛争・戦争地であってもそれに関係ない人間も居ることを考えたら一括りで境涯を区別・選別することは誰にも出来ないし、また不可能なことでもあります。

仮に紛争・戦争の多い地域に生まれた人は、もしかして自分は「地獄界」だと認識しているかも知れないし、日々喰うや喰わずの境涯に生まれ育った人は、自分は「餓鬼界」だと・・・。また動物の世界のように弱肉強食の中に生まれ育った人は「畜生界」、争い事が絶えず休みなく喧嘩などしている環境に生まれ育った人は、自分は「修羅界」であると捉えているかも知れません。

境涯というものは、仮に近くに住んでいる親子兄弟でも違いがあり、同類項の中でも「似たような境涯」は山ほどあっても、仮に一億人人(ヒト)が存在するなら一億通りの境涯があると言え、簡単に「境涯とはこの様なものだ」と断定できる性質のものではありません。
また、境涯は仏教の中心思想である「無常」の法則の範疇に入りますから、境涯と言えど流動的なものであり決して固定的なものではありません。要するに、どのような境涯に置かれても決して悲観する必要は無いということになります。


*法津如来のコメント

本日、2回目のブログ更新です。
本日も石法の如来の特別寄稿を掲載します。
これは前段です。後日、続編があるそうです。


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