SRKWブッダ著「仏道の真実++」具体的な覚りの機縁(広義)(5)

(以下引用)

【具体的な覚りの機縁(広義)】(5)

 ● 我執や愛執を離れた人がこの世に存在し得るということを認知することは、覚りの機縁となる。それが一時的に世に出現した化身であっても、そうである。これは、善知識の出現を見る機縁となることがらである。このとき、自分もまた我執や愛執を離れなければならない。それによって、善知識が明らかとなるからである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

ここで説かれている内容はすこし難しい。我執や愛執を離れた人がこの世に存在し得るということを認知することは、覚りの機縁となることを知る前に理解しなければならないことがあるからです。

それは他人はそれぞれ異なった考え方をしていることを知るべきなのです。別の言い方をすると、人は一人ひとり違った人であるということです。
それを知る以前の私は、人は皆自分と同じ考え方、感じ方をするものだと思っていました。私が中学生
の時、友人にある一言を言ったのですが、すると彼は急に怒り出したのです。私はなぜ彼が急に怒り出したのか全然理解できませんでした。私が幼稚な中学生だったということもありましたが、その時、初めて人は自分と違う考え方、感じ方をするものだと自覚しました。

先日9月1日に掲載させて頂きました石法如来の寄稿にありましたが、私も彼と同様に、両親の離婚を経験していました。それが原因でしょう、当時の自分は非常に利己的な人間でした。また、人は皆そのように利己的な者であると考えていたのです。

ですから、「我執や愛執を離れた人がこの世に存在し得るということ」は到底信じることのできないことでした。

(我執とは、自分の存在への執著です。愛執とは自分のものとい言う執著です。)

しかしそれにもかかわらず、我執や愛執を離れた人がこの世に存在し得るということを認知することができれば、それは覚りの機縁になるのは間違いないことです。



この記事へのコメント

m
2020年09月04日 19:17
理解が深まる補足説明を毎回入れてくださりありがとうございます。
ノブ
2020年09月06日 16:37
私自身もそうですが、SRKWブッダやその周縁の自らの覚りを称する方々には、共通して父性について欠陥があったのではないかと、感じることがあります。この父性の欠陥が覚りを目指す動機になっているのではないかと。
健やかならざる故に覚り(完成)を目指したのであり、元々健やかな人には別に教えは必要ない。教えの起源が自身に備わっているからです。

この何某の欠陥は育ちや生まれに起因するものと考えるのが自然ですが、これは例えば、借金を抱えて生まれて来たようなものだと思います。借金を0にするのが覚りなのではないでしょうか。世にはこの意味で財産家もまた存在するのであり、彼らが生まれながらに裕福なのか、生後に積み増したのか知らないが、優れた人達の存在についても知っておいた方が良いと思います。

SRKWブッダが何処かでこのようなことを言っていました。
無い故に、むしろ純粋な形でそれが在る。

つまり、マイナスの境遇だからと言って悲観せず、むしろそれを逆手にとって健気に歩めと言うことでしょう。