SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むには(3)

(以下引用)

【功徳を積むには】(3)

 ● 修行者は、決して自分を捨て去ってはならない。自分自身こそが功徳の拠り所である。もし自分を捨て去ってしまうならば、覚りも何も意味をなさない。覚りは、自分を決して捨て去らないところに存在しているからである。もちろん、自分にこだわる余り、他の人を傷つけたり悲しませたりしては本末転倒である。すなわち、自分を含めて誰の居場所を奪ってもならない。ここにおいて、修行者は大団円の意味を知ることになるのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「天上天下唯我独尊」という言葉をご存知だと思いますが、これは釈尊が誕生の時述べた言葉だとされています。これは自分だけが偉いのだと誤解する人もいるでしょうが、真の意味は自分を含めてすべての一人一人が尊いのだということなのです。

ある意味、このことが本当に腑に落ちることが、覚るということなのです。

そうであるならば、修行者は決して自分を捨て去ってはならないのです。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むには(2)

(以下引用)

【功徳を積むには】(2)

 ● 修行者は、悲しみを熟知し、しかも悲しみを知らぬ人であれ。そうでなければ、解脱しないからである。これは、悲しみに打ちのめされてはならないという意味である。この世には悲しみが多いことを知ったとき、ある人はどうすればよいのか分からなくなり、立ちすくんでしまうだろう。しかし、それでは仏道を歩むことはできない。修行者は、悲しみを超えて道を歩まなければならない。そして、あるとき、この世のギリギリのシチュエーションに遭遇するであろう。そこで、修行者は必ずブッダ(=悲しみを知らぬ人)の立場に立たなければならない。それを為し遂げたとき、大きな功徳が積まれる。

(以上引用)


*法津如来のコメント

人は自分の悲しみはもちろん他人の悲しみも嫌います。

そのために、悲しみを見ないようにし、悲しみがないようにごまかし、悲しみを隠し、悲しみから逃げようとします。

そのために、悲しみの真実がわからないのです。

そのために、隠せないほどの悲しみに直面すると、悲しみに打ちのめされてしまうのです。

修行者は、悲しみから逃げることなく、悲しみに直面し、悲しみの真実を見極めて、悲しみが悲しみにならいような人にならなければならないのです。

その際、自分の悲しみに直面する力がないのならば、過去の他人の悲しみに直面することから始めてもよいのです。悲しみに直面する力をつけてください。

そして、自分の悲しみに直面してください。

そうすれば、悲しみの真実がわかるでしょう。

そうすれば、悲しみが悲しみにならない人になるでしょう。



石法如来の特別寄稿「境涯と因縁(その1:境涯)」

私は、この世に生を受けてもうじき70年になります。平和だった、日本という国の歴史上一番良い時代に生まれ育ち、戦後の高度成長期も経験し豊かな日常が築かれた事を思い出します。
私は覚り以前にも、自分自身が生まれ育った境涯を「天上界」に近いものであったと振り返っています。読者の皆様は、自分自身の境涯をどの様に捉え・考えておられるでしょうか?

仏教には、境涯を表す言葉として六道(ろくどう・りくどう)というものがあり・・・「仏教において、衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界(あるいは境涯)のこと。六趣、六界のこと。」とし、「六道には6つがあり、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道」と記されています。『ウィキペディア(Wikipedia)より引用』

SRKWブッダは、六道を諸界(しょかい)として「原始的、古典的仏教観においては、法界だけではなく諸界が世界に距離を隔てて点在しているものと考えられた。具体的には、天界、梵天界、修羅界、地獄界などである。」としたあと、「しかしながら、諸界が地上の遙か上空部や地面の下部に物理的に存在しているわけでは無いことは現在では周知の事実となった。」と著書にあります。(『ブッダの世界観』SRKWブッダ著、98頁引用)

境涯(六道)について私の見解は、「六道(に代表される種々なる境涯)は全てこの世に存在し、この世を離れた場所に物理的に存在している訳ではない。」というものです。

ゴータマ・ブッダの教えの中に「一切(いっさい)」というのがあり、自らの主観と客観以外の世界は単なる言葉に過ぎないと言い切りましたが、私も同様の立場を取ります。
「・・・いまブッダが人間の感官とその対象の問題をとりあげる取りあげ方は、まったく現実そのものに焦点をあてていることを示している。この眼で見るところ、この耳で聞くところ、この身体で触れるところ、これが「一切」である。この「一切」をおいて、いかに他のことを語っても、それは所詮、単なる言説にすぎないのだといっておる。それこそ、まさにリアリストの立場であるというものであろう。」(『原初経典阿含経』増谷文雄著・筑摩書房、187頁引用)

私は、仏教にある「六道」あるいは「六道輪廻」という言葉は、私達の住んでいる世界から遠く離れた世界に別に存在するのではなく、むしろ私達の世界そのものを表していると言いたいのです。
人間には、それぞれ「境涯」というものがあり、大きくは国によってあるいは地域によって更には時代によって違いはありますが、結局は同類項同士が集まり、、仮に紛争・戦争地であってもそれに関係ない人間も居ることを考えたら一括りで境涯を区別・選別することは誰にも出来ないし、また不可能なことでもあります。

仮に紛争・戦争の多い地域に生まれた人は、もしかして自分は「地獄界」だと認識しているかも知れないし、日々喰うや喰わずの境涯に生まれ育った人は、自分は「餓鬼界」だと・・・。また動物の世界のように弱肉強食の中に生まれ育った人は「畜生界」、争い事が絶えず休みなく喧嘩などしている環境に生まれ育った人は、自分は「修羅界」であると捉えているかも知れません。

境涯というものは、仮に近くに住んでいる親子兄弟でも違いがあり、同類項の中でも「似たような境涯」は山ほどあっても、仮に一億人人(ヒト)が存在するなら一億通りの境涯があると言え、簡単に「境涯とはこの様なものだ」と断定できる性質のものではありません。
また、境涯は仏教の中心思想である「無常」の法則の範疇に入りますから、境涯と言えど流動的なものであり決して固定的なものではありません。要するに、どのような境涯に置かれても決して悲観する必要は無いということになります。


*法津如来のコメント

本日、2回目のブログ更新です。
本日も石法の如来の特別寄稿を掲載します。
これは前段です。後日、続編があるそうです。


SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むには(1)

(以下引用)

【功徳を積むには】(1)

 ニルヴァーナを目指して修行する人にとって、どうすれば功徳を積むことができるのかということは重大な関心事であろう。その具体的なことを述べたい。

 ● 修行者は、自分を含めて、誰も悲しませてはならない。悲しみあるところには、決して功徳は生じないからである。これは、逆に見れば人は知らずに他の人を悲しませている恐れがあることを指している。したがって、何かを為したならば注意して周りの様子を見なければならない。このとき、こころある人は自分の愚かさに気づくことがあるであろう。そして、今後は自分を含めて誰も悲しませないようにしたいという決心を生じるであろう。それが功徳そのものとなる。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「自分を含めて、誰も悲しませてはならない。」は、特別な意味があります。
まず、自己嫌悪や自己否定や卑下することは、自分を悲しませることになります。

もちろん、相手に暴力を振るったり、暴言を吐いたり、避難することは相手を悲しませることになります。

その他にも、気づかなければいけないことがあります。自分と相手以外にの第三者も悲しませてはいけないのです。

たとえば、或る男性が何人かいる女性の前で、或る特定な女性だけに対して、「あなたは美しい。」と言ったらどうでしょうか? 言われた女性は喜ぶかもしれません。しかし、それを聞いた他の女性の中には、その言葉を聞いて、嫉妬の心が生まれ悲しむかもしれません。そのようなことがないようにということです。


SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むこと(7)

(以下引用)

【功徳を積むこと】(7)


 ● 功徳は、功徳を呼ぶ。この意味において、修行者は小さな功徳を軽んじるべきではない。実際には、功徳を積むことによって他の人を覚り(安らぎ)に近づけることになるであろう。そして、そのことによって自分の安らぎがいや増し、巡り巡ってさらなる功徳が積まれたことになるわけである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「功徳は、功徳を呼ぶ。」これは、「類は友を呼ぶ。」と同じ真理に基づいて説かれた言葉です。

ですから、小さな功徳でよいのです。実際には小さいか大きいかわかりませんから、功徳を積もうという心掛けが大切なのです。

また、「悪は悪を呼ぶ」ということもありますから、小さな悪でも止めることができたら、それは大きな悪を止めることになり、大きな功徳になります。

SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むこと(6)

(以下引用)

【功徳を積むこと】(6)

 ● 功徳は、これで功徳が積まれるだろうなどと意識して積むものではない。しかしながら、仏道を歩む修行者は功徳を積むことそれ自体は意識すべきである。これは、功徳ということを知らずに無邪気に功徳が積まれるものではないという意味である。例えば、勉強は意識して行わなければ身につかない。つまり、漫然と勉強するなどということは意味をなさない。それと同様である。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「功徳は、これで功徳が積まれるだろうなどと意識して積むものではない。しかしながら、仏道を歩む修行者は功徳を積むことそれ自体は意識すべきである。」ということは、前回、前々回に紹介した「功徳は、行為の帰趨ではない。功徳は、想念の帰趨ではない。」と同様に仏教の微妙な特質です。

功徳を重視すべきであるが、執着するなということだと理解してよいでしょう。




SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むこと(5)

(以下引用)

【功徳を積むこと】(5)

 ● 功徳は、想念の帰趨ではない。功徳を積もうとして何を想い、何を念じても、それによって功徳が積まれることはないということである。つまり、功徳はこころに積むものであるが、それは想念によるものではないという意味である。逆に言えば、想念によって功徳が損なわれることもないということでもある。このため、観(=止観)を為すときには善だけでなく悪についても想念を巡らせて構わないことになる。ただし、もちろん、観の完成においては善悪そのものを超えた境涯を知ることとなる。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「功徳は、行為の帰趨ではない。」というと、功徳は、想念の帰趨かということになりますが、そうではありません。「功徳は、想念の帰趨ではない。」ではないのです。

ここで、今回の引用文を理解する上で参考になる金剛般若経の第6章の一部を引用します。(岩波文庫「般若心経・金剛般若経」より)

(以下引用)
それはなぜかというと、スブーティよ、実にこれらの求道者・すぐれた人々には、自我という思いはおこらないし、生存するという思いも、個体という思いも、個人という思いもおこらないからだ。また、スブーティよ、これらの求道者・すぐれた人々には、《ものという思い》もおこらないし、同じく、《ものでないという思い》もおこらないからだ。また、スブーティよ、かれらには、思うということも、思わないということもおこらないからだ。それはなぜかというと、スブーティよ、もしも、かれら求道者・すぐれた人々に、《ものという思い》がおこるならば、かれらには、かの自我に対する執着があるだろうし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるだろうからだ。
(以上引用)

要するに、功徳は執着がないときに積まれるのです。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むこと(4)

(以下引用)

【功徳を積むこと】(4)

 ● 功徳は、行為の帰趨ではない。要するに、功徳は気持ちの問題であるということであり、功徳はこころに積むものであると知られるということである。このため、行為の多寡とは無関係に功徳は積まれる。ある場合には、何一つ行為せずに功徳が積まれる。つまり、やさしい行為が功徳になるわけではなく、やさしさの追究が功徳を積むことの本体であるということである。この真理は、仏教の一つの微妙なる特質である。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「功徳は、行為の帰趨ではない。」ということは、仏教の一つの微妙なる特質でなのですが、この真理を理解する上で参考になる金剛般若経の第28章を引用します。(岩波文庫「般若心経・金剛般若経」より)

(以下引用)

さらに、また、スブーティよ、実に、立派な若者や立派な娘が、ガンジス河の砂の数だけの世界を七つの宝で満たして、それを如来・尊敬さるべき人・正しく目ざめた人に施したとしよう。他方では、求道者が、<法は自我というものがなく、生ずることもない>と認容しえたとすれば、この方がそのことによって、計り知れず数えきれないほどさらに多くの功徳を積んだことになるだろう。けれども、また、実に、スブーティよ、求道者・すぐれた人は、積んだ功徳を自分のものにしてはならないのだ。」
 スブーティ長老は訊ねた―「師よ、求道者は、積んだ功徳を自分のものにすべきではないのでしょうか。」
 師は答えられた―「スブーティよ、自分のものにすべきであるけれども、固執すべきではない。そういう意味を込めて、<自分のものにすべきではない>と言われているのだ。」

(以上引用)


SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むこと(3)

(以下引用)

【功徳を積むこと】(3)

 ● 個人の性格傾向と功徳とは関係がない。すなわち、どんな性格の人でも等しく功徳を積むことができる。これは、そもそも解脱がこの名称と形態(nama-rupa)の脱落・終滅という根本の現象であるためである。性格傾向は、このうちの名称(nama)作用に関わることがらであり、どのような性格傾向の上にも功徳を積むことができる。そして、解脱によってこの余計なものは脱落・終滅することになる。結果、極端な性格傾向は薄らぎ、仏としての円かな性格が出現することになる。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この引用文は、「どんな性格の人でも等しく功徳を積むことができる。」ことを言いたいのです。

ですから、自分はおしゃべりだから功徳を積めないとか、無口だから功徳を積めないとなどと悩む必要はありません。
その根拠を解脱の根本に基づいて説明しています。

解脱は、この名称と形態(nama-rupa)の脱落・終滅という根本の現象であるためです。

この名称とは、五蘊(身、受、想、行、識)の想であり、この形態とは行に相当します。

「この名称と形態(nama-rupa)の脱落・終滅」とは、不必要な想と行の脱落・終滅です。

というわけで、個人の性格傾向は、余計な想に起因であるため、功徳を積むこととは無関係なのです。

余計な想が脱落した人は、わかりやすく言えば、好き嫌いのなくなった人です。





SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むこと(2)

(以下引用)

【功徳を積むこと】(2)

 ● 功徳を積んでいるときにそのことが意識されることはないが、実際に覚ったときにそれまで充分に功徳を積んだことが覚知される。これは、解脱知見の一つである。たとえば、睡眠中にはしっかりと眠っているなどというような意識はないが、翌朝気持ちよく目覚めたときにぐっすりと眠ったことを知るようなものである。このとき、スッキリと目覚めただけでなく疲労が回復していることも実感されるであろう。解脱知見においても、自分が確かに妄執を滅ぼして目覚めたことを知るだけでなく、覚り以前の重荷を下ろし心身が軽々としていることが実感される。

(以上引用)


*法津如来のコメント

功徳を積むことについての睡眠の比喩は、非常に的確でわかりやすいものです。

確かに、睡眠中はしっかりと眠っているなどの意識はありませんが、翌朝しっかりと眠っていればよく眠ったとわかります。

ただ、寝る前に今日はよく眠れそうだとはわかります。もちろん、眠っている最中はよく眠っているかどうかはわかりませんが。

まわりの人々にやさしく、楽しく、多くの善いことをするならば今日はよく眠れそうだとわかります。

功徳もそのようなところがあります。


石法如来の特別寄稿「不可思議な夢(師の交代)」

人生長く生きていると不可思議な現象に出会うことはあり得るとして、私が今日語ることも「その様な内容」で話が出来すぎているように思いますが書いてみます。

私が、不可思議な夢と題して語ろうとするのは、仏教を学ぶに当たって最初の師となった阿含宗の桐山靖雄氏の夢を見たことなのですが、その件について現在の師(SRKWブッダ)に夢の内容記事を書いたメールを発信したのは2017年10月7日です。
そこでは、「2日前に不思議な夢を見ました。私の最初の師である桐山靖雄氏の夢です。」と書いています。

2020年9月13日投稿の私の記事「私の発心(ほっしん)」によると、「私は、その後の10月6日に師(SRKWブッダ)に初めてお手紙を差し上げ、縁が生じのちスカイプを通じたお話の後、10月10日には最初の解脱を経験します。」と書きました。
正確には、10月6日の数日前に「本当に簡単な内容」のお手紙を差し上げ、SRKWブッダから最初の電話を頂いたのが10月5日ですが、「非通知」の電話だったので出ないでいたのです。

ところが、ワンギーサ先生(法津如来)に聞きますと「SRKWブッダは携帯を持っていないので、誰かから借りて電話したのでは・・・」と聞き、こちらから熊本に電話しその後最初のメールを送ったのが10月6日です。そこで自己紹介やら仏教での自分が考えていることなどを色々書かせて頂き、10月6日から7日までの間双方何通かのメールをやり取り致しました。

問題の桐山氏の夢を見たのは、10月7日の2日前である10月5日と言うことになります。10月5日はSRKWブッダが「非通知」で電話をくれた日です。
その日の朝に見たのが、桐山靖雄氏の夢だったと言うわけですが、思い起こせば色々示唆に富んだ内容の夢でした。

私は、勿論桐山氏とは面識はなく、当然会話を交わした事もありません。一番近くで接したのは、何回目かの阿含宗夏期伝法会に参加したときに、北海道の代表者が宣誓しなければいけないと言うことでその代表に選ばれ宣誓した時位です。
桐山氏は、当時約30万人(公称)の会員を擁する教祖であって教団創設者、私の目から見るとまさに「雲の上の存在」そのものです。

その桐山氏の夢とは・・・。ある民家風の道場があり規模は大きくもなく小さくもありません。
私は、その道場風の建物の玄関先に立っています。当然、建物内でどの様なことが行なわれているか私には分かりません。
ふと玄関を見ますと、桐山氏が若い男性の弟子一人を伴い、これからその家から出て行くよう準備をしています。・・・準備が終わったら、弟子が玄関の戸を開け桐山氏を先に外に出します。
私が玄関先に立っているのに、全く無視するような感じで二人は「ただ前だけを見て無言」で歩いて行きます。・・・玄関の先には神社の鳥居のような門があります。そこを、桐山氏弟子共に一度も振り返ること無くその門から出て行きます。

それが夢の顛末です。・・・私は、35歳で阿含宗を退会しましたが、その間もその後も桐山氏の夢などただの一度も見たことはありません。
その夢は2017年で、私が66歳の時ですから阿含宗を退会して31年も経過しています。
私はその間、ずっと一人で自分なりの修行を続けて参りましたが、もしかしたら私の心底には桐山氏がずっと住み着いていたのかも知れないと考えました。

それが、SRKWブッダと言う新しい師と巡り会うことになり、今までとは状況が変わったと言うことで、早々に立ち退きを図ったのではと考える事も出来ます。
人間は、表層だけ見ても物事の真実は見えません。私の、心底の世界では「師の交代」が成され、次のステップに向かうことが既に決まっていた・・・と捉えることも出来るのです。


*法津如来のコメント

本日、2回目のブログ更新です。
本日も石法の如来の特別寄稿を掲載します。




SRKWブッダ著「仏道の真実++」功徳を積むこと(1)

(以下引用)

【功徳を積むこと】(1)

 前の章で述べたとおり、功徳を積むことが仏道修行の主要部分である。

 「自己の本性(ほんせい)に功徳があるのだ。見性が功であり、素直さが徳である。」(六祖壇経)引用:世界の名著〈18〉禅語録(1978年)(中公バックス)柳田聖山(訳) ISBNー13:9784124006285  140ページ

 これは禅の六祖(=慧能ブッダ)の言葉であるが、功徳について見事に説明している。すなわち、功徳を積むことは見性することに役立ち、徳を培うこと——情欲を離れること——になるということである。ここで、見性とは、自分の中に生まれる以前から存在している人としての本当の気持ちを明らめることであり、これによって解脱が起こる。また、徳(=大徳)とはブッダの行為の別称である。

 ところで、功徳のこれらの性質は、山奥に籠もるような独居的な修行法によっては覚ることはできないことを暗に指摘しているものである。何となれば、このように功徳を積むことは人との関わりの中でのみ為し得ることだからである。

 さて、功徳とは仏の特相そのものである。先に引用したように、つねに本性(ほんせい)に目覚めていて素直な心で対応することを功徳と称するからである。すなわち、功徳とは自分の内側を護り、そして同時に外側に対応することに他ならない。このようにして、あらゆることがらについて功徳を積んだとき、ついに解脱が起こる。ただし、その積まれた功徳の程度は修行中に意識されることはない。

 以下に、功徳にまつわることがらを列挙したい。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この引用文で引用された言葉「「自己の本性(ほんせい)に功徳があるのだ。見性が功であり、素直さが徳である。」は、梁の武帝と達磨大師の問答に関する質問に対する六祖慧能の答えの一部です。この部分の全体を読めばわかりやすいので、是非読んでみてください。

簡単に言えば、武帝は「自分は寺を建てたり、僧に布施をしてきたが功徳があるか?」と質問しましたが、達磨大師は「功徳はない」と答えたという話しです。それは何故かという説明です。

この引用で重要なところは、「功徳のこれらの性質は、山奥に籠もるような独居的な修行法によっては覚ることはできないことを暗に指摘しているものである。何となれば、このように功徳を積むことは人との関わりの中でのみ為し得ることだからである。」




SRKWブッダ著「仏道の真実++」修行(10)

(以下引用)

【修行】(10)

 さて、もしも覚りに向けた修行が、たとえば幾何学を理解するようなことであるならばまだ分かり易いであろう。つまり、シンプルな幾何学の証明を沢山学んでおき、その上で高度な幾何学の問題に取り組む。ここで充分に学んでいればその問題が周到に解けるものと期待され得るというようなものである。実際、素養を身につけた人は、問題を見た瞬間にその具体的な解き方がひらめくであろう。

 ところが、覚りに向けた修行はこのような単純な構図とはならない。何となれば、経典や論典、釋などを沢山読んでおきさえすれば法の句の理解が確実に生じると保証されるなどというわけにはいかないからである。もちろん、ある修行者は法の句を耳にして直ちにその理解を生じ、解脱を果たす。それが彼の修行の結果であることは明らかである。では、どうして法の句を聞いて理解できる修行者とそうでない修行者とに分かれてしまうのであろうか。

 そこで、「功徳」ということが説かれることになる。仏道修行の結果として功徳が積まれ、それが充分に積まれている人に解脱が起こるという構図である。幾何学を譬えにすれば、功徳とは問題を見た瞬間に適切な補助線を思いつくということに相当する。これさえ見出せば、あとはシンプルな公理や公準を適用して問題を解くことができるであろう。同様に、功徳を積んだ修行者は、法の句を聞いた瞬間に自ら積んだ功徳によって法の句の意味について蓋然性のある意味づけを為し遂げるのである。そして、その土台の上で法の句の真の意味を理解することになる。

 ところで、なぜ功徳のような別の言葉を作り出して説明するのかと言えば、修行の結果解脱が起こるというのでは修行量が問題にされてしまう恐れがあるためである。現実には、見掛けの修行量と覚りの成否は連動しない。そこで、功徳が覚りに直結するものであるとして論議されることになったわけである。幾何学で言えば、練習問題を手当たり次第に解いた量が見掛の修行量であり、効果的に練習問題を解いて問題の出題傾向を網羅した人が功徳を積んだ人に相当する。後者の方が、新しい問題を見たときにも上手く対応できると期待されるであろう。同様に、功徳を積んだ修行者は、この世に初めて出現した法の句を聞いて、その真の意味を理解できると期待されるということである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

今回の引用文は少し長いので、繰り返し読んで理解しようとするならば、以下の文章を繰り返し読んでください。

「ところで、なぜ功徳のような別の言葉を作り出して説明するのかと言えば、修行の結果解脱が起こるというのでは修行量が問題にされてしまう恐れがあるためである。現実には、見掛けの修行量と覚りの成否は連動しない。そこで、功徳が覚りに直結するものであるとして論議されることになったわけである。

幾何学で言えば、練習問題を手当たり次第に解いた量が見掛の修行量であり、効果的に練習問題を解いて問題の出題傾向を網羅した人が功徳を積んだ人に相当する。後者の方が、新しい問題を見たときにも上手く対応できると期待されるであろう。

同様に、功徳を積んだ修行者は、この世に初めて出現した法の句を聞いて、その真の意味を理解できると期待されるということである。」


SRKWブッダ著「仏道の真実++」修行(9)

(以下引用)

【修行】(9)

 ● 修行は、途中においても心を安んじるものでなければならない。これは、修行は怪しげなものであってはならないという意味である。

(以上引用)


*法津如来のコメント

修行は始まりも善く、途中も善く、終わりも善くなければなりません。

ここでは途中について説かれています。

「心を安んじるもの」とは、心が落ち着き、静かになるものです。

「怪しげなもの」とは、心が危険を感じ、不安になるものです。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」修行(8)

(以下引用)

【修行】(8)

 ● 修行は、いつでも、どこでも、どんな時代でもできるものでなくてはならない。場所や環境を選ぶものは、最高のものとは言えないからである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この引用の意味では、修行は重力のようなものです。いつでも、どこでも、どんな時代でも働いています。場所や環境を選ぶものではあります。

しかし、重力を自覚しなければそれが意味がないように、修行はそれを修行として自覚しなければ意味がありません。

何を言いたいかと言えば、これは修行と思えば忍耐できるし、楽しくなるのです。

ただし、後に述べることになりますが、功徳は功徳を積もうとして積むものではありません。


SRKWブッダ著「仏道の真実++」修行(7)




(以下引用)

【修行】(7)

 ● 修行は、誰にでもできるものでなくてはならない。これは、身体に障害がある人でも修行できることを意味している。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「修行は、誰にでもできるものでなくてはならない。」・・・これは仏教は平等を説いているからです。

「これは、身体に障害がある人でも修行できることを意味している。」・・・これは仏道修行は精神的なものだからです。

また、特に身体に障害がある人について述べられているのは仏教を学ぶ人々の中に、障害者は覚れないという誤った考え方がある為でしょう。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」修行(6)

(以下引用)

【修行】(6)

 ● 修行は、終わりのあるものでなくてはならない。果てしない修行は誰も完成させることができないからである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「人生一生修行である。或いは修行に終わりはない。」というような考え方があります。このように考える方の修行ならば、修行に終わりはないでしょう。

しかし、仏道修行というものには終わりがあるのです。それは修行の完成、ニルヴァーナの達成です。これが修行の終わりです。

果てしない修行というものには、修行には完成がないということであり、目的に到達しないということです。このような修行ならば終わりはありません。
ニルヴァーナは確実なものでありますし、心ある修行者はそこに到達できるものなのです。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」修行(5)

(以下引用)

【修行】(5)

 ● 修行は、時間の無駄や紆余曲折を気にせずに行うべきである。しかし、それが最短の道筋となる。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「時間の無駄」とは、良い結果に結びつかなかった時に言われますが、失敗は成功の母(元)なのです。失敗という無駄と思われることがあるからこそ、成功があるのです。時間の無駄(失敗)を気にしては成功はありません。

また、失敗があるからこそ、次のステップがあり、次のステップに挑戦することが楽しいのです。

紆余曲折のない小説やゲームが楽しくないように、時間の無駄や紆余曲折のない修行は楽しくないのです。

そうであるならば、修行において、時間の無駄や紆余曲折を気にすることがおかしいのです。

「それが最短の道筋となる。」は、修行が完成した時にわかることです。




石法如来の特別寄稿「私の『発心(ほっしん)』」

「私の発心」と言う内容で記事を書こうと、ワンギーサ先生(法津如来)とやり取りしたメールを見ながら過去を振り返りました。
メールのやり取りは、2017年7月1日から始まりましたが、先生の懇切丁寧なご返事・教え・その他諸々が無ければ現在の私は存在しませんが、今思えばやはり縁が深かったんだなと思わざるを得ません。

私は覚りを得る以前、元職業軍人であり性格的にも攻撃的なところがあり、ストレートに言いたい事を書くので先生も閉口した面はあるかと存じますが、懲りずに付き合って下さり本当に沢山の事を教えて頂きました。
実際に起こった「発心」について、時系列に辿れば簡単に書けますが、内容的には複雑でありそう簡単ではありません。それは何故かと申しますと、私には「経済・投資脳」を持つという側面があり、それがこの件に関わっているので話が複雑化しているのです。

私の言う「経済・投資脳」とは、世の中の事象を考えるとき経済や投資を絡めて考えることで有り、自分的には小口の投資は30代半ばから始め、先物取引という危険な投資(投機)も40代で経験し、西暦2000年前後には小口ながら投資で成功を収めます。
投資に関して言えば、養父の存在が大きいと言えます。養父は真面目で勤勉、努力家で田舎の実業家であり投資家でした。

私は、40代頃より世界経済に感心を持ち国際商品相場の指標等を見て学んでおりました。既に、実際の相場からは離れていますが、「これから世界はどう動く?」については興味があります。諸々の経済指標は、未来を示す先行指標であり勉強になるのです。
私は、ワンギーサ先生とメールのやり取りを始めた頃、当時流行になりかけていた暗号通貨の取引を始めました。・・・最初、その投資(相場)はインターネットも詳しくないので乗る気では無かったのですが、「大きな相場になる」という予感が頭から離れず参加することにしたのです。

参加すると言っても、当時の相場(時価)で暗号通貨を購入し値上がりを待つだけ、特段何もすることはありません。必要なのは、自分自身の相場観だけです。・・・これらの情報については、ワンギーサ先生にも適時伝えておりました。
「経済・投資」を考える上で、私は師(SRKWブッダ)の「当事者であれ」という言葉を思い浮かべます。私は、ずっと経済・投資を自分自身の頭で考え、自分自身の責任で行い、その結果について全て自己責任で引き受けて来ました。全ては、自分自身の事であり自己責任の世界、甘くはないのです。・・・私は元々優柔不断な性格でしたが、投資を実践するうちに決断力が早くなりました。早く決断し行動しないと、損失が拡大するというのがこの世界ではよく起こることなのです。

2017年9月19日の、ワンギーサ先生のメールで状況が一変します。そのメールは、前日の21時43分に貰ったメールの追伸と言うことで、同日の09時13分発となっています。
最初に、「投資についての追伸です。」と書いています。・・・私は、このメールをちらっと見ただけで先生が私に対して何を言いたいのか一瞬で理解しました。
私自身の心の中に「恥じる気持ち」と「間違いを全て認める気持ち」が生じ、それまで参加していた投資(相場)を即日、「損失覚悟で手仕舞い(てじまい)」することにしました。

「手仕舞う(てじまう)」とは金融経済用語で、未決済の売買約定を反対売買などにより取引関係を解消することを言います。・・・損失覚悟とは、当然損失が出るものと予想されるも損失金額に囚われること無くそれらを行うと言うことで、それなりの決断を要しますが、私は即断即決で「自分自身の誤り」を正すべく、自分自身の取り得る最大限の努力を行い投資(暗号通貨)の世界から足を洗います。

たった一通の追伸メールが自分自身の仏教人生を変えるとは、その時点では全く想像出来ないことでした。
私は、その後の10月6日に師(SRKWブッダ)に初めてお手紙を差し上げ、縁が生じのちスカイプを通じたお話の後、10月10日には最初の解脱を経験します。
発心以後は、自分自身でも信じられないことの連続で、当時は何が起こったのか訳が分かりませんでしたが、師(SRKWブッダ)の言われる通りのことが、全て自分自身の身に起こったことは事実です。

2017年9月19日の追伸メールの一部を紹介致しますと・・・「投資については、9月16日の私のブログ記事「しあわせの形」が参考になると思います。・・・ブッダの教えはブログにも引用しておりますが、次の言葉です。
「さとりに至る実践のほかに、感官を修養することのほかに、
一切を捨て去ることのほかに、生ける者どもの平安を、われは認めない。」
・・・以上、あなたはもうすでに、このことはわかっておられるとは思いますが、参考までに追伸しました。・・・」

私は、ワンギーサ先生の言いたいことを一瞬で理解し、仏教者として本来進むべき道に速やかに自らの行動を修正する努力を行いました。今振り返っても、その行動は紙一重・・・もし、その時適切な行動をきちんと判断せず、歩むべき道の修正を怠ったなら現在の自分は存在しなかったことでしょう。
・・・発心は、決して単純に起こることでは無いのです。


*法津如来のコメント

本日二度目のブログ更新です。
発心について、具体的にわかるはずです。

SRKWブッダ著「仏道の真実++」修行(4)

(以下引用)

【修行】(4)

 ● 修行は、楽しいものでなくてはならない。楽しくなければ最後まで続かないからである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

前回の「修行は、自発的に行わなくてはならない。」という理由は、そうでなければ楽しくならないということもあります。

また、「ニルヴァーナは最上の楽しみ」と説かれていますが、ニルヴァーナを目指す修行も楽しいはずなのです。もしその修行が楽しくなければ、正しい修行と言えないのです。

SRKWブッダ著「仏道の真実++」修行(3)

(以下引用)

【修行】(3)

 以下に、このあり得べき修行についてポイントとなることを列記したい。

 ● 修行は、自発的に行わなくてはならない。そうでなければニルヴァーナに到達しないからである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

以下八項目で、このあり得べき修行についてポイントが述べられることになるのですが、今回はその第一番目です。

それは、「修行は、自発的に行わなくてはならない。そうでなければニルヴァーナに到達しないからである。」です。


「修行は、自発的に行うべきです。そうすればニルヴァーナに到達する。」と書かれてない理由は、自発的に行われても、ニルヴァーナに到達しない場合があるからです。しかし、そうであっても、修行は自発的に行うべきなのです。

なぜならば、人は無意識で思った通りの人間になるからです。これは一つの不思議です。

卑近な例をあげましょう。覚る前の私は無精で面倒くさがり屋でありました。ある時、食後に歯を磨いて「面倒くさいな、歯が全部取れて、磨ければいいのにな。」と思ったのです。それから、数十年後、見事に歯が全部抜けて、入れ歯になりました。お陰で、歯を全部取って磨けるようになりました。

もう一つの例は、私が中学生の時、覚りについて、聞き知って、覚れるものならば覚って見たいと思ったのです。それから、数十年後、見事に覚ることができました。




SRKWブッダ著「仏道の真実++」修行(2)

(以下引用)

【修行】(2)

 ところで、前の章で仏道は一なる道であると説明した。これを一なる修行法があるのだと誤解しないで欲しい。これは、覚りの基本的な道筋が唯一であるという意味だからである。とくに、道の歩みの最後の局面たる覚りの瞬間に起こることが皆同じであるので、このように表現されるわけである。具体的には、

 ● 法の句を聞き及び、それが智慧そのものであることを理解した人には直ちに解脱が起こる。

ということである。そして、人はこれ以外のことによってニルヴァーナに達することはあり得ない。そこで、これを一なる道と称するわけである。すべての仏は、皆このようにして慧解脱しているのである。

 なお、この法の句は、特定の修行者に向けて選択的に出現するわけではない。逆に言えば、法の句はこの世のどこにでも出現し得るものである。ただし、法の句は何の予兆も無く出現する。このため、気をつけている人だけが法の句を聞き及ぶことになる。

 さて、修行者にとっての次なる問題は、その聞き及んだ法の句が理解できるかどうかである。理解できれば、解脱が起こる。そうでなければ解脱は生じない。そして、この理解を正しく生じるために前もって為しておくべきことが修行なのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

人生の転機というものは人との出会いから始まります。人との出会いで、転機になる言葉をきくのです。

法華経では、人生の転機の最上、最善なものを一大事の因縁と言っているのです。

具体的には、「法の句を聞き及び、それが智慧そのものであることを理解した人には直ちに解脱が起こる。」ということです。

修行者も、毎日幾人かの人と会い、幾つかの言葉をきくでしょうが、その言葉が「法の句」であると理解できるかが問題になるのです。

その前に、「法の句を聞き及び、それが智慧そのものであることを理解した人には直ちに解脱が起こる。」ということを、納得できるかが問題になります。

それには、SRKWブッダ著「仏道の真実++」を少しずつ読んだり、繰り返し読んだりすることでしょう。
また、このブログを読むことも役に立つでしょう。このブログの読者も最近は定着していて、全国で毎日200人から300人の方が読んでくれています。文字通り、有難いことです。


SRKWブッダ著「仏道の真実++」修行(1)

(以下引用)

【修行】(1)

 ずっと前の章で、

 「仏道を歩み始めたばかりの人は、修行することが道の歩みそのものであろうと考えているかも知れない。もちろん、それはその通りなのであるが、知っておかなければならないことは、実のところ固定的な修行法など何一つ存在していないという事実である。 {中略} では、修行の実際とは何であるのか。読者は、知りたいであろう。 仏道を歩むための修行は、「遍歴修行」と呼ばれるものである。・・・」

と述べた。本章から仏道修行について詳細を述べたい。

 繰り返しになるが、この世にはニルヴァーナに至るための固定的な修行法など何一つ存在していない。したがって、読者が本書で具体的な修行法を学びたいと思っているのであるならば、その期待には応えることはできない。

 ただし、修行が要らないと主張しているわけではない。ニルヴァーナに至るためには、修行が必要だからである。ただ、その修行は外的に与えられるものではなく、修行者が自分自身で見出して勤しむべきものである。このため、その修行には当然のことながら紆余曲折が伴うことになるのであるが、それで良いとするのである。むしろ、そうでなければ仏道を歩むことにはならないということである。そして、これを遍歴修行と呼ぶわけである。

 さて、そもそも修行者にとっては、しあわせの境地たるニルヴァーナを目指すための道を知ることが重要なことであって、修行法を探すことが目的ではない筈である。あくまでも、修行はニルヴァーナに至るための手段に過ぎないからである。

 逆に言えば、修行者が何を為したとしてもそれによってニルヴァーナに達することができたならば、それが彼にとっての修行だったわけであり、結果論としてまさしく正しい道を歩んだのだと認められることになる。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「ずっと前の章」とは、「右も左もわからない修行者へ」の「修行」の項で述べられたことです。このブログでは、8月5日に掲載しました。
https://76263383.at.webry.info/202008/article_6.html

この引用文で重要なことは、繰り返し述べられた「この世にはニルヴァーナに至るための固定的な修行法など何一つ存在していない。」ということです。

「ただし、修行が要らないと主張しているわけではない。ニルヴァーナに至るためには、修行が必要だからである。」

ここが難しところであり、理解しがたいところです。

また、「そもそも修行者にとっては、しあわせの境地たるニルヴァーナを目指すための道を知ることが重要なことであって、修行法を探すことが目的ではない筈である。」と記されていますが、修行法を探すことが目的のような修行者が多いのです。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」具体的な覚りの機縁(広義)(11)

(以下引用)

【具体的な覚りの機縁(広義)】(11)

 ● 経典を開いて読むことは、覚りの機縁となる。好きな経典でよい。全部読まなくてもよい。どの部分からでもよい。気になったところをくり返し読むのもよい。何となく読んでも構わない。何かにつけ経典に触れることは、覚りの機縁を喚起する大きな契機となるものである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

これは一つの詩です。

・・・・・

経典を開いて読むことは、覚りの機縁となる。

好きな経典でよい。

全部読まなくてもよい。

どの部分からでもよい。

気になったところをくり返し読むのもよい。

何となく読んでも構わない。

何かにつけ経典に触れることは、覚りの機縁を喚起する大きな契機となるものである。

・・・・・

もう一つ、詩を紹介します。今朝起きると、郵便受けに小冊子が入っていました。そこに掲載されていた詩です。

詩のコンクール「詩の街若い芽のポエム」平成21年度 金賞(美棹賞)
(注:金賞は別名「美棹賞」と言われ、萩原朔太郎の習作時代のペンネームによって命名されました。)

「自分」
       鷺宮小学校 5年 江川周

自分の中に自分がいることによって
自分のなかにけんかが起きる

勉強・・・・
 本へ
 漫画へ
 テレビへ
いろいろな誘惑につられている

なぜ、自分とけんかしなければいけないのか?
なぜ自分が二人いるのか?
不思議でたまらない

でも心配なことがあったとき
 心がきず付いた時
自分と相談して元気付けてくれる

自分は自分と喧嘩することで成長していく


SRKWブッダ著「仏道の真実++」具体的な覚りの機縁(広義)(10)

(以下引用)

【具体的な覚りの機縁(広義)】(10)

 ● 理法(=仏が説いた言葉)について語らうこと。これが最も基本的な覚りの機縁となるものである。なお、語らうときには静かに、楽しんで、和やかに行うべきである。経が世に誦出されるのには、因縁がある。仏は、意味もなく理法を口にしたりはしない。なぜ仏がその時にその理法を語ったのかについて、発端と顛末と帰趨とを総合して吟味しなければならない。理法は、数学で言えば公式のようなものである。それだけを知っても、理解したことにはならない。その公式が求められた背景の理解が不可欠なのである。同様に、理法についての語らいも、理法そのものだけに止まっては意義が薄い。深読みする必要はないが、理法の真意について思いを巡らせることは覚りの機縁に結びつくものである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

理法(=仏が説いた言葉)の真の意味は、仏のみが知り、仏のみが理解できるものであります。衆生には理解できないものであります。

ではありますが、というか、であるからこそ、理法について語らうことが基本的な覚りの機縁になるのです。

私自身で言えば、SRKWブッダの理法の解説記事をこのブログに掲載していましたが、その際わからないことがあれば、今は便利なスカイプがありますので、SRKWブッダに直接質問しました。それは理法についての語らいでした。

それが私の覚り機縁になったことは間違いないことです。


石法如来の特別寄稿「人(ヒト)は誰でも変身出来る。」

「人(ヒト)は誰でも変身出来る。」・・・それは、私自身が実際に10代後半から20代前半にかけて経験したことです。そのことについて書いてみます。

「両親の離婚」による精神的ダメージから抜け出すことの出来なかった10代の私は、「いつ、この世から消え去っても不思議ではない」存在でした。・・・それが、音楽の楽しさと喜びを通じて人生の意義に目覚め、楽器の練習を通じて「継続する力の偉大さ」に気づきます。
そんな私が就職先として自衛隊を選んだ理由は、物を作ったり販売したりする仕事より大自然に触れ野山を駆け巡る方が「人間的かな」と考えたのがきっかけです。大自然の中で人間らしく生きる、そんな希望を抱いて就職したのですが・・・現実はまるで違っていました。

一番驚いたのは、自衛隊という組織はとんでもない競争社会だと言うことでしたが、何のことは無いそれは自分自身が社会に対して全く無知で平和的過ぎただけと言うことです。
入隊したら、朝から晩までの競争社会です。朝の起床時から夜就寝に至るまで全て競争・・・時には、夜寝ているときに「非常呼集」と言われる緊急出動をかけられたりするので、ゆっくり寝ているわけにもいきません。
たまにテレビ番組で警察学校などの強烈な教育の模様が放映され、「凄いな」という感想を持たれる人もいると思いますが、自衛官の教育訓練も内容は大体同じです。

18歳以前の私でしたら早々とドロップアウトしていたでしょうが、すでに変身を遂げていた私は、同期集団の中でも成績上位を目指すべく日々の訓練に精励します。
自衛隊という組織は、特に人の出入りが激しいところで、入隊者も多いけど退職者も多い職場です。そのローテションの中で、「優秀な人間を採用できれば良い」位に捉えている節があるので、人の出入りそのものに拘ってはおりません。

普通に考えて「優秀」と言われる人間は、入隊する隊員全体の1~3割程度でその者達の中から部隊の中核となる人材を徹底的に鍛えて行きます。それ以外の人間は「満期退職コース」を歩み、2年毎の勤務契約の中で大体4年から6年で満期除隊することとなります。

私は、半年間の教育期間中の努力が認められ迫撃砲部隊の射撃指揮班に配属されることとなります。迫撃砲射撃の中核を成す部署なので一応優秀な隊員の部類に入ります。・・・そうは言っても、待遇はあくまで陸士(兵士)なので知れています。それでも、暖かく後輩を育てようという気風があり、しっかり教育し次世代を担う隊員として育成されます。

部隊配属後私は、次の目標設定を陸曹候補生試験合格に絞りました。陸上自衛官の中で陸曹と言えば職業軍人なので、待遇はいきなりレベルアップします。一番大きいのは、結婚できる資格を得ると言うことです。・・・結婚するのに資格がいるの?と言う疑問を持つ人もいるかも知れませんが、陸士(兵士)の身分では結婚しても準営外(じゅんえいがい)という資格しか付与されず、正式な営外者にはなれません。因みに営外(えいがい)と言う言葉は自衛隊の専門用語で、営外者とは、(駐屯地外)に住む資格を有する者のことを言います。

陸曹候補生に指定されるのは、一番早いケースが入隊から2年9ヶ月で、更にその一年後に3等陸曹昇任となり押しも押されぬ職業軍人の誕生です。
私も、どうせやるなら「一発合格を目指そう」とやや高く目標を設定し、中隊に配属以来こつこつと勉強を重ねることにしました。その当時は、入隊10年前後の古参陸士長も居て、私など取るに足らない無名の新入隊員です。
それでも自衛隊の昇任試験は厳格に行われていましたから、まず目標として学科試験は全体の1%以内に入る成績を取らなければ「勝ち目は無い」と完璧を目指して猛勉強です。

見事、1次の学科試験に合格したら次は体力検定、基本教練と続きます。・・・以外と盲点は体力検定で、体重オーバーなどしていると懸垂が最低3回以上出来ないとアウトになります。体力検定は、1級から6級まであり上位の級を取れば取るほど有利になります。
基本教練は、最低限号令間違いとかの失敗は許されません。そして最後の難関は面接です。
部隊の幕僚(ばくりょう)と言われる高級幹部の前で、次々に発せられる質問に「てきぱき・的確に」答えることが出来なければ低評価です。

いずれにしても、まぐれはあり得ない実力だけの一発勝負と言えましょう。
・・・結果的にどうなったかと申しますと、私は所属部隊でも稀にしか出現しない、入隊から最短期間2年9ヶ月の所謂「一選抜(いっせんばつ)」で陸曹候補生試験に合格を果たすことが出来ました。
思えば、中学3年生の時担任から「お前、少しは弟を見習え」と屈辱的な言葉を浴びせられていた人間が、「本当に一選抜で合格したのか?」と不思議がられる位の離れ業を成し遂げたのです。

私は、ここ一番の大勝負に対し時間をかけこつこつ勉強を積み重ねました。私の目論見は的中し、同期集団の中で誰よりも早く正規自衛官の座を射止め、その後の自分自身の人生設計を早めに築く事が出来ました。何処の職場も同じだと存知ますが、自衛隊も陸曹という地位を得て初めて一人前、やっと自分のやりたいことが出来る境涯になったと言うことです。

自分自身を信じて、決して諦めないことです。・・・そうすれば、自分でも意外なほど大きな成果を得ることが期待出来ます。それは多方面に通じることですが、私自身が実際に経験した事です。


*法津如来のコメント

本日2回目のブログ更新です。
石法如来の特別寄稿を掲載します。


SRKWブッダ著「仏道の真実++」具体的な覚りの機縁(広義)(9)

(以下引用)

【具体的な覚りの機縁(広義)】(9)

 ● 三宝(仏法僧)を敬うことは、覚りの機縁となる。より具体的には、例えば法華経方便品第二に記されているようなことがらを指す。詳細については、原典を参照されたい。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「三宝(仏法僧)を敬うことは、覚りの機縁となる。」このことは、日本では古来より、言い伝えられたことです。その証拠は、聖徳太子の17条憲法の第二条に「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり、」と書かれています。

「法華経方便品第二」の原典の全文は次のアドレスで参照できます。
http://srkw-buddha.main.jp/houbennponn.htm


その中から、該当する部分を引用します。

(以下引用)
生ける者達の中で、諸々の過去の仏に出会って、教えを聞いて布施し、戒を守ることや、忍耐や、精進や禅定や智慧などによって種々に福徳を修めた、かかる 諸々の人々は皆、仏道を完成するであろう。 

諸仏がこの世を去っていても、もし人に善軟の心があれば、この様な諸々の生ける者達は皆、仏道を完成するであ ろう。 

諸仏がこの世を去っていても、その遺骨を供養する者があって、万億種の塔を建てて、金・銀・頗梨と、しゃこと瑠璃と、攻魂(朱色の珠)と流璃珠と をもって、諸々の塔を清浄に広く美しく飾り立て、或いは石造の廟を建て、栴檀と沈香、木椅その他の香木や瓦や泥土で塔を建てるとしよう。 もしくは、広野 の中で、土を積んで仏の廟を建立し、或いは童子がたわむれに砂を集めて仏の塔をつくるとしよう。これらの諸々の人らは皆、仏道を完成することであろう。 

もし人、仏の為に諸々の像を建立し、彫刻して三十二相を備えた像を完成すれば皆、仏道を完成するであろう。 或いは七宝でつくり、銅、赤白銅、白線、鎗、 錫、鉄、木、陀土、或いは膠や漆を染ました布によって美しく飾って仏像を作った人々、この様な諸々の人らは皆、仏道を完成するであろう。 

三十二相の一々 を百の福相によって飾った仏画を壁に自ら描き、もしくは人に描かせた人々は皆、仏道を完成するであろう。
 
或いは童子の戯れに、或いは草木及び筆、或いは 指の爪で仏像を描いた人々、この様な諸々の人らは皆、次 第次第に功徳を積み、大悲の心を備えて皆、仏道を完成し、ただ諸々の菩薩のみを教化して、無量の人々を救うであろう。 

もし人、塔や廟の宝像や仏像に花 や、香や、幡や、天蓋を、心から尊敬して供養し、もしくは人をして音楽を奏させ、鼓を打ち、角笛や法螺貝を吹き、斎や、笛や、琴や、竪琴や、琵琶や、鏡 や、鋼鉄など、この様な諸々の妙音を悉く鳴らして供養し、或いは歓喜の心をもって仏の徳を讃える唄を歌い、ないしは、一つの小音をもってしても皆、仏道を 完成するであろう。

もし人、散乱した心で、しかも、たった一本の花で仏像を供養したとしても、次第に無数の仏を見るであろう。 或いは人あって礼拝し、或いはまた、ただ合掌 のみし、ないしは、片手のみを挙げ、或いはまた少し頭を下げて、これによって像を供養したとしても、次第に無量の仏を見、自ら無上道を完成して、広く無数 の人々を救い、心も体も余す処なく滅した永遠の平安に入ること、薪が尽きて火が消える様である。 もし人、散乱した心で塔や廟の中に入り、一度南無仏と称 すれば皆、仏道を完成するであろう。 

諸々の過去の仏が、現在しているとき、或いは世を去られたのちに、もしこの教えを聞く事があったならば皆、仏道を完 成するであろう。 
(以上引用)


SRKWブッダ著「仏道の真実++」具体的な覚りの機縁(広義)(8)

(以下引用)

【具体的な覚りの機縁(広義)】(8)

 ● 真のしあわせとは何であるのかを追究することは、覚りの機縁となる。この答えは実は明確に存在しているが、本人が自分自身で追究することが覚りの機縁を喚起する契機となり得るということである。言うまでもなく、仏道に勤しむ目的は真のしあわせを獲得することにある。これは、その目標をできるだけ明確化しておくことを勧めるものである。ある人が道を逸れてしまう要因として、この目標が不明瞭のままに進んでいる場合が見られるからである。仏道は、漫然と歩いているのでは目的地に辿り着くことはできない。例えば、ぬかるんだ道を歩いているようなものである。正しい目標を抱いてこそ、道の歩みを堅固ならしめることができるのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「真のしあわせ」について、7月30日についてこのブログについて引用しました。
https://76263383.at.webry.info/202007/article_30.html
しかし、これは答えを教えてもらえば済むということではありません。

数学の問題の答えを教えてもらって答案用紙に書くのでは能力が向上しないと同じように、「真のしあわせ」は何かの答えを教えてもらっても、真のしあわせになれないのです。

真のしあわせとは何であるのかを自分でいろいろ探求してこそ、それが覚りの機縁になるのです。

その際、上記ブログの記事を再度読むことは、自分で探求する参考になります。


SRKWブッダ著「仏道の真実++」具体的な覚りの機縁(広義)(7)

(以下引用)

【具体的な覚りの機縁(広義)】(7)

 ● 心について思惟・考研することは、覚りの機縁となる。具体的には、心理学やアビダルマなどの勉強がそれに当たる。これによって、何が人を煩わせているのかを理解する基礎を培うことができるからである。それが、ついには苦の真実を明らめることに繋がる。衆生は煩うが、覚った人は煩いが無いと言う。その理由を知る切っ掛けともなる。大人と子供では心のあり方が違う。これは普通の人でも理解しているであろう。そして、これは成長によるものであると周知されている。では、衆生の心と覚った人のそれとでは何が違うのであろうか。どうしてその違いを生じることになったのであろうか。成長によってそれが起こったわけではないことは確からしいのであるが・・・。このようなことを思惟・孝研するわけである。そして、実際に解脱を生じたとき、心が衆生のときとは根本的に違っていることを発見することになる。これが一つの解脱知見となる。

(以上引用)


*法津如来のコメント

衆生は悩み苦しむが、覚った人は悩み苦しむことがありません。その理由は心が変わったのです。

では心がどのように変わったのでしょうか? そもそも心とは何でしょうか? 心はどのようにして変わるのでしょうか?

それらの問いに答えるために、心理学やアビダルマを学ぶことは役にたちます。

しかし、学んだだけでは心は変わりません。修行実践すればわかることですが、心は変えようと思っても変わらないものなのです。

ではどうするか? ・・・SRKWブッダ著「仏道の真実++」を学ぶことです。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」具体的な覚りの機縁(広義)(6)

(以下引用)

【具体的な覚りの機縁(広義)】(6)


 ● 仏教の話を好み、楽しむことは、覚りの機縁となる。仏教について語らうことが、覚りの機縁そのものを喚起することさえある。基本的に、覚りの機縁を意識的に喚起することはできない。しかしながら、仏教について語らう中においてそれを結果的に生じることはしばしば見られることである。実際にこれが起こったとき、覚りの機縁の不可思議さを身を以て知ることになるであろう。これは前世からの縁に違いない、などと思うほどである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「仏教の話を好み、楽しむことは、覚りの機縁となる。」・・・これは確かなことです。すくなくとも、仏教の話に興味がない人は覚りとは縁のない人でしょう。

もっとも、お経や説法の嫌いな人は多いでしょうけれども、仏教には、面白い楽しい話がたくさんあるのです。それを知れば、仏教の話を好み、楽しむことができるでしょう。

最近では、仏教の話は映画や動画でも楽しめます。

具体的には最近、法捗如来に紹介された「三蔵法師・玄奘の旅路」があります。

三蔵法師といえば、孫悟空で有名な「西遊記」がありますが、台湾映画の「チャイニーズ・オデッセイ」もあります。これは前代未聞の全く新しい西遊記ワンダーランド、時空を超えて疾走する愛と冒険のSFXスペクタクル巨編!と銘打っています。だいぶ以前にSRKWブッダに紹介されたものです。

他にも、ネットで検索すればいろいろ見つかるはずです。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」具体的な覚りの機縁(広義)(5)

(以下引用)

【具体的な覚りの機縁(広義)】(5)

 ● 我執や愛執を離れた人がこの世に存在し得るということを認知することは、覚りの機縁となる。それが一時的に世に出現した化身であっても、そうである。これは、善知識の出現を見る機縁となることがらである。このとき、自分もまた我執や愛執を離れなければならない。それによって、善知識が明らかとなるからである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

ここで説かれている内容はすこし難しい。我執や愛執を離れた人がこの世に存在し得るということを認知することは、覚りの機縁となることを知る前に理解しなければならないことがあるからです。

それは他人はそれぞれ異なった考え方をしていることを知るべきなのです。別の言い方をすると、人は一人ひとり違った人であるということです。
それを知る以前の私は、人は皆自分と同じ考え方、感じ方をするものだと思っていました。私が中学生
の時、友人にある一言を言ったのですが、すると彼は急に怒り出したのです。私はなぜ彼が急に怒り出したのか全然理解できませんでした。私が幼稚な中学生だったということもありましたが、その時、初めて人は自分と違う考え方、感じ方をするものだと自覚しました。

先日9月1日に掲載させて頂きました石法如来の寄稿にありましたが、私も彼と同様に、両親の離婚を経験していました。それが原因でしょう、当時の自分は非常に利己的な人間でした。また、人は皆そのように利己的な者であると考えていたのです。

ですから、「我執や愛執を離れた人がこの世に存在し得るということ」は到底信じることのできないことでした。

(我執とは、自分の存在への執著です。愛執とは自分のものとい言う執著です。)

しかしそれにもかかわらず、我執や愛執を離れた人がこの世に存在し得るということを認知することができれば、それは覚りの機縁になるのは間違いないことです。



SRKWブッダ著「仏道の真実++」具体的な覚りの機縁(広義)(4)

(以下引用)

【具体的な覚りの機縁(広義)】(4)

 ● 苦行に近づかないことは、覚りの機縁となる。苦行は無益である。苦行は、道を汚すものに過ぎない。解脱とは何であるのかが正しく理解されていないと、苦行によって浄らかになれるという誤った見解を抱くようになる。苦行によって覚ろうとするのは、怪我した部位をさらに傷つけて治そうと目論むような愚行である。覚りにおいて苦行が無益だというのは、覚りの道は苦行とは無縁であるという意味である。むしろ、人は楽しみと栄えとともに道の歩みを進め、ついに覚りに達するのである。修行者は、最初から最後まで健やかでなければならない。すべての仏は、健やかさの中において作仏しているのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「(初)転法輪経」のはじめには次のように説かれています。

「そこで世尊は5人の修行者の群れに告げた。『修行者らよ。出家者が実践してはならない二つの極端がある。その二つとは何であるか? 一つはもろもろの欲望において欲楽に耽ることであって、下劣・野卑で凡愚の行ないであり、高尚ならず、ためにならぬものであり、他の一つはみずから苦しめることであって、苦しみであり、高尚ならず、ためにならぬものである。真理の体現者はこの両極端に近づかないで、中道をさとったのである。それは眼を生じ、平安・超人知・正しい覚り・安らぎ(ニルヴァーナ)に向うものである。』」

当時の修行者は修行というと、苦行をすることだと思っていました。ですから、ゴータマ・ブッダも断食や息を止めるなどの苦行を繰り返していましたが、それでは覚れないことをさとったのです。

今でも、多くの修行者は苦行が好きです。断食の他にも、滝行やその他の苦行に挑戦しています。瞑想も苦行として行なっているのかもしれません。




SRKWブッダ著「仏道の真実++」具体的な覚りの機縁(広義)(3)

(以下引用)

【具体的な覚りの機縁(広義)】(3)

 ● 瞑想(メディテーション)を捨て去ることは、覚りの機縁となる。これに限らず神秘的な現象はすべてその対象となる。これらは一種興味深いものではあるが、覚りとは無関係である。したがって、どこまで掘り下げて体得しても時間の無駄である。これは食物に譬えれば、瞑想は酒のようなものに過ぎないということである。飲んでも栄養とはならず、加水分解されて終わる。大量に飲めば、身体に大きな負担を掛ける。もちろん、酒を飲むと日常を離れた独特の精神状態となるのは確かである。この状態にある者どうしは親しくなるが、それは酔っている間のことに過ぎない。酔いが覚めれば親しさも元の木阿弥である。また、これによって暴力的な事件が起きることもある。実例を挙げるまでもなく、酒の席での失態は多くの人が経験していることであろう。そして、酒の本当の恐ろしさは、止めることが極めて難しいということである。どんな嫌な目に遭っても、人々は次の酒宴を楽しみにしてしまうのである。同様に、瞑想は人に何ももたらさない。ただ興味深い神秘的な現象を味わうだけのことである。瞑想を解けば、素晴らしい境地も元の木阿弥である。瞑想によって修行が進むことは何一つない。そもそも、瞑想に耽るものは功徳を積むことがない。そして、当然のことながら覚ることがない。

(以上引用)

*法津如来のコメント

「瞑想(メディテーション)を捨て去ることは、覚りの機縁となる。」・・・この言葉は覚りを目指して瞑想修行してきた人々には衝撃的なものでしょう。

しかし、その事実を否定的にばかり考える必要はありません。瞑想修行をしてない人々には体験できない覚りの機縁だからです。瞑想をしていた人がその意味を知り、それを捨てることによって得られる体験だからです。

それにしても、これほど明確に瞑想の意味が明らかにされるとさっぱりします。

「瞑想は酒のようなものに過ぎないということである。飲んでも栄養とはならず、加水分解されて終わる。大量に飲めば、身体に大きな負担を掛ける。」・・・瞑想を酒にたとえるとその意味がよくわかります。

「瞑想によって修行が進むことは何一つない。そもそも、瞑想に耽るものは功徳を積むことがない。そして、当然のことながら覚ることがない。」・・・というわけで瞑想を捨て去ることは、覚りの機縁となるのです。

最後に以前にも引用したダンマパダの偈を引用します。
271、272 わたしは、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。




石法如来の特別寄稿「少年時代の思い出・・・そして音楽に救われる。」

少年時代の思い出・・・そして音楽に救われる。

私は、仏教に関する限り35歳から自分独自の道を歩んで参りましたが、長い年月仏道を歩み続ける原動力となったのは少年時代の衝撃的なある出来事がきっかけです。
その衝撃的な出来事がなかったなら、私は仏教とは無縁の人生を歩んでいた可能性が高いです。

私の人生史上最も衝撃的な出来事とは「両親の離婚」です。私が、小学校3年生(8歳)の時の出来事で、今でこそ離婚は普通に見られる社会現象ですが、当時はとても珍しいものでした。
既に、その数年前から養父母と生活を共にしており精神面なダメージは最小限に抑えられる筈でした。
ところが、世の中には本当にお節介な人間がいるもので、ご丁寧にも私にその真実を耳打ちして教えてくれたのです。「あの人達(養父母)は、あんたの実の(本当の)親じゃないよ」と・・・。それまで、養父母から本当のことを全く知らされていなかったのです。

世の中には、知らなくても良い真実が沢山あります。私の場合は、知らなくて良い真実を知った後の精神的なダメージはとても大きく、一気に奈落の底に突き落とされたような気持ちになりました。
一番大きいのは、親のように慕っていた人間が実の親ではないと知った衝撃、まだまだ子供なのに「実の親のように甘えてはいけない」と厳命されたも同然です。それがどれ程子供のこころを不安定な状態に追い込むか、その心情を他人が推し量ることは出来ません。

その頃は、死ぬことばかりを考えていました。「死んだら楽になれるかな?」、「でも死ぬのは怖いな」・・・そんな自問自答の繰り返しです。
当然、そんな少年が人生の意味とか目標とかを見いだせる筈も無く、当然勉強にも身が入りません。
ただこの世に意味も無く存在するだけの人間、そして私は「いつ、この世から消え去っても不思議ではない存在」に成っていったのです。

やがて中学生になるも、事態は一向に好転しません。・・・人間という生き物は、やはり「気持ちが入らない」と全く駄目な生き物で、こころに喪失感・不安感があると、それを打ち消す以上の熱い情熱が沸かない限り何をやっても駄目で、学業・素行共に良くなく劣等生のレッテルを貼られます。
当時の担任にこう言われたことがあります。2歳下勉強の出来る弟と比べ「お前、少しは弟を見習え」と・・・。こんな屈辱的な言葉を聞いても特段腹立たしく思うことも無く、まるで尻(シッポ)を切り取られ方向感を失いながら空(くう)を舞うトンボの如しです。

案の定高校の入学試験も失敗し、担任から「お前の行き先はない」と告げられました。・・・そう告げられても、自分で何をどうしようという手段も考えも沸いてきません。
そんな窮地に手を差し伸べてくれたのは養父です。これからの時代を生きていくのに、「せめて高校位卒業してなくては」という親心から、当時釧路にあった私立高校を勧めてくれたのです。

当時と言えど、私立高校は入学金も授業料も高く、なおかつ生活費もかかります。その時は、養父の申し出が嬉しいとか助かるとか言うより、次行くところが無いので仕方無く養父の意見に従い釧路に出ることにしました。
昔から、「可愛い子には旅をさせよ」という言葉がありますが、私の場合もまさにそれでその後社会で生きていく為のとても良い勉強となったのは事実です。

高校では1年生から応援団に入部させられ、毎日毎日しごきの繰り返しで、半分嫌になっていましたが、学生生活自体は楽しくそれなりに親元から離れた生活を楽しんでおりました。

自分の人生における転機は高校2年生になって直ぐに訪れました。たまたま偶然席が隣同士になったN君が、「ギターを一緒にやらないか?」と声をかけてくれたのです。
それまで音楽とは全く無縁の人生を送ってきて、ギターとは何ぞや?という感じです。でも、N君のやさしそうな眼差しと態度を見て二つ返事で了承しました。

部活の応援団も2年生になると全然余裕で、適当にサボりながら学校の帰りはN君宅に寄りギターレッスンです。全く音楽経験が無い私がギターを弾いても、雑音しか出ません。それを時間をかけて根気よく同じ事を繰り返します。
自分でも中古のクラッシックギターを購入し、上手くなりたい気分満開です。毎日3時間位主にギターコードとその進行、リズムの取り方などの練習を積み重ねます。段々技術も向上し、ボロンボロンという音がポローンになりジャーンとなり、最終的にシャイーンと綺麗で安定した音になります。

丁度時代は、グループサウンズ全盛期・・・猫も杓子もエレキギター一色です。中古のクラッシックギターをエレキギターに替えて、N君を中心としたエレキギター中心のインストゥルメンタル・グループのコピーバンドに加わります。
みんなで音を作っていくことの楽しさ、リズムに乗ってきたときの何とも言えない高揚感・・・高校の2年間はすっかりロックのリズムとエレキ(ギター)サウンズに嵌まり込んだのです。

「いつこの世から消え去っても不思議ではない」少年が、音楽の楽しさと喜びに目覚め、地道にトレーニングを積み重ねるなら「誰でも、それなりのレベルには到達出来る」というギターでの自信は、その後の人生にも繋がる大きな収穫でした。
N君に、そして音楽に出会っていなかったら現在(いま)の自分は存在しません。

それまでの18年間、本を買って読むことに全く感心が無かった私ですが、1冊だけ買って読んだ本があります。当時、エレキギターの神様と言われた人物の書いた自伝的著書です。
「好きこそ物の上手なれ」・・・学ぶことの楽しさに目覚めた瞬間でした。


*法津如来のコメント

本日2回目のブログ更新です。
内容は、石法如来の特別寄稿「少年時代の思い出・・・そして音楽に救われる。」ですが、覚りの機縁(広義)の一つになるかなと思います。


SRKWブッダ著「仏道の真実++」具体的な覚りの機縁(広義)(2)

(以下引用)

【具体的な覚りの機縁(広義)】(2)

 ● 仏とは何者であるかを思惟・考研することは、覚りの機縁となる。これは、自分が進む道の到達点に何があるかをイメージするのに役立つ。衆生にとって、智慧が何であるのかをいきなり考究することには本来的に無理がある。なぜならば、智慧(=仏智)は人智を超えたものだからである。この世のすべての知識や経験や思索を集め極めて知的な人が考験したとしても、智慧の何たるかを極わずかでさえ知ることはできないであろう。そこで、実際に智慧を得て覚った仏について考究することが勧められるわけである。これならば、仏がどのように振る舞ったのかという実例を少なからず見つけることができ、それによって仏がいかなる存在であるのかを理解する機会が持てるからである。そして、智慧は仏の所作の根本を為すものであると位置づけることによって、いわばブラックボックスとして理解することが可能となる。実際、私(=SRKWブッダ)も覚り以前においてこれを行った。釈尊や慧能ブッダがどのような存在であったのかを考究したのである。そうして、ついに法の句が覚り(=解脱)の鍵となるものであることを理解した。その理解に基づき、私はついに作仏することを得たのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

仏は、スポーツ選手や芸能人や政治家などとは違って、人々は仏は何者か知らないのです。そこで、「仏とは何者であるか」という問いを持つということは、覚りの機縁になります。

その時、「仏とは何者であるか」に全然興味のない人は覚りの縁は薄いと言えるます。

しかし「仏とは何者であるか」という問いから、仏は覚った人であり、覚りとは何かと考えるようになれば、それは覚りの機縁になるのです。

さらに、人知を超えた智慧は知りたくなれば、仏とは何者であるかを思惟・考研することになり、それは覚りの大きな機縁となるのです。