SRKWブッダ著「仏道の真実++」【功徳のよすが】(7)

(以下引用)

【功徳のよすが】(7)

 さて、すべての修行は功徳を積むために行ぜられるものである。逆に言えば、功徳を積むことを得るならば、別に修行という形にこだわる必要はないということである。

 こんなことを言うのは、修行などあからさまに行った形跡がないのに覚る人が見られるからである。実際、私の細君(=法風如来)はそのようにして覚ったのである。彼女は、観(=止観)に取り組むこともなければ、仏教の知識を系統立てて学ぶこともなかった。それにも関わらず阿羅漢果を果たし、さらに数年後には慧解脱してブッダとなったのである。この事実を見れば、これ見よがしな修行よりもしっかりと功徳を積むことの方が本質的であることは明らかである。

 もちろん、法風如来の事例は、古典的に正攻法とされている修行によって覚りを目指している修行者を少なからず混乱させるかも知れない。しかしながら、この事例に限らず仏道にはそもそも固定的な修行など存在していないのは本当のことである。したがって、外目には修行していないように見えて、実は知らずに修行を為し遂げていることがあり得る。日々の生活を、図らずも修行そのものとしてしまう人もあるからである。

 この意味において、すべては結果論である。見事に解脱を果たせば、それまでの生活遍歴が修行遍歴そのものだということになるわけである。

 人はいつ、どのようにして、どれほどの功徳を積んでいるか分からない。それゆえに、たった今、目の前で意外な人が解脱するのを目撃しても怪しむには当たらない。極端なことを言えば、全人類が、この一瞬に皆解脱を果たしてもおかしくはないのである。もちろん、そんなことは現実には起きないかも知れない。しかし、功徳を積むとか積まないとか言うことは衆生たる修行者には知りがたく、量りがたいことであるのは確かである。

 見方を変えれば、功徳を積んでいればあからさまな修行など必要ないという事実は修行者にとって朗報になるに違いない。型にはまった堅苦しい修行ではない、より現実的な修行がこの世では成立し、在家でも充分に解脱が起こることを保証する事例となるからである。しかも、これは例外というよりはしばしば見られることなのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

解脱というものは、名称(ナーマ)および形態(ルーパ)が滅びたときに起こるものです。
(スターニパータ1037やダンマパダ221などに示されています。)

SRKWブッダは、名称(ナーマ)の消滅を心解脱、形態(ルーパ)の消滅を身解脱、名称(ナーマ)および形態(ルーパ)両者の消滅を慧解脱と述べています。

ですから、途中の経過がどうであれ結果として、これらが消滅していれば不思議ではあるが、解脱しているのです。

法風如来の場合は、身解脱を経て、慧解脱されました。

しかしながら、あとから省察すると解脱された方は一なる道を歩まれたことは間違いないことです。


この記事へのコメント

才広
2020年10月13日 17:13
過去においてやり残したことがない

未来においてやらなけばならないことがない

才広
2020年10月13日 17:16
今やるべきことがない

今束縛を受けない

食べるから解脱

が解脱です
才広
2020年10月13日 17:18
食べものは

宇宙のどこを探してもない

生きとし生けるものしかいない

才広
2020年10月13日 17:21
誰に教えられなくても

乳をのむ

誰に教えられなくても

母胎に宿る

誰に教えられなくても

生きとし生けるものを頼る

生きとし生けるものを食べることで頼る

これから解脱しないと

輪廻からの解脱ではない