SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行の終わり】

(以下引用)

【修行の終わり】

 誤解している人も少なくないと思うが、覚りに向けた修行は生きている間ずっと続けなければならないものではなく、終わりがあるということである。すなわち、覚った時点で修行は完成し、その後の修行は不要となるからである。

 たとえば、すでに大人になった人にさらに大人になれなどとは言わないであろう。大人は、もはや子供ではない。大人は、大人としての行動と生活を営めば良いわけである。同様に、覚った人はもはや修行者ではない。覚った人は、覚者としての行動と生活を営むことになるからである。それで、覚った人は、人としては数えられないというわけである。

 ところで、慧解脱してブッダになった場合はともかく、身解脱(形態(rupa)の解脱)や心解脱の場合にもその後の修行は必要無いのであろうか。これについて述べたい。

 事実を言えば、身解脱や心解脱の場合においても、基本的にはそこで修行は完成したことになると考えられる。したがって、その後に追加の修行などは必要無いと言って大過ない。

 ただし、最初の解脱が起きたとき、その覚りの階梯でとまってしまわずにその後さらに高い階梯に達する修行者が見られる。しかし、このような場合でも、それは追加の修行の結果というわけではなく本人の因縁によって言わば自動的に起こる模様である。もちろん、覚りのさらなる階梯に進むためには功徳が積まれることが必要になる。ただし、それは通常の生活を営む中において自然と積まれることになるということである。

 そもそも、人が覚って解脱が起こると、解脱したという解脱知見を生じる。同時に、自分はすでに為すべきことを為し終えたという理解も生じる。これは、最初の解脱のときに覚知されるものである。彼は、こころがすっかり解きほごされた自分自身を発見する。それで、修行者は自分の修行が完成したことを知るのである。したがって、修行生活としてはそれで終わりとなるわけである。

 このように、仏道修行には終わり(=完成)がある。だからこそ、修行は楽しんで勤しむことができるものだと言えよう。修行者は、修行しつつその終わりを楽しんで待てば良いのである。この意味において、死ぬまで修行だなどという言い方は存在しない。それを言うなら、

 「死ぬよりも以前に修行を完成させよ」

ということになるであろう。

(以上引用)


*法津如来のコメント

解脱するということは、完全な満足に達するということです。

それはそれ以上、求めるものがないのです。

ですから、もう修行が必要ではないのです。

それが修行の終わりです。

「悟後の修行」という言葉がありますが、それはまだ悟っていなかったということです。

解脱した後に、わかってくることがありますが、それは表現です。

うまく表現できなかったことが、うまく表現できるようになったということはあります。


この記事へのコメント

才広
2020年10月14日 11:01
悟った後は

正確に言えば

言葉かない

表現する言葉がない

しかし

誰かが語ってることを見て

その人に合わせてそうじゃないよ、こうだよ、とその人に合わせて言葉は現れます

また、その人の言葉を見て99%言葉が出ない場合もある。その場合その人の言葉を才広は見ません。

なぜならその人の言葉が移ってしまうからです。移ってしまって同じことを才広が語っても意味がないからです。

ですから自分に言葉が生まれるように、その人に合わせて言葉が出る人を探します。またその人は心を他に隠していて、世の中にいじめられてる心境にあり、隠してるその心でいいんだよ。その心は隠す必要はないんだよ。その隠してる心で堂々と隠すことなく生きればいいんだよと教えます

世の中のいじめから、世の中の抑圧から、解放してあげます

「そうか!この隠してる心は、隠す必要はなく、この隠してる心で堂々と生きればいいんだ!」と開花させてあげます
才広
2020年10月14日 11:10
そのことで、無茶苦茶大変な状況になることもある。しかし構いません。

その人は不退転です。

死にもしません

なぜなら

世の中のいじめから解放され

隠していた心で生きれる

隠していた心で堂々と生きたい

その自分に至りたい

それがあるから

いくら隠していた心を表に出すことで大変な混乱、生活に.環境に、周りから嵐が襲っても、死にはしない

その隠してる心を開花させる力にすらなる
才広
2020年10月14日 11:18
そうなると

一切借りを作りたくない自分になっていく

借りがあれば堂々と語れないからです

そうすると借りを作らない自分を目指すことになる

頼ることがなくなる

のが道になる。目標になる。

至るところは解脱になる。

この過程をみると

最初から最後まで

修行はないし、師匠もないし、

あるのは

道と目標だけなんです
才広
2020年10月14日 11:28
借りを返す

善なる心などその人にはない

借りを作らず

堂々と生きたい

その人にあるのはその心です
才広
2020年10月14日 11:31
だから

解脱に至るんです
才広
2020年10月14日 11:38
才広に

修行はありませんでした

善なる心もありませんでした

ただ

その人に合わせて語る場合

その人に合わせて修行とか善と言葉によって伝えるだけで

その人が聞いて何かを行い場合、その人にとってそれは修行でもなく、善でもないんです

道と目標だけです

その人は

放たれた

矢です

放たれた矢は

修行じゃないし

善でもない

放たれた

矢は的に向かって進んでるだけです
才広
2020年10月14日 11:43
法輪

を回すのがゴータマ・ブッダのなさったことです

その法輪を回すことをなさったことで

法輪を回せる自分に至ります

法輪を回す修行が始まります

修行は死ぬまで終わらない

才広
2020年10月14日 11:53
ゴータマ・ブッダは

悟った後

これを教えるというこれを

自身の修行として課されたんです

怠ることなく自身に課された教えるという修行を全うされたんです

生涯修行された、だから人格者なんです

見習い

生涯怠ることなく教えるという修行をするべきです

また、そこに至る為に、教える立場に至らない者は、自身の悟りを目指すべきです。

そして教えることに完成はない。だから死ぬまで修行です

法輪を廻す修行は死ぬまでです
才広
2020年10月14日 12:09
ゴータマ・ブッダ

は今その身をもって

その口をもって

生きて、行動できない

自分の口で法輪を廻せない

誰が口で法輪を廻す

誰が今口を動かして法輪を廻す

ゴータマ・ブッダが自身の生涯の修行とされた、教える修行、怠ることなく教える修行をせよ

そして教える修行に完成はない

その人に合わせて語るのだから

完成はない。

怠ることなく教える修行をせよ

また

そこに行かないものは

自身の修行を成し遂げよ

ゴータマ・ブッダが生きてる時は

ゴータマ・ブッダ御自身が動き語りされた

しかし

入滅された後

誰かが

動き語り法輪を廻した

自身に課した修行とされた

だから

教えてもらえ

だから自身の修行を成し遂げた

だから

法輪を廻すことが自身の生涯の修行となる

ならば初めて人格者なんです

道理をわきまえた人格者なんです
才広
2020年10月14日 12:14
教えることにおいて

ゴータマ・ブッダの足下にもおよびません

教えることの修行を生涯怠けず励み努力します

ゴータマ・ブッダに礼拝

なのである
才広
2020年10月14日 12:52
ゴータマ・ブッダが生きて

ゴータマ・ブッダが

口を動かし、語り

あちこちに言ってた時

修行者は

自身の修行を成し遂げれば

それでよかった

しかし

今誰が

口を動かし、いろんな人に話すのか?

法輪を自ら廻すのが?

ゴータマ・ブッダに任せられないんです

生きて口を動かし、歩き回り、人々のところに行く修行をする。ゴータマ・ブッダは生きていないんです。

その行為を師とし修行するのは
自身の修行を成し遂げたものが

生涯法輪を廻すという修行をするんです

その師はゴータマ・ブッダです

教えることにおいてゴータマ・ブッダの足下にも及ばない

自身の修行を成し遂げた後の者の

教える修行を生涯怠けずせよ

それが道理をわきまえた人格者である