石法如来の特別寄稿「境涯と因縁(その1:因縁)」

因縁(いんねん)という言葉だけ聞いても、普通の人は「漠然としたイメージ」しか抱けないでしょう。・・・普通に考えて、この世の事象が結果として眼前に現れるときと言うのは「結果=その結果を生み出す原因(因)と、それを助ける条件(縁)」が必要で有り、何の原因も条件も存在せず結果という事象が現れ出ることは無い・・・すなわち、「眼前の事象が偶然に出現することはあり得ない」と言う事になります。

私は、昔阿含宗という宗教団体に所属していたとき、この因縁という言葉を数多く聞いて多くのことを学びました。・・・昔の資料を見てみますと、因縁を分かりやすく区分しています。
例えば、「横変死の因縁、刑獄の因縁、肉親血縁相克の因縁、ガンの因縁、家運衰退の因縁、中途挫折の因縁等々」・・・文字にするだけでも怖い因縁が沢山並んでいます。
確かに、因縁というものを学ぶためには、それぞれ因縁を区分分けして「こんな因縁もある・あんな因縁もある」と教え込めば、因縁という概念を学ぶことは出来ますが、他者に脅迫観念を与えかねないので用いる場合には注意が必要です。

危険な要素を含む因縁という言葉ですが、全く意味が無い言葉かというと決してそうではありません。仏教思想を考える上で重要な概念であり、それを学ぶことは「物事の成立(なりたち)」を学ぶことであり修行者にとって必須の学問です。ここで言う「物事の成立」とは、あらゆる事象は表面だけ見てもその本質が掴めないということです。物事の本質を理解・把握するためには、眼前の事象を見つめながらも因縁という概念を交え深く掘り下げて考えていく必要があるのです。

先程も書いたように、ありとあらゆる事象の出現には因縁(原因と条件)が関わっており、偶然に物事が起こることは考えられません。
その人の人生において、どの様な事象が現れどの様な人生を歩むかはその人の「境涯と因縁」次第だと言うことが出来ます。

しかし、ことさら因縁を怖れる必要もありません。何より大切な事は、自分自身の人生を「諦めてはいけない」と言うのはある意味当然のことです。因縁は結果論で有って、後になってみないと「あの因縁があった」、あるいは「あの因縁は無かった」などとは言えないものだからです。
そう考えたら、人間死ぬまで諦めてはいけないのです。そして何より、自分の人生を「より良いもの」にするためには、自分自身の行動を「気をつける」ことこそが大切です。

因縁という言葉を使うと、何か別世界の出来事のように感じますが日常生活の人間関係の反映と見ることが出来ます。身近な日常の家庭生活・職場生活は、その対応如何によって直接自分自身の因縁に関わってくることは間違いありません。
ほんの少し日々の生活の中で、「他者を気遣う・思いやる」=「気をつける」という意識・習慣を持つ。それだけで、因縁を良い方向に転換出来るのです。

・・・境涯と因縁について2回に分けて書きましたが、それらは決して別々のものではありません。理解しやすいように分けただけであり、それはある意味「人間の存在」そのものを表す言葉です。
この世において、その人の人生を決めていくのは、「その人の境涯と因縁による」と言いたかったのですが、それらはとても微妙であり「それは、こういう姿・形だよ」と差し示すことは出来ません。・・・出来ませんが、それらは間違いなくこの世に存在し私達の人生を形成しているのです。

文中で強調したように、この世は「無常」であるが故に「こうだ!という決めつけ」はいけないし、同様に人生そのものを諦めてもいけません。
私自身、現在の師(SRKWブッダ)に巡り会ったのは66歳の時です。人間、未来において何が起こるかは誰にも分からないことなのですから・・・。



*法津如来のコメント

本日、2回目のブログ更新です。
本日も石法の如来の特別寄稿を掲載します。


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