SRKWブッダ著「仏道の真実++」【遍歴修行】(5)

(以下引用)

【遍歴修行】(5)

 ここで、心構え正しき人は「上り」という言葉を素直に信じ、正しく用いるであろう。その一方で、心構え正しからざる者は、これを「登り」であると誤認するかも知れない。そして、後者は、気がつけば富士山の頂上に立つことになるかも知れぬ。もちろん、それでは本来の目的地に到達したことにはならない。

 読者は、そんな愚かなと思うかも知れないが、実際それに類する誤解は仏教についても散見されるのである。具体的に言えば、覚りを「悟り」や「さとり」と誤解したり、善知識を法の句のことではなく師や先導者(案内人)のことだと誤解するなどということである。また、解脱や智慧についても噴飯物の解説が世に溢れている。

 世間には、このような笑えない現実があるので、聖求ということが説かれるわけである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この引用文だけでは、意味がわからないでしょう。

昨日の引用文の終わりの部分を繰り返します。

「これを何かに譬えるとすれば、例えば日本の任意の地点から東京に向かって進むようなものである。ここで、知っているべきことは二つで良い筈である。一つは、東京が存在していること。もう一つは、「上り」という言葉である。これで、どの地点からでも東京に向かうことができるであろう。たとえ、途中で道に迷うようなことがあっても、「上り」という言葉に従って進めば間違いなく東京に近づき、至るであろうからである。」

「これを何かに譬えるとすれば、」とは「聖求」を譬えるとと言う意味です。

つまり、「上り」と「登り」と間違えるということです。

そのようなことが、仏教においても起きているということです。

具体的には、覚りを「悟り」や「さとり」と誤解する。

善知識を法の句のことではなく、師や先導者(案内人)のことだと誤解する。

解脱や智慧についても、頓珍漢な理解をしているなどがあるのです。




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