SRKWブッダ著「仏道の真実++」【遍歴修行】(6)

(以下引用)

【遍歴修行】(6)

 修行には、終わりがある。先の譬えで言えば、周到に東京に到着した人は旅の終わりをはっきりと知るであろう。東京では、見るもの聞くものすべてが田舎のそれとはまるで違っているからである。その一方で、富士山の山頂に立った人は、旅の終わりを知るどころかこれからどうしようかと途方に暮れているだろう。あるいは、騙されたと思うかも知れない。それぞれの違いの根底にあったのが、心構えの違いであることは明らかであろう。

 仏道は、広くて平らかな道である。危険もない。このことを正しく知り、理解している人は、間違っても富士山に登ろうなどとは考えないであろう。途中でそのような道にうっかり嵌まり込むことがあっても、これは違うと知ってともかく引き返すであろう。何となれば、登山の道は狭くて険しく、危険な道だからである。賢者は、思い違いがあったとしても、早い段階でその間違いに気づき、山道を突き進んだりしないということである。賢者は、「上り」という言葉をそのまま道標とする。「上り」を「登り」などと誤認したりはしない。日本のどの場所にいても、どの場所に迷い込んでも、「上り」に従えば必ず最終的には東京に辿り着くと知っているからである。そして、実際にも、日本のすべての地点から移動するための道、バス、鉄道、空路、船の航路・・・が、上りと下りに分けられ、整備されており、上りを繋いでさえ行けば必ず東京に至るように作られている。

 さて、遍歴修行も、実際にこのように行われることになるのである。最初は右も左も分からない境涯にあっても、最終的にはニルヴァーナに到着することを得る。このような意味において、途中の紆余曲折は問題とはならないということである。聖求を抱き、正しくニルヴァーナを目指している修行者は、必ずや正しい目的地に到達するからである。

 このように、仏道修行とはニルヴァーナに向かってまっすぐに道を歩むことを指している。そして、聖求ある人がそれを為し遂げると説かれるわけである。ただし、実際の道の歩みは、カリキュラムを消化するような定規で引いたような道を一直線に進むものではなく紆余曲折のある遍歴修行となる。ここで、遍歴修行がまっすぐに歩むことであると説かれるのは、それが大道に沿って迷わずに進むべしというほどの意味だからである。

 実際、見知らぬ土地で道を尋ねたとき、「この国道に沿ってまっすぐに行けば良い」などとアドバイスされるであろう。もちろん、これは左右に1mmも逸れずに幾何学的な直線で進めという意味ではない。横道や脇道は多数あれどそれらに惑わされることなく、この国道に沿って進むことがまっすぐに進むことになるという意味であるのは当然である。仏道をまっすぐに歩むことも同じである。紆余曲折があろうとも、理法に適った道を進むことがまっすぐにニルヴァーナに向かうことになるのである。そして、彼にとってその道が最短である。

 繰り返しになるが、遍歴修行は途中の紆余曲折を認めるということである。とすれば、読者が気になるのはどの程度の逸脱が許容されるのかということであろう。これは、逆に言えばどの程度の逸脱を要するのかと言うことでもある。

 真実を言えば、修行者はこの世で修行と称するありとあらゆるものに興味を持つことが許される。ただし、誤った修行法に抜き差しならないほど嵌まり込んでしまうならば、もちろん修行は完成しない。修行生活は、途中でくずおれてしまうだろう。なお、ここで誤った修行法というのは、安らぎに役立たないという意味である。

(以上引用)


*法津如来のコメント

今回の引用は、面白いし、わかりやすいので、特別なコメントはありません。それよりもこの引用に相呼応するような石法如来の特別寄稿を昨日頂きましたので、次のブログ記事で掲載いたします。


この記事へのコメント

ノブ
2020年10月20日 23:36
もう何年も前のことです。もしかしたら10年も経っているかも知れない。
当時私は、srkwブッダをブッダと思い、彼のHPを毎日ほど読んでいました。
ある日、私はsrkwブッダにコーヒー豆を贈ろうと思い立ち、地元の町をうろついていました。私自身はコーヒーを飲む習慣がなく店を知らないので、探すしかなかったのです。そして見つけた、ここはどうかな?と言うコーヒー豆屋さん(たしか、一樹という感じの名前だった)で豆を焙煎してもらい、それを持って郵便局からバス停の間を行ったり来たりしていました。何故なら、郵便局に行く決心がつかなかったからです。
(当時私は働いてもおらず、お金もなく、誰とも知らぬインターネット上でみかけた人に、贈り物をするのは家族の目もあって難しかったのです。)
そしてまた郵便局を離れ、バス停に行くと、にはバスが一台停まっていた様に記憶しています。
そこで、私は次の様な声が、中空からするのを聞きました。

「真っ直ぐっていうのは、直線のこととちゃうんやで。」

ん?と思いました。バスの運ちゃんがなんか言ったのかな?と。しかし、声の主に該当する様な人は周りに誰もいませんでした。

かくして私は、関西弁のブッダの声を聞き、以来真っ直ぐということの意味を理解したのでした。
家に帰り、私が飲みもしない、挽きもしないコーヒー豆を冷凍庫に入れてある理由を母親に述べると、母親は、「なんや、送ったら良かったのに」と、軽く言いました。

結局私の気持ちは見届けられ、ブッダの声を聞きたいと言う願いは叶えられ、法界とはその様にあるのだと言うことも分かり、不思議ではあるが、別に疑う必要も特に無いと思うのです。

この様な例は他にもあるが、仏とは何者なのか、未だに分からないと言えば分からない。
ただ、私の様な者の気持ちを受け取る様な存在であり、それは私も同じであるだろうと、思われたのです。