SRKWブッダ著「仏道の真実++」【修行方法の例示】(3)

(以下引用)

【修行方法の例示】(3)

 ● 聖なる沈黙は、時に修行となる。

これは、慈悲喜捨の「捨」に通じるものである。

捨を完全に自分のものとしたならば、それは一つの解脱であると言っても過言ではない。

聖なる沈黙は、相手の本当のところを知ろうとして為されるものである。

同時に、自分の本当のところを表明するものとなる。

ここで大事なことは、その心底にある「それ」の有無是非である。

この「それ」が完成している人だけが、「捨」を為し遂げるからである。

ただ黙っているだけならば誰にでもできるだろうが、それは聖なる沈黙とは言えない。

ただし、たとえそうであったとしても沈黙を保つことは立派な行いであり、一定の意義は認められる。

(以上引用)


*法津如来のコメント

聖なる沈黙はもちろん、修行になります。何が聖なる沈黙であるかについては引用文に書かれていますから、それをよく考察してください。

ここでは、ただ黙っているだけも含む「沈黙行」について少し述べます。

ただ黙っているということも、決して易しいことではありません。特におしゃべりの人には難しい行です。時にはこのようなことを行ってみるのもよいのです。

沈黙行を始める前には、周りの人にそのことを告げて始めるほうがよいです。わたしの知り合いには首に「沈黙行中」と札を下げて行っていた人がいました。

沈黙行を行うと決めても、他人から声を掛けられる時以外にも、自分からその行を行っていることを忘れて、つい喋ってしまうことが多いのです。

この行を行ってわかることは、自分はいつも喋っているということです。声を出して喋らなくても心の中で喋っているのです。心の中では、絶えずいろいろな思いが浮かんでいるのです。

本当の沈黙行は、心の中のお喋るもやめることです。これができれば、聖なる沈黙になるのです。





この記事へのコメント