SRKWブッダ著「仏道の真実++」【観(=止観)】(4)

(以下引用)

【観(=止観)】(4)

 続いて、観の完成時に何が起こるのかについて述べたい。

 ● 観の完成時——実際にはその刹那の直前——に起こることは、止(シャマタ)である。この止を完全に理解したとき、観が完成する。すなわち、観の本質は実は「止」を理解する道程なのである。そして、何を観じても止が理解できるわけではなく、仏や衆生を観じた場合にのみ、止を真の意味で理解することを得るということである。

 ● 止は、心の停止ではない。むしろ、心に偉大なる決心を為すことである。それが止を生む。ただし、心は変じるものである。そこで、「敢えて心を働かせないことによって止を理解するのである」と説かれることになる。ただし、これを心の停止だと誤解してはならない。あくまでも、敢えて心を働かせないことによって・・・である。

 ● 止は、意識しない状態に似ている。世間において、自分は○○を意識しているなどと言うことがあるであろう。そのために動作がぎこちなくなったり、挙動不審に陥ったり、あるいはミスを犯したりする。そのような「意識する」ということが無い、堅固な心の状態に似ているということである。ただし、止が意識しないことと決定的に違うのは、その意識してしまうようなことがらを予め知っているにも関わらず止を完成させることができるという点である。つまり、止は知らぬが仏ということではないということである。止は、知って為す偉大な不動心なのである。

 ● 止は、人としてのやさしさの究極を理解したときに生じるものである。同時に、観が完成することになる。そして、この境地を「心解脱」と称する。心解脱者は、名称(nama)作用を終滅せしめており、この境涯に達した人は人間関係に煩うことは無くなる。

 以上が、観の全容である。文章にすると簡単そうだが、実際に観を完成させることは容易ではない。これは、止の理解が容易ではないことに起因している。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この引用文にはこれ以上の説明は必要ないでしょう。繰り返し読んでください。

あえて一言申せば、観の完成で人は心解脱者になるということです。



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