SRKWブッダ著「仏道の真実++」【公案】(1)

(以下引用)

【公案】(1)

 歴史的に最初に公案が作られた目的は、覚った人を互いに見分けるためのテストという位置づけであったろうと推察される。具体的には、仏ならばこのように行為するとか、仏はこのように考えるということをエピソードを含めた設問として提示し、その真意を相手に問うて技量を判断するわけである。そして、その問いに見事に答えることができた者は仏であるに違いないと考えられた。なお、このようなことが行われた背景として、覚ったと自ら主張する者が世に乱立し、誰が本当に覚っているのか見分けがつかなくなったということが考えられる。

 ところで、相手が仏であるかどうかを判断するだけであれば、面と向かって「あなたは覚っていますか?」と問えば済むことであると考える向きもあるかも知れない。しかしながら、往時においてはそれは実質的にできないことであると考えられたようである。なぜならば、質問者は自分が仏であると思っている。その仏とはやさしさの究極を体現した人であるから、相手を悲しませることがない筈である。ところが、「あなたは覚っていますか?」と問うて相手がそうではない場合には、相手を悲しませてしまうであろうことは明らかである。よって、そのような問いは敢えて発しないという不文律が形成されたわけである。また、この見解にしたがえば、「あなたは覚っていますか?」という問いを発する者は明らかに仏ではないという判断が直ちに下される結果ともなったわけである。

 ただし、これは覚っていない者が、互いに幼稚なレトリックに嵌まり込んだに過ぎない。何となれば、仏は確かにやさしさの究極の相を体現した存在であるが、仏の本質はこのような言葉遊びのような見解に堕するものではないからである。そして、このことは、公案が案出された時代のその地域に、生き身のブッダが存在していなかったことを示唆している。要するに、凡夫どうしが「仏とはやさしさの究極である」という言葉に踊らされていただけだと考えられるということである。

 また、同じことを目的として、公案という形をとらずに通常の対話によって相手が仏であるかどうかを知ろうとするアプローチも為されたようである。具体的には、相手に「仏とは何ですか?」とか「死後はどこへ?」などと問うやり方である。その回答が意に適った見事なものであれば、相手は自分よりも高い境地に達した仏なのであろうという判断を下した。そして、その上で弟子入りを願うというようなことが行われた模様である。しかしながら、これも愚者が狂人に道を尋ねるようなものである。それでは、目的地に辿り着くことはとてもできない相談であろう。

 さて、このような話をすると、公案は仏道を歩むこととは何の関係もないものであると断じてしまう人が出てくるかも知れない。ところが、公案そのものはそう捨てたものでもないと知られるのである。と言うのは、公案に取り組むことが観(=止観)の代用になる場合があるからである。その用に耐え得る既知の公案は多くはないが、幾つかはこの目的に役立ちそうである。

 なお、せっかく公案を観の代用とすることを考えるのであるから、その目的に合致した公案をブッダたる私自身が案出することに意義があるかも知れないと考えた。そのような経緯で発案し、提示したのが、「一円の公案」を初めとする一連の公案群である。

 なお、このような経緯を踏まえ、以後本書で公案と呼ぶのは観に役立つ限られたものを指すことを承知戴きたい。

 ここでは、公案についての所感を列記する。

(以上引用)


*法津如来のコメント

私は直接公案を通って解脱したわけではありませんが、私自身はSRKWブッダの公案に挑戦する過程において、SRKWブッダに親近(しんごん)し、仏教の真髄を学んだことは確かです。ですから、みなさんもSRKWブッダの公案に挑戦することは意味のあることです。

明日から、公案についてSRKWブッダの7つの所感を一つずつ引用します。



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