SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】◇ 精進努力論

(以下引用)

【善き談論】 ◇ 精進努力論

精進すべきことは真実についての考究であり、努力は混迷に陥らないように用いなければならない。

このようなことが説かれるのは、精進と洗練することを混同したり、努力とこだわりとを勘違いしてしまう修行者が見られるからである。

精進も努力も、安らぎという結果に結びつかなければ意味をなさないことはもちろんである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

2016年4月9日(土)のSRKWブッダのツイッターに次の言葉がありました。
https://twilog.org/srkw_buddha/search?word=努力&ao=a

(以下引用)
「努力は、報われるべきであると言う。しかしながら、覚りに向けた努力は、必ずしも報われるとは限らない。なんとなれば、覚りは努力では無く精進することによって近づくものだからである。そこで、静けさをめざして歩めと説かれる。努力が報われないからと言って騒々しくなるならば、本末転倒である。」
(以上引用)

精進と努力は同じような意味にも使われますが、その違いは知っておくべきです。

また、精進努力論の善き善き談論のために、SRKWブッダのツイログで、精進や努力を検索して調べることは精進努力論の善き善き談論のために役に立ちます。


この記事へのコメント

ノブ
2020年11月24日 15:50
静けさの他に

静けさには無用・用と言ったような事柄を立てる必要がない。
全て満ちているわけでも、何かが欠けているわけでもない。
言葉を尽くしてそれを説明する必要もない。
ただそれは安らぎと言われる。

この世には静けさと安らぎの他に、楽しみが存在する。
人はその総合をもって楽たる人生と言う。

安らけく静けさは苦悩の終わりであり、その完成を見るところは覚りの境地と呼ばれる。それを聖道の類は楽と言う。

ここに何ものでもない人があって、人生の苦を知り、悲しみを受けて、しかもそれらを超えた時に、彼はその総合たる人生について、何の詭弁も持たずに、楽を営む。それは究極的ではないが汎一的であり、単一的ではなく多様である。それは人生である。

しかしそれでも、楽を知り楽たるものに精通する人は、究極境地を目指すであろう。
けだし、完成とはそういう筋であるから。
才広
2020年11月24日 21:26
我が子が生まれたら幸せ。

我が子の幸せは、自分の幸せ。

すべての生きとし生けるものを我が子と思う阿羅漢才広は幸せ
才広
2020年11月24日 21:29
我が子が幸せでありますように

すべての生きとし生けるものは我が子

すべての生きとし生けるものが幸せでありますように

我が子の幸せは、自分の幸せ

すべての生きとし生けるものの幸せは、自分の幸せ

阿羅漢才広
才広
2020年11月24日 21:32
阿羅漢才広自体が

そのものが

すべての教え

阿羅漢才広そのものが