石法如来の特別寄稿「『名称と形態』の考察(その2)」

(その1)からつづく・・・。
SRKWブッダのホームページ、「覚りの境地」№006「名称と形態(nama-rupa:名色)」5行目に、「これらについて、原始仏典の別の表現(テーリーガーター:尼層の告白)では、名称を「刀」、形態を「串」のようだと形容しています。確かに、名称作用は自我を脅かしてこころを動揺させる刀のようなものであり、一方、形態作用は人類の歴史的経験のエッセンスというべきものであって、そのように凝縮されたイメージの潜在形成力が全人類を貫くように投影されていて、個々人が有する縁に応じて適宜各自の自我意識に深い影響を与える集合的こころ(として認知される心的作用)のことですから串という形容は実にまとを得ています。」と説かれています。 
                                                                                                            
私は、この「刀(かたな)と串(くし)」という表現の中に凝縮された潜在形成力の威力(その人に与える影響力)の強さが表現されていると観ます。・・・それはあたかも、何も無い(無風)状態の時には特段影響を(その人に)与えることの無い「刀(かたな)や串(くし)」ですが、その人の生存を脅かすような出来事が起こった時、あるいは不利益を生ずるような事態が、または強烈な欲望が生起した時、更には何らかの原因で衝動的な気持ち(欲求)などが沸き上がった時などには、あたかも「刀(かたな)を振り回し」自らを傷つけるように・・・。あるいは、自分自身の集合的無意識に貫かれた「串(くし)が現実化して、その人間の肉体・精神をえぐるように作用」し(煩いのレベルから)一気に「苦しみのレベル」へと突っ走る。・・・その様な精神要素を、人(衆生)は持ち合わせているのだと考えることが出来ます。                                             
 
人間は、その長い長い歴史の中で「どの様な苦難に耐えて生きてきた」のでしょうか?・・・私は、歴史(時間)を刻むということは、そんな簡単で生やさしいことではないと考えます。

生き残るために必要な生存本能、勝ち残るための闘争本能・闘争心(それを支える強固な身体と精神力)、そして様々な本能的欲求(食欲・性欲・睡眠欲)を満足させねばならない現実と向き合いながら、自分自身の生命や子孫を残すために健闘して来たのです。
 
気の遠くなるほどの長い時間、その全ての知識と経験がぎっしりと詰まっているのが「集合的無意識」というもので、そこには綺麗事では済まされない「人間のどろどろした部分が隠されている」と観る必要があります。ではその、「人間のどろどろした部分」に何が隠されているのかと考えると、それは「妄執(もうしゅう)」であると言えます。
 
妄執とは、「迷いによる執着、成仏を妨げる虚妄の執念」(「goo辞書」より引用)を表現する言葉ですが、人類は長い歴史の過酷な環境の中で生き残るために「歯を食いしばって頑張って生きて来た」はずです。決して、「生やさしくはない」環境の中で生き残るための強烈な執念が、妄執と化して自らの「集合的無意識」の中に継承されて来たと考えることができます。 
 
「覚り=解脱」というものを考えた場合、人々の心は妄執に覆われ真実のやさしさを知らずにいます。それゆえに、「人がたった一つでも真実のやさしさ(=智慧)を知ったならばかれは心を覆う妄執を超えることが出来る。そのとき、人は解脱して仏となるのである。すなわち、「誰もがやさしくありたいと願っていること」これが、人が誰でも解脱できると確約し得る根拠のすべてであると言えるのである。」(以上、SRKWブッダ『覚りの境地』37頁から引用)とSRKWブッダは説かれます。
                                                                                        
では、心を覆う妄執とは何だったのでしょうか?・・・それこそ、「この名称と形態(nama-rupa)である」とSRKWブッダは説かれますが、ただ、気をつけなければいけないのは「名称と形態そのものが苦を生じているのではない」という部分です。

上記、「この名称と形態(nama-rupa)」とは、「解脱以前の名称と形態そのもの全体ではなく、苦を生じるように働く、いわば悪しき名称と形態の部分の意である。」(『覚りの境地』39頁から引用)と説かれていますが、これは一体どう言う意味でしょうか?
(※悪しき「名称と形態」の部分を、「この名称と形態」と標記していることに注意。)
 
これは、人間の存在というものを考えてみれば分かることです。・・・人間の長い歴史を刻んだものが「集合的無意識=形態」であるにしても、全てが執着する心(マイナス面)に覆われている訳ではなく善い要素(プラス面)も沢山兼ね備えていると考えるべきです。

覚り=解脱を考えた場合、どうしてもマイナス面に焦点が当たりがちですが、人間にはプラス面も十分に保持されている訳です。例えば、「どんなに悪い人間といえど、良い面を一つや二つ持っている」と表現されるようにです。
 
悪しき名称と形態の部分には、「苦を生じるように働くが、名称と形態そのものは解脱してもきちんと残るのです。そして、その残った名称と形態には苦が生じないということである。」(『覚りの境地』39頁を参考)とあります。

そして大事なのは、苦の要因は人の外にあるものだから消滅させることはできないが苦の体たる、「この名称と形態(nama-rupa)を消滅せしめることはできる。それらはいわば内部にあるものだからである。それができるということが法(ダルマ)であり、法によって苦の体が消滅したことを解脱と称するのである。」(『覚りの境地』40頁から引用)と説かれる箇所です。

                                                                              (つづく)

*法津如来のコメント

本日、2回目のブログ更新です。
前回掲載した石法の如来の特別寄稿「『名称と形態』の考察(その1)」の続きです。


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