SRKWブッダ著「仏道の真実++」【善き談論】◇ 解脱知見論

(以下引用)

【善き談論】 ◇ 解脱知見論

解脱したときには、自分が解脱したという正しい知見を生じる。

私自身、覚り以前にこの教えを知ったとき、なぜそのような知見を生じると断言できるのかがとても不思議であった。

しかしながら、実際に自分が覚った(=解脱した)とき、まさしく解脱知見を生じたのである。

ここに、その疑問は解決した。

そして、この解脱知見ゆえに、自分自身の解脱を他の誰かに認定してもらう必要はないことを知ったのである。

これは例えば、智慧の輪が解けたときの「確かに解けたという知見」に近いものである。

修行者にとって、解脱知見について考究することは、自分の修行の完成について論議することと関係している。

解脱以前において、解脱知見の何たるかを理解することは不可能であるが、このような知見があるのだと予め知っていることは、修行生活の一助となるものである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

「解脱したときには、自分が解脱したという正しい知見を生じる。」このことについて、私の場合を少し紹介します。

私は、2018年8月15日に当時小学生3年生の孫から法の句を聞いたのです。彼からそのような言葉が出るはずがないというような言葉でした。ですからその言葉は法の句に違いないと確信したのです。

そうすると、私は解脱するのだと思ったのです。これはすごいことだ、これである意味今までの努力が報われると思ったのです。

しかし、同時に私には解脱と解脱知見に関する知識がありましたから、それに照らし合わせますと、いわゆる大歓喜というものではありませんでした。じわったとした喜びはありました。

解脱に伴って起こる識別作用の消滅という現象には注意していましたが、まだはっきりしたものではありませんでした。

そこで、解脱したのならば、公案は通るかなと思い公案にも挑戦し、一円の公案の回答をSRKWブッダに送りました。便宜上つける点数は85点でした。再度挑戦したら0点でした。

正解を求めようとする行為は無意味であると悟り、公案はやめました。

そのようにして、年を超え2019年になりました。金剛般経を音読することは続けていましたが、1月15日の朝、経の意味がすらすらと解るのです。こらは間違いなく解脱しているのだと確信しました。それが解脱知見でした。




この記事へのコメント