石法如来の特別寄稿「『名称と形態』の考察(その3)」

(その2)からつづく・・・。
SRKWブッダのホームページ、「覚りの境地」№006「名称と形態(nama-rupa:名色)」8行目に、「なお、名称と形態を現代の言葉で平易に表現するならば、次のように言ってよいでしょう。」とあります。

名称作用: 一切を認識したときに同時に生じるある種の心的余韻作用                     
形態作用: 一切を認識したときに同時に生じる心的変換・増幅作用(心的アレルギー作用)
 
そこで、「名称作用・形態作用」の、双方の善い部分を除いて悪しき部分に焦点を当て、上記の作用を理解しやすい言葉で表現すると・・・。

●心的余韻作用とは・・・過去の不快で嫌悪すべき情報を思い出すことにより、全て幻(まぼろし・現実ではない)なのであるが、心にある種の傷(トラウマ)を負っており、自己抑制が難しい状態となってしまう。

●心的交換・増幅作用(心的アレルギー作用)とは・・・些細なことで理由もなく怒ったり、あることに対して異常に怖がったりまた焦ったりする。人類の長い歴史の中で抑圧された精神的なものが表層意識に出現し、その人にアレルギー症状が起きたかのように苦痛が生じる。・・・意識の深い部分にある抑圧によって湧き出てくる症状は、錯覚(さっかく)の如く実体はないのだが、その人間を苦しめることに変わりはない。
 
「名称と形態」を考察してみると、人間という生き物がとてつもなく深い存在であると言うことが理解出来ます。

私は、名称(=個人的無意識)と形態(=集合的無意識)が、その人間の持つ因縁(いんねん)の形成に深く関わっていると観ます。それを少し考えてみます。

因縁の形成には、善い要素と悪い要素が考えられます。・・・善い要素としては、●勤労・勤勉●真面目・誠実●正直・素直●優しいなどがあり、悪い要素としては●衝動的●暴力的●短気(怒りっぽい)●精神病的(酒乱・薬物)●強欲●自己破壊的などがあります。
 
以上のことから、因縁には善き因縁(要素)と悪しき因縁(要素)が考えられ、因縁の特性として言えることは、「善き因縁は、放って置いても(現在・未来において)善き結果を(導き)生み出す」ということ。逆に悪い因縁は、「仮に、善き因縁を複数持っていたとしても、悪しき強い因縁が一つでもあると(現在・未来の)全てを台無しにする可能性が大きい」という点です。
 
一つ悪しき因縁の例として、ここに「若くて美男子(美女)で、資産を沢山保有していて更には家族にも恵まれている人間」が居るとして、全く非の打ち所が無いように見えるが、実は「薬物(覚醒剤)の乱用・常習者」であった。そんな彼(彼女)の未来は暗く、やがて転落するであろうことは誰の目にも予測できることです。
 
この因縁は、「自己破壊の傾向を持つ因縁」と呼べるものですが、仮に「覚醒剤」を「人間関係のもつれによる殺人・傷害」、あるいは「うつなどの精神的な病による自死」などと置き換えても結果は大体同じであると予測できます。

仏道の修行により「覚り=解脱」を求めるということは、自分自身のもつ「悪い因縁」を消滅(解脱)させることと同じ目的を持ちますから、「名称と形態」と無関係なはずはありません。そこでこの様な考察においては、人間の善い部分を掘り下げるより悪しき部分に焦点を当て問題解決を図ることを重視する傾向があります。
 
また、深い人間の精神的要素を考える上で参考になるものに「習慣や癖」があります。その中の一つ、習気(しゅうき・じっけ)というものに着目してみます。

習気(しゅうき・じっけ)とは、「身にしみついた習慣」(「デジタル大辞泉」より引用)という意味がありますが、他に「 (vāsanā の訳) 仏語。煩悩(ぼんのう)を起こすことによって心の中に印象づけられた慣習的な気分、習性。これによって思想、行為その他を生ずるところから、種子(しゅうじ)とも呼ぶ。言語的表象から生ずる名言(みょうごん)習気、我執から生ずる我執習気、善悪の業から生ずる有支(うし)習気の三種がある。」(以上、「精選版 日本国語大辞典」より引用)とあります。        
習慣・癖(習気(しゅうき・じっけ)を含む)も、善い要素を持つものなら周囲に歓迎されますが、悪い要素を持つものは周囲に迷惑と害を与えます。・・・例えば、酒を飲む(アルコール依存)・ギャンブルをする。(ギャンブル依存)・借金を重ねる。(借金体質)・暴力を振るう(DV・家庭内暴力)等の習慣・癖は、自分自身や家族を崩壊させる原因に繋がります。                                                                   (つづく)

*法津如来のコメント

本日、2回目のブログ更新です。
前回掲載した石法の如来の特別寄稿「『名称と形態』の考察(その2)」の続きです。




この記事へのコメント

ノブ
2020年11月29日 17:40
二つ質問があります。

悪い因縁によって悪い境涯に至った人は、いかにして善い境涯に達して解脱するのでしょうか?

・薬物常用者に譬えられる人が人生の底を生きているのを見た時に、仏はどうしますか?

無意識の形成に人類の歴史が深く関わっているお話を聴きました。
ここに質問があります。
・私の習性と、父母の習性の異なるのは何故でしょうか?

子は父母に性格まで似ると言う事も事実としてありますが、父母の因縁がミックスされて別の顕れ方をするようになったのでしょうか?それとも父母の、善いところを受け継いだ子と、悪い所を受け継いだ子、両方を交互に受け継いだ子などがあるのでしょうか?
石法如来
2020年11月29日 20:54
ノブ 様

●最初の質問と薬物常習者に対して・・・。

「覚り=解脱」は各自のことがらであると言われます。だから、誰かに対して「どうこうしなさい」とは言えないものです。
ただ、真実に「覚り=解脱」を求める気持ちがあり(その気持ちが自らに)生ずるなら、自ずと道を見いだしていくことが期待出来ます。

●私の習性と、父母の習性の異なるのは何故でしょうか?
それこそが、因縁と言われるもので詳細は不明です。(どのようにでも考える事が出来るので、詳細不明と表現します。)
ノブ
2020年11月29日 22:07
石法様。
お返事ありがとうございます。

因縁と入道
私は、悪しき因縁により人生の底を歩く人と仏が出会ったならば、その出会ったことの因縁に従って法が現れる(法が示される)と思います。

殺人鬼アングリマーラが、御釈迦様と出会って道に入ったように、悪しき因縁により人生の底を歩く人々も、法を耳に、目にしたならば善き因縁の回転に入って、終には解脱すると思います。そして、そのようであってこそ、そこに法にまつわる因縁があったと言われるのだと思います。そして仏は法の体現者であって仏だと言われるのだと思います。

法がどのように示されるのか、仏が有為に示す(ダルマを示そうと決める)のか、無為に示す(図らずもダルマを湧出する)のか、或いは発心する人が内発的に発心するのか、ダルマを見聞したことで発心するのか、因縁によるのでしょうが、そこに仏と出会った以上、法にまつわる何かが起きると思います。

その意味で、仏は何もしないのではないし、何かをするのでもないのでしょう。しかしそうは言っても私は、仏はその時、何かを言ったり行ったりするであろうと思います。もしかしたらそれを為すのは解脱者(仏)ではなく、善知識(諸仏世尊)であるかもしれません。解脱者はもしかしたら、何も為し得ないかもしれないとも思います。そして彼が何も為し得ない場合、何も為し得ないことが回向して法にまつわる因縁へとつながるのだと思います。法の体現者とは少なくともそういうものだと思います。


習性について
過去生(今生の痕跡、人類の生の痕跡、ひいては生きものとしての痕跡、もっと言えば存在としての痕跡)より来る名称と形態によって紡がれる習性が、不可思議なものであって、故にそれは因縁として現象し明らかになる、と理解いたしました。