SRKWブッダ著「仏道の真実++」【聖なる沈黙】

(以下引用)

【聖なる沈黙】

この世には、言わなければならないことがあり、また言ってはならないこともある。

聖なる沈黙というのは、言いたいことが明確にあるのだが、それを口にすることで相手を——そして自分も——悲しませてしまう恐れがあるときに、敢えて沈黙を守るということを指している。

世間で言うところの瞳の色で語るということに似ているが、聖なる沈黙においては瞳の色一つ変えてはならないという点が徹底している。

すなわち、修行者は、いわゆる「黒い鏡(=光輝の無い鏡)」に徹しなければならないということである。

聖なる沈黙を知る人は、覚りの機縁に際して解脱を生じると期待され得る。

聖なる沈黙があってこそ、智慧がこの世に出現することを妨げられないからである。

覚りを願う人は、物言う口を捨てて聞く耳を持たなければならない。

それができない究極の状況である場合、聖なる沈黙とは物言う口を聞く耳に変える唯一の手段であると言えよう。

なお、聖なる沈黙とは、敢えて何もしないことではなく、むしろ誰よりもそのことに関わるという強い決心の静かな表明である。

修行者は、心底において傍観者であってはならない。

ところで、聖なる沈黙とは、耐えることや堪えることとは違う。

また、願ったり祈ったりすることとも違う。

自分が今為そうと思っていることは善いことであり、世間の誰にも非難されないことであると確信される場合、世人はその行為を実行してしまうだろう。

しかしながら、それが最上の答えとはならないことを知っている人は、ときに聖なる沈黙を為すのである。

聖なる沈黙を知る人は、他の人が聖なる沈黙を為したときにそれだと察知する。

ある場合、それが世に希有なる法の句に繋がっていくのを見るであろう。

そこで因縁があれば、その法の句を発した人ではなく自分自身に解脱が起こる。

(以上引用)


*法津如来のコメント

SRKWブッダのホームページ「覚りの境地」に「涼風通信」という欄があります。そこに法風如来が「聖なる沈黙」という記事が掲載しておられます。今回の引用文の参考になりますから、それを引用します。
http://srkw-buddha.main.jp/blue/report20201101.pdf

(以下引用)

聖なる沈黙

どうしてもいけなければどうするかの局面に「聖なる沈黙」が現われる。
どうしてもいけなければどうするかのその場に居た者達は沈黙をする。
ただ黙秘をするのでもなく、口を閉ざすのでもなく、聞かないのでもなく、目をそらすこともなく 心を閉ざすこともなく、思考を停止することもなく、彼が喋らなくても、 ただ、黙っていても、下を向いていても、座っていても、立っていても、 彼の本当の気持ちを知りたくて耳を傾け沈黙をしている。
そして、その場に居た者達は、彼と言葉を交わさなくても彼の望みを知り、 彼の望みを知ることが出来たとしても彼の望みを叶えてあげられず、 彼の望みを叶えてあげたくともどうすることもできずに沈黙をしている。
その状況に一人だけ、そうではない一人の善知識が突如出現する。
どうしてもいけなければどうするかの局面、一大事の時に善知識が現われ彼を可哀想だと思い 彼を悲しませたくないと発してくれるその言葉が法の句なのです。
そして、その法の句は彼だけではなくその場に居た者達を誰も悲しませることなく大団円となる。

それ故に、その場に現れた沈黙は「聖なる沈黙」となる。

(以上引用)



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