SRKWブッダ著「仏道の真実++」【観(=止観)】(2)

(以下引用)

【観(=止観)】(2)

 以下に、観の実際について述べたい。

 観は、修行者にとって一種魅力的な修行方法である。なぜならば、観は基本的には時と場所を選ばず、誰の手も借りずに自分だけで行うことができるものだからである。しかしながら、修行者が観を正しく実践することは決して容易ではない。修行者は、最初は何をどうすれば良いのかさえ分からないであろう。そこで、先ず基本的なことを手ほどきしたい。

 観には、形式張った特別な作法など存在しない。観は、基本的にいつでもどこでも行うことができるものである。大事なことは、観を行う対象と目的の正しい理解である。これさえ間違わなければ有意義に観を為すことができ、その完成も夢ではない。

 さて、観において本来観じるべき対象は仏である。また、観の目的は真実のやさしさの理解である。すなわち、仏とは何かということを観じその完全な理解に達すれば観は完成を見る。しかしながら、生き身の仏に会ったことがない修行者にとってそれは雲を掴むような話になるだろう。

何となれば、これは見たこともない果物の味を想像せよと言うに等しいことだからである。例えば、バナナを食べたことがない人にその味わいを想像せよというようなものである。ここで、ヒントは「甘くて独特の風味がある」という程度であるとしよう。それでバナナの味わいを正しく想像できるであろうか。それは、無理であろう。同様に、観の対象や目的が明確であっても、それで観が周到に完成すると保証されるわけではない。

 このような場合、多くの人は自分が知っていることがらの中に対象と類似のものを探し、その究極の存在として対象を理解しようとするであろう。また、目的の達成についても分かった気になってしまうに違いない。もちろん、それでは観の完成にはおぼつかない。

 そこで、仏を観じるのではなく衆生を観じることが勧められる。この代替した観において、衆生の極限のすがたを追究するのである。そして、この観において衆生を完成したならば同時に仏を見ることになる。何となれば、衆生の完成と仏の出現は同時に起こることであると説かれるからである。

 ここで、なぜ衆生を観じることが仏を観じることになるのかという疑問を持つ人もあるかも知れない。これは、意味合いとしては例えば数学の背理法のような考え方である。正攻法では容易に解けないので、真逆の設問を援用して証明を進め、その最初の証明をうまく利用して当初の設問を証明するやり方である。もちろん、衆生を否定したところに仏が存在するわけではないのであるが、衆生を完成させることによって結果的に智慧を得ることができるので、これが仏を観じたのと同じになるという論理である。

(以上引用)


*法津如来のコメント

伝統的な仏教(アビダルマ)に十随念という教えがあります。それらは仏随念、法随念、僧随念、戒随念、捨随念、天随念、寂止随念、死随念、身随念、入出息念というものです。

この中で仏随念は仏を常に念じるというものですが、これは一番難しいとされています。その理由は今回の引用文にもありますように、「生き身の仏に会ったことがない修行者にとってそれは雲を掴むような話になるだろう。」ということであります。

さて、そこで「仏を観じるのではなく衆生を観じることが勧められる。」ということになります。

その理由は「この観において衆生を完成したならば同時に仏を見ることになる。何となれば、衆生の完成と仏の出現は同時に起こる」からなのです。



この記事へのコメント

才広
2020年11月07日 20:32
生きとし生けるものが幸せでありますように=ゴータマ・ブッダ

ゴータマ・ブッダ=生きとし生けるものが幸せでありますように
才広
2020年11月07日 20:35
だから

生きとし生けるものが幸せでありますようにに自分が至ることで

ゴータマ・ブッダの自分に対するに至ることになるし

ゴータマ・ブッダが自分に対するに至ることで

生きとし生けるものが幸せでありますように自分に対するに至ることになるし 
才広
2020年11月07日 20:38
生きとし生けるものが幸せでありますように

とはこれだ



ゴータマ・ブッダが自分に対するこれだし

自分が生きとし生けるものに対するこれだし

重なる
才広
2020年11月07日 20:43
しかし

実技として

食べるが消える

生きとし生けるものに一切干渉しない

その解脱して

解脱後以前と変わらぬ生活しながら

食べるが消えてる

食べるから解脱してる

生きとし生けるものに関わることから解脱してる

8日間ぐらいは

試した方がいいよ

いうても実際で確かめるべきだよ