SRKWブッダ著「仏道の真実++」【経典の読誦】(8)

(以下引用)

【経典の読誦】(8)

ところで、経典は真のやさしさについて記したものであることを知っていたとしても、やはり難解なものであろう。

書いてあることは一通り理解できても、それがどうして素晴らしいのかがピンと来ないのもある意味では当然である。

例えば、親が子に対して発する躾の言葉が、子供にはすぐには理解できないようなものである。

子供は、躾けられたのではなく叱られたと感じるかも知れない。

しかしながら、その言葉によってしっかりと躾けが為されたならば、その子供が大人になったとき、躾の言葉の真意を理解することになるのである。

親の言葉はありがたいものだと、遅まきながら知るであろう。


経典の記述も、修行者が功徳を積んで機縁を生じ、見事に作仏したときにその真意と素晴らしさが知られることになる。

修行者は、ここに至って初めて、経典がなぜ尊ばれるのかを理解することになるのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

私は最近近くの小学校内で行われている補習授業のボランティアを行なっていますが、生徒さんは練習問題の答えのみを知りたがって、なぜ練習問題をやっているのかわかっていないのです。

それと同様なことは、修行者が経典の読誦の意味を理解してないことにあるのでしょう。



この記事へのコメント

ノブ
2020年12月08日 20:09
子供としては、補習など早く済ませて遊びに行きたいのでしょう^ ^

大人になった時には、子供の頃の学びは遥か後方に退いてはいるが、それが果たし、また現に果たしている役割を考えると、その必要性は明らかに知られるところであります。読み書きや四則演算は、のちに続く学業の入り口でもあると同時に、社会生活を営む上での基礎的なスキルとなります。

しかし子供時代に、その様な後のことを意識して勉強する子は稀でしょう。居ないと言っても良いかも知れない。

諸々の修行者と子供の様子で違うのは、修行者は自ら望んで経文に親しみ、自ら望んでその本当のところ、覚りの真実を明らかにしようとしているところです。

修行者は自分のやっている事については、子供と違って、「こんな勉強なんてやる意味ない!」などと思うことは無い。彼らはやらされているのでは無く、自主的にやっているからです。

法津如来
2020年12月08日 21:37
ノブさん、コメントありがとう。

たしかに、修行者と生徒とは違うでしょう。

しかし、私には同じように見えます。
ノブ
2020年12月08日 22:49
そうですか^ ^
法津さんも長く修行したと聞きます。
早く答えを知りたいと思う修行者の気持ちも分かる事でしょう。
その時の気持ちが、補習を受ける小学生の急いた気持ちと被ると言うのも分かります。
私も20年を越えて求めて来ているので共感はできます。
しかし同時に修行者は、焦りを離れているのも事実です。少なくとも私が出会った人々は修行者を自称はしないが、焦っては居なかった。

白川さんに縁のある方々に共通する所ですが、世に住まう人々と覚った人がかけ離れていると述べる所に、私はいつも、そうかなあ?と感じています。

正直言いまして、言うほどは離れていないと思います。確かにケイゲを抱える身ではあるが、本質的にはそう変わらないどころか、同じなのでは無いか?と思うことさえあります。