石法如来の特別寄稿  「この世の虚妄(偏向報道)と潜在意識」

私は、もうすぐ70歳になります。思えば、随分長く生きてきたものですが「覚り」を得たのち、この世を見渡しますと特に「虚妄なるもの」の存在を痛感致します。分かりやすい事例を紹介しながら少し書いてみます。
 
今年は、「新型コロナ騒動」に始まりそれに終わる一年になりそうですが、今私が一番興味をもって見ているのはアメリカの大統領選挙のその後です。

ここで今、アメリカを二分するような事態が起こっています。・・・現在のところアメリカ大統領選挙の勝敗は決まっておりませんが、その理由は激戦州と言われるところで「票の確定」作業が未だ出来ないでいると言うことと、「民主党側が、全国規模の不正選挙を行った」とトランプ大統領陣営が訴訟行動を起こしているからです。
 
ここで、その細部を論じることは致しませんが着目すべきは双方の言い分です。(特に、大手メディア)・・・大手メディアは総出で「トランプ大統領排除」を企図(きと)しており、当然彼らの報道する内容は驚くほどの「偏向報道」であると受け止めております。
 
ちなみに、「偏向報道(へんこうほうどう)とは、ある特定の事象について複数の意見が対立する状況下で、特定の立場からの主張を否定もしくは肯定する意図をもって、直接的・間接的な情報操作を行うといった報道のことである。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用)と表現されます。 
                                                                                
最近の関連するニュースとしては、大統領の側近であるはずの司法長官が「アメリカ大統領選挙で、重大な不正投票は見つかっていない。」という報道でそれは世界中を駆け巡りましたが、私の住むローカル紙(北海道新聞)でも記事となり報道されました。
 
アメリカ司法省の報道官は「その様な発言はない」と否定しておりますが、普通に考えたらフェイクニュース(虚偽の情報でつくられたニュース)で、一事が万事その様な状態でアメリカ大統領選挙について何も知らない日本人がその記事を見たら、果たして「どう考える」でしょうか?

トランプ大統領は、「根拠(証拠)も無いことを言ってごねている」・「潔くない」・「勝敗はとっくについている」・「早くホワイトハウスから退去しろ」等と考えても不思議ではありません。
 
最近、私が知人とアメリカ大統領選挙について話をしているとき「そのような(上記のような)答え」を聞いて、やはりテレビ・新聞等の報道を信じている人が多いのだなと痛感致しました。日本の場合、報道はアメリカ大手に右ならえですから当然の結果といえます。
 
実はこの世において、今耳にし目にしている情報が正しいか正しくないか?を判断するのは簡単なことではありません。いつも一方的な話ばかり聞いていると、「潜在意識(個人的無意識)」にしっかり記憶され、自分自身正邪(正しいことと不正なこと)の判断基準にしてしまいます。
 
「「名称と形態」の考察」でも述べましたが、「人々(衆生)にはケイ(網頭らに圭)・ゲ (礙)と名付くべき心的障害がつねにつきまとっているのであり、そのために素直なこころ(=真如)を働かせることが出来なくなっているのだと考えなければなりません。」とあるように、「潜在意識(個人的無意識)」は、案外「同じ情報の反復」には弱く何度も頭に入れている(記憶している)うちに「それが正しい情報」であると誤認したとしても不思議ではありません。
 
ここに、「プロパガンダ」という言葉があります。プロパガンダ(羅: propaganda)とは、「特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った行為の事である。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用)という意味です。
 
第2次世界大戦中、ドイツに「プロパガンダの天才」と言われた人物がおりました。彼の名前は、ヨーゼフ・ゲッベルス(Paul Joseph Goebbels, 1897年 - 1945年)、ナチスドイツの宣伝大臣を担当し、ヒトラーの政権掌握とナチス党政権下のドイツの体制維持に辣腕を発揮した人物です。
 
彼は、こう言っています。・・・「もしあなたが十分に大きな嘘を頻繁に繰り返せば、人々は最後にはその嘘を信じるだろう。嘘によって生じる政治的、経済的、軍事的な結果から人々を保護する国家を維持している限り、あなたは嘘を使うことができる。よって、国家のために全ての力を反対意見の抑圧に用いることは極めて重要だ。」と・・・。
 
マスメディアが、手を結びこぞって偏向報道を流せば、何も知らない人間は「それが正しい情報」であると認識し判断してしまいます。そう考えたなら、同じ意見ばかりではなく異論(他と違った意見や議論)を受け入れる、あるいは学ぶという姿勢が大切になります。
 
これは、仏教の勉強でも同じことが言えます。・・・何でもかんでも「信じ過ぎる」ことは危険であり、多様な文献を学ぶことが時に大切です。仏教は、思想上の歴史が2500年以上もありますから「同じようなことを言っているがまるで違っている」ということが無いわけではありません。
 
大切な事は、「信じるこころ」と同じように「疑うこころ」を持つことです。その相反する二つの見解をバランス良く保ち様々な文献を学ぶこと。・・・時間はかかりますが、着実に教学を積み重ねるという努力が必要で、それを怠ると「経典に転ぜられ」全てが無駄になってしまいます。


*法津如来のコメント

本日、2回目のブログ更新です。


 

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