SRKWブッダ著「仏道の真実++」【気をつけること】(1)

(以下引用)

【気をつけること】(1)

すでに覚った人にその秘訣を尋ねたならば、多くの場合次のような答えが返ってくるだろう。

「気をつけていたので覚ることができた」

すなわち、覚った人は、自分が正しい道を歩むことについても、覚りの機縁を生じることについても、功徳を積むことにおいても、智慧を見出すことにおいても、その他仏道に関するあらゆることについて、気をつけていたゆえに覚りを達成することができたのだと理解しているということである。

ここで、気をつけているべきであるというのは日常的なことを言っているわけではない。実際、気をつけていてもちょっとした失敗をしたり、うっかり怪我をしたり、事故に遭遇することもあるだろう。しかしながら、それらのことは覚りに向けた道の歩みとは関係が無いことであるので、修行者は別に気にすることはない。

仏道を歩む修行者がとくに気をつけているべきことは、善知識との遭遇を見逃さないことである。何となれば、通常、人は第一の善知識に出会って発心し、第二の善知識が発する法の句を耳にしてついに覚ることになるのであるが、これらの遭遇は誰にとっても希有なることだからである。

実際、善知識が出現し易い特定の場所があるわけでもない。互いに善知識になり合えるような人間関係の集まりがあるわけでもない。同じ人が何度も善知識になることもない。善知識は、自分の周りで自分に関連した形で、しかし不意に出現するものである。このため、気をつけていないと善知識との出会いを察知することが難しいのである。

また、善知識は既知の人であれ見知らぬ人であれ、意外な人の口から発せられる。このため、相手を軽んじていたり邪な目で見ていると、その人から善知識が発せられても気づくことが難しくなる。つまり、まさかこの人から善知識が出現する筈はないなどと思い込んでいると、聞いても耳に残らないからである。そこで、修行者は、目の前の人が誰であれ恕(じょ)すべきであると説かれることになる。

(以上引用)


*法津如来のコメント

【気をつけること】の章は2回に分けて、引用します。

ここで言う「気をつけること」とは、「日常的なことを言っているわけではない。」ということです。

「仏道を歩む修行者がとくに気をつけているべきことは、善知識との遭遇を見逃さないことである。」なのです。

そのためには、「修行者は、目の前の人が誰であれ恕(じょ)すべきである。」と述べられています。

この「恕(じょ)」の意味は辞書には、「他人の立場や心情を察すること。 また、その気持ち。 思いやり。」と書かれています。

さらに、ここで言う「恕(じょ)」について、詳しく知りたい方は、SRKWブッダのホームページの「理法」の欄の次の項目を参照して下さい。

【恕(じょ)すこと】
http://srkw-buddha.main.jp/rihou113.htm

【恕(じょ)すことと許すこととは違う】
http://srkw-buddha.main.jp/rihou113_sub.htm


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