SRKWブッダ著「仏道の真実++」【気をつけること】(2)

(以下引用)

【気をつけること】(2)

ところで、ある者は気をつけることそれ自体にとらわれてしまう。つまり、しっかりと気をつけてさえいれば覚ることができると頑なに思い込んでしまうのである。しかし、それでは仏道で言うところの気をつけていることにはならない。

なお、気をつけることは最初が肝心である。最初を誤ると、その後正しく気をつけていたとしても覚りを生じないからである。これは、ボタンの掛け違いに譬えられることがらである。つまり、最初のボタンを掛け違えてしまうと、その後どんなに正しくボタンを掛け続けても、最後は残念な結末になってしまうということである。同様に、折角の仏道の歩みも、最初を誤ると最後までニルヴァーナに到達することができない。

仏道における最初の肝心なことは、「聖求」と呼ばれる。聖求ある人が、ついにニルヴァーナに到達するからである。また、途中のボタンを正確に掛け続けることは、「明知」によるものと説かれる。

一般論として言えば、気をつけて仏道を歩むには、慌てることなくゆっくりと邁進することが肝要である。それによって、善知識との出会いを無駄にせずに済むからである。また、ときに道を逸れることがあっても、これならば大きく逸れることはなく、適宜に修正して正しい道に戻ることもできよう。仮に、袋小路のような魔境に陥ることがあっても、難なく脱することができるに違いない。

言い方を変えれば、気をつけて仏道を歩むことは危険に近寄らないことと同じである。したがって、修行者は興味本位に怪しげなことに手を染めてはならない。また、誰かにけしかけられたり、他の人をけしかけてはならない。そのようなことをすると、危険が増すからである。仏道は、静けさをめざして独り歩む道である。気をつけてゆっくりと邁進することが、道の歩みそのものなのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この引用文の要約は次の通りです。


気をつけることそれ自体にとらわれてはいけない。

気をつけることは最初が肝心である。

仏道における最初の肝心なことは、「聖求」と呼ばれる。

気をつけて仏道を歩むには、慌てることなくゆっくりと邁進することが肝要である。

気をつけて仏道を歩むことは危険に近寄らないことと同じである。

仏道は、静けさをめざして独り歩む道である。


なお、「聖求」については、本ブログの2020年8月13日と14日の引用文を参照して下さい。
https://76263383.at.webry.info/202008/article_14.html
https://76263383.at.webry.info/202008/article_15.html



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