SRKWブッダ著「仏道の真実++」【普遍妥当なる道】(2)

(以下引用)

【普遍妥当なる道】(2)

ところで、真理はいかにして普遍妥当性を持つのであろうか。その根本の理由は何であろうか。知りたい人もいるであろう。

その根本の理由は、覚りがこの名称と形態(nama-rupa)の脱落・終滅に他ならないという事実にあると考えられる。要するに、これを為し遂げない限りニルヴァーナに到達することはないということである。誰であろうと、修行者は必ずこの名称と形態を滅する必要があり、その事実が唯一なる真理の普遍妥当性を担保しているということである。

次なる理由は、覚りが真実のやさしさを知ることを契機として起こるという事実である。これは、仏の特質が「人の究極のやさしさの相である」ということに基づいている。つまり、真実のやさしさを真に知った人が仏となり、それ以後は真実にやさしい行為のみしかできなくなる——それをブッダと呼ぶ——ということによるものであろう。このため、覚るためにはどうしても真実のやさしさを知らなければならないが、これは通常この世には存在せず、ただ大事の局面においてのみ世に出現するものである。この原理の存在が、仏道の普遍妥当性のもう一つの根拠だと言えよう。そして、この世ではそれが法の句という言葉の形を以て出現することになっているというわけである。したがって、法の句を聞かない限り真実のやさしさを知ることはできず、これ以外の方法によっては真実にやさしい存在にはなり得ないこととなる。

さらなる普遍妥当性の理由は、覚りが人の身に起こるできごとであるということである。人が人を産む。したがって、どの時代の人も同じ真理に随って覚りを生じることになるということである。そして、法の句の出自であると推認される法界についても、人の遺伝的な要素に関連して発現するものであると推定されるのである。要するに、人が人と関わって覚りを生じること。すなわち、同じ生物種である人類どうしの関わりによって覚りが起こるという事実が、この一なる真理の普遍妥当性を生物的に基礎づけていると考えられるということである。

このようなことから、ニルヴァーナに至ることを目指す人は、仏道の普遍妥当性を信じなければならない。同時に、仏道以外の道によっては覚りに達することはできないということを理解するべきである。人類が存続する限りにおいて、覚りは、もろもろのブッダが知ったこの普遍妥当なる道によってのみ為し得ることである。その普遍妥当性の確かさを鑑み、これを法(ダルマ)と呼ぶのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

真理はいかにして普遍妥当性を持つのであろうか?

その根本の理由は、覚りがこの名称と形態(nama-rupa)の脱落・終滅があるからという事実です。

次なる理由は、覚りが真実のやさしさを知ることを契機として起こるという事実です。

さらなる普遍妥当性の理由は、覚りが人の身に起こるできごとであるという事実です。

・・・・・

「覚りが人の身に起こるできごとである。」理由は、人が多彩な言葉を持っているからです。

また、【普遍妥当なる道】(1)でも少し説明しましたが、「仏道以外の道によっては覚りに達することはできない」と言えるのは、仏教以外の道は覚りを目指していないという事実があるからです。また目指している時は必ず、仏教を参考にしている事実です。


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