石法如来の特別寄稿 「 法の句と『真実のやさしさ』」

ブログ「法津如来の独り言」で、12月17日に掲載された「SRKWブッダ「仏道の真実++」【普遍妥当なる道】(2)」の記事を拝読し、因縁を感じましたので少し書いて見ます。
私自身、法の句に関する体験談を2019年12月25日「善知識と法の句」と言うことで、記事を投稿したことがあります。・・・今から、丁度1年前のことです。
 
思い起こせば2013年の秋、娘家族の住むスウェーデンに向かうため成田空港近くのホテルに宿泊したことがあります。・・・折角、千葉に来ているのだからと叔父さん(実父の弟)に電話して、ホテルに来てもらい会話をする機会を設けました。
 
私は、実父とは幼い頃に生き別れになり、叔父さんとは今までゆっくり会話したことなどありませんでした。でも、この機会を逃したら次いつ会えるか分からないので面会することを決めたのです。
以前書いた文章には、その時の情景を・・・「話は、主に昔話と家族に関するものでした。特段、「法の句」を聞いたというような印象・記憶はありません。・・・ただ、その言葉はさりげなくつぶやくように語られ、その言葉によって「ある情景」が瞬間頭をよぎったことを思い出します。」と書いています。
 
この会話が行われた2013年の時点で、私はSRKWブッダの存在も「法の句」の何たるかも全然知りませんでした。この場面で重要なのは、「その言葉によって「ある情景」が瞬間頭をよぎったことを思い出します。」というところです。
 
その言葉によって思い出した「ある情景」とは、人間が人間として最もやさしさを表現する態度・行為なのですが、決して特別でも何でもないある意味、日常何処にでも見られるような光景です。
問題は、それが覚りに至る最も大事な(の)局面で「ストン」と腑に落ち、こころの底から「人の究極のやさしさの相である」と理解・納得できるか否かではないのか?と振り返ります。
 
その時のことを以前の記事では、「私の場合、観の修行は初日でしたが似たような修行(あくまで似たような)はずっと続けていました。だから、その世界(観)に入るのは案外スムーズでした。・・・ある情景を観じている時に、なぜかあのときポツリと発した言葉(法の句)を思いだしそれらがクロスしたとき、一瞬でそれは起こり特殊な感動を生じました。それは、あまりにも強烈な出来事でした。」と書いています。
 
文章にすれば長いですが、それは時間にすれば一瞬の出来事です。・・・法の句を思いだした時クロスしたのは正法であり理法です。言葉では、「正法・理法」ですが正確には「その人物が体得している仏教(ほとけの教えに対する)のレベル(到達階梯)」とも表現出来ますが、あくまで言語表現でありその辺は微妙です。
 
その辺のことを、SRKWブッダの著書では、「次なる理由は、覚りが真実のやさしさを知ることを契機として起こるという事実である。これは、仏の特質が「人の究極のやさしさの相である」ということに基づいている。つまり、真実のやさしさを真に知った人が仏となり、それ以後は真実にやさしい行為のみしかできなくなる——それをブッダと呼ぶ——ということによるものであろう。このため、覚るためにはどうしても真実のやさしさを知らなければならないが、これは通常この世には存在せず、ただ大事の局面においてのみ世に出現するものである。この原理の存在が、仏道の普遍妥当性のもう一つの根拠だと言えよう。そして、この世ではそれが法の句という言葉の形を以て出現することになっているというわけである。したがって、法の句を聞かない限り真実のやさしさを知ることはできず、これ以外の方法によっては真実にやさしい存在にはなり得ないこととなる。」(以下『仏道の真実++』157ページから引用)と説かれております。
 
「法の句」は、「真実のやさしさ」を表現する言葉そのものであり、それはどう考えてもそうとしか考えられない位のものです。(言葉としては、そんなに長くはありません。)・・・私のように、人生長く生きていれば長い人生の中で一度くらいその様に「真実にやさしい」言葉を聞いていてもおかしくありません。私の場合は、まさにそうでした、
そして問題は、修行により自分自身のレベル(修行の到達階梯)を向上させていることです。
 
聖求を持ち、正しい道を歩んでいる修行者に「大事の局面」がいつ訪れるかは予測がつきません。全ては因縁次第ですが、決して諦めることなく前を見て地道に歩みを進めるべきと存じます。



*法津如来のコメント

本日、2回目のブログ更新です。



この記事へのコメント

ノブ
2020年12月20日 23:09
それは、当たり前のことでは無いのでしょうか?つまりそれは稀有の事なのですか?
どの人にとってもそれは一生の間に2,3回くらいしかなく、100回1000回、或いは日常的、常日頃にそういうことはないと言う事でしょうか?
それとも、人生において数限りなく存在するが、因縁があるのは一つだけ(発心を含めれば二つ)と言う意味でしょうか?
石法如来
2020年12月21日 07:55
ノブ様

この世には、沢山の言葉があります・・・が。

その言葉(法の句)により、大事の局面において覚りの境地にまで到達できるか否か・・・ということです。
ノブ
2020年12月21日 12:07
”大事の局面”についてSRKWブッダのサイトからの引用によって質問したいと思います。

理法015番のサブ(右側に配置されているサブ項目)、”大事な話”を読んで思ったことです。http://srkw-buddha.main.jp/rihou015_sub.htm

おもちゃ屋さんの譬えで、こちらではおもちゃをねだる子供がわずかな金額で買えるおもちゃを買ってもらえなかった時のことについて述べられています。
つまり、簡潔に言うと、
1.子供が心から求めるもの(遊び道具)が手に入らないこと
2.ほかの子供は買ってもらえるのに、自分は買ってもらえず、親に対して不信感を抱くこと
3.(本当の大事)おもちゃ屋でのつらい体験により、おもちゃを欲しがらなくなり、おもちゃ屋さんに行きたがらなくなり、友達とも遊びたがらなくなり、孤独になってしまう事。

この譬えから、人類の大事について言及されています。
つまり、人は覚れると言う事を信じられず、理法に対し疑念を抱き、覚りそのものを求めなくなると言う事が人類の大事であると。

なるほど、覚りが子供たちが友人同士の関係によって大人になる事であり、理法がおもちゃに対応しているのでしょうか。

子供が孤独になった時、助けに来てくれるのは同じ子供の場合が多いと思われますが、人間の場合にも、人が覚りを求めなくなった時に、現れるのは同じ人(善知識)であると思われます。

ところで、このおもちゃ屋さんのシーンは、言ってしまえばよくある場面です。このよくある場面から、本当の大事を想起出来る事が肝要になるのかと思うのですが、覚りにおける一大事も、些細な事柄から一大事を想起して、と言う事になるのでしょうか。この人類の大事に相当する事柄も、よくある事のように思います。仏教を信じていない人は多いし、仏なんて坊主の創作だとか、覚りなんてのは不可能だとか、そういう意見は珍しくありません。とするなら、世に大事はありふれていることになりませんか?それに対応する善知識も、実は沢山あるのではないだろうか?と思ったのです。

ただ、自分に因縁があるかないかで、ほとんどの場合因縁が無く、因縁がある場合が大変限られていて、人生に数えるほどだと言う事なのかなと。

気をつけるとは、そういったありふれた大事を見過ごさないと言う事なのではないかと思えたのです。
石法如来
2020年12月21日 19:44
ノブ 様

SRKWブッダの理法015番のサブ”大事な話”を読むと、貴方がおっしゃるように「なるほど、覚りが子供たちが友人同士の関係によって大人になる事であり、理法がおもちゃに対応しているのでしょうか。」と読めなくはありません。

この喩え話は、前提が「因縁ある人」で書かれています。・・・しかし世の中には、「因縁のない人」が大多数ですから、そもそもこの喩え話に縁がありません。
そう考えると、貴方がおっしゃるように「ただ、自分に因縁があるかないかで、ほとんどの場合因縁が無く、因縁がある場合が大変限られていて、人生に数えるほどだと言う事なのかなと。」という自問は当然のことです。

私が、本文「 法の句と『真実のやさしさ』」で自らの身に生じた「大事の局面」は、29歳で仏教を学び始め初めて(66歳で)経験したことです。・・・それまで、その様な知識もなく想定すらしておりませんでした。それまで行っていたのは、自らを信じてその道を歩むということだけです。
きちんと功徳が積まれていれば、何も知らない分からない状態でも「起こるときは起こる」としか言いようがありません。それ故に、「覚りは各自のことがら」であると表現されるのです。
ノブ
2020年12月21日 22:07
石法様

因縁があるかないか、幾つあるのか、あるいは大事がありふれているのかいないのか、そういうことは心配する必要のないことだと言う事ですね。ありがとうございます。

しかしこのようにも思います。自分にとってはそうだろうと、心配する必要のないことだと。覚りが因縁による以上、またそれぞれの精進による以上、各自の事柄であると言う事もそうだろうと思います。

ただ、大事は見過ごされてはならないのは、人としては是非そうありたいと思う事であり、まして求道の人ならなおさらそう思えなければならないのではないかとも考えられます。大事を見過ごすことは人として、或いは求道者としてもあるべきではないからです。

そして、法華経に有名な火宅の譬えでは、この世は既に大事に遭っているとも受け取れます。
大事を見ることは苦の覚知と密接であると言うより、ほぼそれなのではないかと思います。

ならば、一大事において覚っていないと言う事は(自分も含めてか)人々の苦を見逃していると言う事と同じです。
そう考えれば、大事(大事の局面)とは何かについての考究もすぐれた意味があると思うのです。

因縁の有無にこだわらず、結局はその時に成し遂げられるかと言う事なのでしょう。出来る事は、あったとしてもそれぐらいなのかもしれません。

全てが苦しみであると観じる仏門においては、全てを解決するのではなく、たった一つの根本苦を解決することですべての苦が解決すると説かれています。それはまさしくその通りであろうと、思います。