SRKWブッダ著「仏道の真実++」【不可思議】(2)

(以下引用)

 ◇ 発心以前に起こる不可思議

有り体に言えば、発心以前の修行者は本当の意味での修行者とは言えないものである。何となれば、発心していない修行者は法の句を聞いても解脱しないからである。

ところが、発心以前の修行者であっても、まるですでに発心した立派な修行者であるかのように不可思議に遭遇することがある。その具体的なことを例示したい。聞けば、思い当たる人もあるかも知れない。

・ 発心以前の修行者が、仏教に興味を抱き覚りを目指すことを得る。これが、発心以前の修行者における大きな不可思議である。この不可思議は、意外に感じるかも知れない。何となれば、世には仏教に関する文物が少なからず存在しているからである。それらに触れて仏教に興味を示すことは別に不可思議とは言えないだろうということである。しかし、世に存在する文物のほとんどは発心した修行者が作り出したものではない。いわば、衆生が仏教のことをよく知りもせずに作り上げたものに過ぎない。にも関わらず、一定数の人々は仏教に興味を示すのである。この事実は、本当に不可思議なことなのである。

・ 発心したとき、その機縁となった善知識を特定するだけでなく、過去に出会った別の善知識の言葉をも鮮明に思い出す。つまり、これは、発心以前であったにも関わらず、善知識の言葉をそれが特別なものとして心底に記憶していたということである。これは、一つの不可思議である。

・ 未だ覚らぬ身でありながら、未だ道の歩みさえ始めていないにも関わらず、少なくとも最終的には仏教以外の他の宗教に興味を持つことがない。これは、一つの不可思議である。

・ 未だ覚らぬ身でありながら、未だ道の歩みさえ始めていないにも関わらず、仏教経典が重要なものであるとこころに知っている。これが、一つの不可思議である。実際、数十年あるいは数百年間、ブッダが出現しなかったこともあると推定されるが、そのような時代においても仏典が保存継承されて来た事実があること。これは、大きな不可思議である。

・ 未だ覚らぬ身でありながら、未だ道の歩みさえ始めていないにも関わらず、たとえ仏教の経典だと銘打ってあっても偽経に興味を抱くことがなく、怪しげなことには手を染めない。これが、一つの不可思議である。もちろん、偽経を正しい仏典であると思い込む人も少なからずあるようである。それでも、最終的に覚る人は偽経に傾倒するということがない。仏典の真偽を、発心以前においても知り分けていること。これも、大きな不可思議である。

・ 未だ覚らぬ身でありながら、未だ道の歩みさえ始めていないにも関わらず、他人に盲従することなく、一人で正しい道を歩む心がある。これが、一つの不可思議である。仏道は、徒党を組んで歩むことはできないものである。そのことを、発心以前においても知る人があるということである。しかも、彼は独りよがりな修行法に落ち込むこともない。これは、明知に関わる不可思議である。

・ たとえ眼前に仏や阿羅漢がいなくても、機縁を得たときに自ら発心することができる。これは、大きな不可思議である。微妙なる宝を、初めて見たにも関わらずその本質を見破り、自らの発心に結びつけることを得る。これは、それを為し遂げない限り発心せず、引いては覚ることを得ないという意味で重大なことである。ところが、これをある人はまるで容易に為し遂げるのである。発心すれば、覚りはすでに近い。なお、この不可思議は、この世に生き身のブッダが存在しなくなっても、仏縁ある人がほぼ自力で発心し、覚り、またブッダとして世に出現するという仏教の継続に関わる不可思議でもある。

(以上引用)


*法津如来のコメント

ここでは、発心以前に起こる不可思議が列挙されています。

・ 発心以前の修行者が、仏教に興味を抱き覚りを目指す。

・ 発心したとき、その機縁となった善知識を特定するだけでなく、過去に出会った別の善知識の言葉をも鮮明に思い出す。

・ 未だ覚らぬ身でありながら、未だ道の歩みさえ始めていないにも関わらず、少なくとも最終的には仏教以外の他の宗教に興味を持つことがない。

・ 未だ覚らぬ身でありながら、未だ道の歩みさえ始めていないにも関わらず、仏教経典が重要なものであるとこころに知っている。

・ 未だ覚らぬ身でありながら、未だ道の歩みさえ始めていないにも関わらず、たとえ仏教の経典だと銘打ってあっても偽経に興味を抱くことがなく、怪しげなことには手を染めない。

・ 未だ覚らぬ身でありながら、未だ道の歩みさえ始めていないにも関わらず、他人に盲従することなく、一人で正しい道を歩む心がある。

・ たとえ眼前に仏や阿羅漢がいなくても、機縁を得たときに自ら発心することができる。

確かに、これらはこの通りでありますし、今考えても不可思議なことであります。


この記事へのコメント

才広
2020年12月25日 07:25
複数が一冊の本に関わった本は、妥協が書かれた本で意味がない

独りの人が「自分はこう思う」という本も意味がない

著者の為、書かれた本も意味がない

それ以外を探すなら

見つけたなら

これは自分の為になる

だって自分の為に書かれた本だから

そこは、汚れた人こそ、気づきます

才広
2020年12月25日 07:33
親などが、お前の為と言いつつ、実際は親の為に、子にいろいろ言う。

そういう偽物をそういう汚れを、汚さを感じながら成長します。

その人が自分の人格向上進化の為に本を探すならば

本物を見つけます

これは本当に自分の為に言ってくれてる

そこが一つの悟りで

少し考えれば分かることだが

自分も自分を抜きにして相手の為を思い発言できる人になりたい

と道は完成です

才広
2020年12月25日 07:53
他人の言ってる内容

他人の言ってる論理

他人の言ってる説明

など全く意味がない

しかし

言葉を発する

動機に意味がある

本当に貴方の為を思ってます

なら意味がある

それを

初めての告白にたとえます

相手の笑顔を見てるだけで幸せ

それが相手の幸せを思う片思いです

告白したら邪魔?

告白しない方が相手の幸せ?

けど相手の幸せの役に立てたらどんなに幸せだろう

相手の幸せが丸々自分の幸せに感じられる

片思い

相手が幸せなだけで

自分も幸せ

片思い

しながら

ありがとう

と感謝してる

片思い

だが

出来るなら

相手の幸せの役に立ちたい

告白してみるか?

告白自体が相手の迷惑になるか?

最終告白する事に決めたとしよう

「すみません」

から、始まり

「ごめんなさい」

で終わるかも知れない

それが内容論理を超えた

清らかな心

例外なく全ての生に対してその心なら

完成なんです
hal
2020年12月25日 08:23
不可思議 


素晴らしい 事 です。

この朝に 聖なる 贈り物 のように 拝読致しました。

ありがとうございます。
才広
2020年12月26日 05:21
もう少し書いておけば

話の内容を悟れない

自覚出来ないが

確かにこの相手の方は

私の幸せを知って話されてる

そこは、心で読み取れるんですが

内容がどうしても理解できない

無明の自分

こういった現象は

あるでしょう。

ならば、理解したいから

既にそれが道なんです
才広
2020年12月26日 05:29
本当は

内容など理解出来なくていいんです

この相手の方は

私の幸せを知っていて話してくれてる

それを心で知ったら

もうそこで完成なんです

なぜなら

そう気づけるということは

そう気づける自分には

既に本当に相手の幸せを思う心があるから

気づけたんです

だから

動機一本で生きればいい

例外なく全ての生が幸せであります

の動機一本で生きればいい

完成です

動機の完成です

普遍なる動機の完成です
才広
2020年12月26日 05:38
この相手の方は私の幸せを思って私に言ってくれてる

私もこの相手の幸せを思って相手に言ってる

この両者は争ってないですね

いくら討論しようが争ってないですね

いくら討論しようが

それが和合なんです

お互い相手の幸せを願ってるんだから