石法如来の特別寄稿「覚り(さとり)について」

私は、朝方布団に入りながら「まどろみ」の中であれこれ考えるのが好きです。うとうととした中で、今回せっかく「名称と形態」について書いたのだから、参考になるよう関連する自分自身のことを少し書こうかと考えました。それで、題名を「覚り(さとり)について」としました。
 
「覚り=解脱」を達成したら、人間は「どのように変わるのか?」という点に興味をもたれる方が多いと思います。具体的なことは、SRKWブッダの著書『覚りの境地』19頁「ニルヴァーナ」に書かれておりますが、実際のところどうなのかという点に感心があると思いますので、それを少し書いてみます。
 
「「名称と形態」の考察」でも書きましたが、人間という生き物は「まっさらな状態でこの世に出現して来ている訳ではない」ので、(長い長い)生まれる前の記憶がぎっしりと詰まった状態の意識「家族的無意識(深層意識)」をもち、尚かつ幼少期などに体験した記憶が「個人的無意識(潜在意識)」を形成していることを考えたなら、確かに表層意識には「自分(我)自身」が存在していることは自覚出来ます。
更に自覚は無くても、他の意識層にも「自覚しない自分自身」が存在して居ると考えることも出来ますし、自意識の発露ともいえる表層意識にジキル氏(善人)とハイド氏(悪人)が共存していてもおかしくありません。・・・人間は、本当に深い生き物です。
 
そう考えると、素直に「自分がこうしたい」と考えたことに反対する自分自身が居たりします。(・・・そういう経験は多分誰にでもあると思いますが・・・)。仮に、邪な「自分自身の考え」を諫める「善良な自分」が居て、良い方向にそういう力を働かせるなら全く問題ありませんが、逆の場合なら「大きな問題を起こして社会的信用を失墜」させるということも無い話ではありません。
 
何を言いたいのか?と申しますと、人間という生き物は「非常に微妙な、意識(思い)の綱引きの中で生きている」とでも表現できるような、ある意味不安定な存在だということです。それを、「「名称と形態」の考察」の最後にSRKWブッダの言葉で、次のように説かれています。
「・・・それと同様に、人々(衆生)にはケイ(網頭らに圭)・ゲ (礙)と名付くべき心的障害がつねにつきまとっているのであり、そのために素直なこころ(=真如)を働かせることが出来なくなっているのだと考えなければなりません。そして、それゆえに人々(衆生)は、あたりまえのこころをあたりまえに表出できなくなっており、しかも自分自身ではそのことに気づいてさえいないのです。この知り難きこころの障害の根元こそが、名称と形態(nama-rupa:名色)に他なりません。」・・・。
                                                                               
般若心経の中にある、「・心無罣礙無罣礙故・」(しんむけいげむけげこ)の「罣礙(けいげ)」とは、「覆いさまたげるもの」という意味がありますから、人間という存在には常にその様な力が働いていて、「自分自身の行く手(進路)を邪魔」しているとも考えられます。
また、その様な邪魔(数々の障害)を排除するのが、名称と形態からの解脱であると表現することが出来ます。
 
その様な事象を頭に入れながら「覚り(さとり)」というものを捉えた場合、私自身日々実感するのは「余計なものが一切なくなった意識の状態が常に在る」ということをはっきりと自覚しています。故に、日常の感想としては、「とても楽(らく)で、なにごとも楽しく感じる」というのが率直な感想であり意見です。それは何故かと申しますと、自分自身を「煩わせている根本(原因の)存在がすでにない」からです。・・・こう言ってもピンと来ない方が多いと思いますので、更に細かく説明致しますと・・・。
 
人間の「煩い」とは、煩いを起こす原因となる様々な要因を頭(意識)で思い巡らせて、「ああでもない・こうでもない」・「そうなったらどうしょう・ああなったらどうしょう」などと、ある意味「どうでも良いこと」に思いを巡らせて、自分自身で自分自身を苦しめ悩ませている・・・というのが真実の姿だと言えます。そう考えると、人間の「様々な思い、その思いこそが苦しみの原因である」と言えます。
 
SRKWブッダの著書『覚りの境地』21ページのおわりに、「つまり、ニルヴァーナとは好ましからざる、余計な、煩いを生じるような識別作用が完全に無くなり、くつろいだ、ときほごされた、怒ることのない、世の一切と争わない境地である」と説かれておりますが、全く説かれたとおりのことが自分自身の精神要素の中にはっきりと在ることを常に自覚しているのです。
 
結局、「覚り(さとり)」を達成したならどうなるの?と聞かれたなら、「その煩いを生み出す思いというものが全くありません」と表現したら、覚りの一端が理解出来るのではないでしょうか。
そして肝心なことは、その様な思いを考えないように意識していて生じないのでは無く、普通に生活していて意識しなくても生じることは無い・・・すなわち、「煩いを生じさせる諸々の要素はすでに存在してはいない」と言うことなのです。


*法津如来のコメント

本日、2回目のブログ更新です。
前回掲載した石法の如来の特別寄稿「覚り(さとり)について」を掲載しました。


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