石法如来の特別寄稿 「『開経偈(かいきょうげ)』を読む」

仏教の経典に、『開経偈(かいきょうげ)』というものがあります。非常に短い経典ですが内容・意味は深いものがあります。
因みに、私がこの経典を知ったのは阿含宗という新興宗教団体に所属していた時代ですから、今から40年以上も前になります。
 
因縁に従い、それを少し解説させて頂きます。まず、経典ですが四行しかなくとても短いです。
 
無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう)百千萬劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ)願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)
 
経典の意味を、和訳致しますと・・・。
ブッダの説かれた、無上にして深遠・微妙なる教え(法・ダルマ)は、
百千万劫という果てしなく長い時間、生死輪廻を繰り返したとしても出合うことは難しい。
しかし私は今、この教えを見・聞くことを得たので、これを深く学び保たねばならない。
如来(ブッダ)の説かれた真実の教え(法・ダルマ)を深く理解し体得することを願う。
 
この経典は、とても短いですが内容としては前・後段の二段階に分かれます。・・・先ず前段ですが、仏の教えに会うことの難しさを説いておりますが、仏教を深く学ぶほどに私は全くその通りであると納得しております。
 
何ものにも喩えようもない位、意味が深くて微妙なるブッダの説かれた教法は、劫(こう・ごう)という単位で表現されるくらい果てしなく長い時間、生まれ死にを繰り返したとしても出合うことは難しいものであると説きます。
 
仏教経典の中に、「盲亀浮木の喩え」(もうきふぼくのたとえ)というものがあります。その解説はここではしませんが、私は理解しやすく「図書館のたとえ」ということを説きます。
・・・自分の家の近くに、大きな図書館が建っていると仮定します。そこには、数十万冊の蔵書が収められています。
 
普通の人がその図書館に入ったなら、「どの様な書籍を選ぶ」でしょうか?・・・色々と選ぶのに迷うかも知れませんが、当然普通の人なら「今興味を持っていることに関連する本」を真っ先に選ぶはずです。・・・数十万冊の蔵書の中から、余程な理由がなければ仏教書を選ぶことはありません。
普通に考えて、仏の教えとされる書物を選ぶことはとても難しいことです。
 
教養を高めるために仏教書を選んでも、書いてある内容が難し過ぎて(難解)、「よし、これを深く勉強してやろう」等とは普通考えません。・・・大抵は、ページをめくり少し読んで理解した気になってお終いです。
私事ですが、28歳で阿含宗に入会し29歳で阿含経に出合ったのですが、今までの人生において仏教書あるいは仏教経典を本格的に学んでいるという人間に、ほとんど出会ったことはありません。
 
何を言いたいかと申しますと、仏教の経典に出合うことすら余程の因縁がなければ難しいと言うこと、更にそれを掘り下げ仏教の知識を深めようとするこころを持つことは不可能に近いくらいに難しいですよと教えているのです。・・・それをこの経典(『開経偈』)では、百千万劫(ひゃくせんまんごう)という途轍もなく長い時間、仮に生まれ死にを繰り返したとしても不可能な位です・・と、ある意味当然のことを述べているのです。
 
仮に仏の教えに出合ったとしても、正しい如来(ブッダ)の法(ダルマ)に出合うのは更に難しいと言えます。それを「無上にして深遠・微妙なる教え(法・ダルマ)」と表現しています。
しかし、正しい如来(ブッダ)の法(ダルマ)に出合い学びを深め、聖求を抱き自らを信じ修行に精進するなら「覚り=解脱」は決して遠いものではありません・・・とも読み取れます。
 
後段は、修行・精進の大切さを説いています。・・・後段では、すでに正しい如来(ブッダ)の法(ダルマ)に出合ったと想定して説かれています。
無上にして深遠・微妙なる教え(法・ダルマ)に出合ったからには深く学ぶ気持ちをもち、それを保つことを心がけなければいけません。
 
自分以外の他者に頼ることなく、ただ一人危険のない穏やかな境地をめざす道(仏道)を歩むこと。その道は、平坦で障害もなく安全なるものです。素直に、まっすぐ「その道」を進むならば、目的とするゴール(覚り=解脱)は決して遠いものではありません。
 
如来(ブッダ)の説かれた真実の教え(法・ダルマ)を、深く理解して自らそれを体得することをただただ願いながら歩むことにしましょう・・・と。


*法津如来のコメント

本日2回目のブログ更新です。

本年2回目の石法如来の特別寄稿です。ありがとうございます。



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