SRKWブッダ著「仏道の真実++」【女性の修行(その1)】(11)

(以下引用)

【女性の修行(その1)】(11)

 ◇ 自信がつく修行

 自信があるのは、基本的には自分が認められているという認識があるからである。このとき、自分で自分を認めることによっても自信をつけることを得るであろう。

 一般に、できなかったことができるようになったとか、知らなかったことを知ったとか、分からなかったことが分かったなどということが、自分を認めることに繋がるものである。

 ところが、この仏道においてはいかなる途中の実りも存在していないことに注意しなければならない。このため、道の歩みにおいては、できなかったことができるようになったとか、知らなかったことを知ったとか、分からなかったことが分かったなどということを生じることは基本的に無いということである。このことを知らないと、努力しても修行が進んでいない気がして意気消沈してしまう修行者も出てくることになる。

 逆に、もし修行者が修行によって自分が何かを得たように思ったり、偉くなった気がしたり、特別な自信がついたなどと言うのであるならば、かれはすでに道を踏み外していると考えなければならない。この意味において、自信がつく修行などというようなものは明確な形では存在していないのである。

 ただし、正しく道を歩む修行者は次第次第に自信がついてくるのは確かなことである。それは、心底のものであって、自分が間違いなく仏道を歩んでいるのだという説明できない自信である。これはたとえば、数学の幾何学の問題を解いているときに。自分が間違いなく正解に近づいていることを確かに感じるその感覚に近い。実際、証明問題はそのようにして解けるであろう。同様に、仏道修行はこの説明できない自信の獲得を経てついに完成を見ることになる。

 したがって、自信がつく修行というものがあるのではなく、修行によって修行者としての最も大事な自信がつくというのが実際の有り様である。この修行者としての自信がついた人は、やさしく振る舞うようになる。それは、自分を含めて誰一人悲しませない行為となって現れることになるのである。そして、そのことが根本の自信をさらに深める成果となる。

 ところで、修行を進めていると、仏道を歩むことについての自信が根底から揺らぐことがある。しかし、それが却って発心の契機となったりする。そうして、さらに確かな自信が培われることとなる。もちろん、その是非可否は本人次第である。仏道を歩むことは、まさしく微妙なことだからである。

 なお、発心後の自信は確固たるものとなる。道の歩みが定まるというに相応しい。ただし、通常、そのことは本人には意識されない。ただ、この自信の上に機縁を生じたとき、解脱が起こるのである。このようなことから、この自信は自分に対する信頼に裏打ちされたものであると分かるのである。

 また、この自信は解脱知見とも関連している。この意味において、修行者が自信をつけることは修行の必然であると言えよう。そして、この自信は作仏後も引き継がれることになる。ブッダは、絶対の自信を持って自らの覚りを世に示現するからである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

今回の引用文の内容はかなり微妙なことが書いてあるので、繰り返す読んで頂くのが最上です。


この記事へのコメント

hal
2021年01月21日 13:39
仏は

人では

ない


すべてが

まどかに

やすらぐ