SRKWブッダ著「仏道の真実++」【女性の修行(その2)】(5)

(以下引用)

【女性の修行(その2)】(5)

 ◇ 家族と覚りの両立

 家族を大事に思う人が、覚りに向けた修行に勤しむよりも家族との生活を重要視するのは当然のことである。しかしながら、覚ることによってのみ真のしあわせに到達することができるのであるという真理を知り、理解し、志を起こした人は、その道の歩みに勤しむことによって家族との生活が損なわれることを懸念するであろう。これは、考え方として自然な流れである。

 実際、古典的な仏教観においては、出家しない限り覚ることはできないと考える人が多かったようである。そして、釈尊も、覚りに向けた修行に勤しむには在家よりも出家の方がすぐれていると説いていたようである。

 時代が下り、中国の禅の六祖(=慧能ブッダ)の時代になると、修行生活に勤しむことについて出家・在家は関係ないと説かれるようになった。これは、慧能ブッダ自身が、基本的に在家において作仏したことを踏まえての言明であろう。そして、私(=SRKWブッダ)や細君(法風如来)、および私の弟子の数人も在家で慧解脱してブッダとなっている事実がある。

 このようなことから、少なくとも現在の日本においては、在家で充分に覚りに向けた修行を行うことができると言えよう。

 実際、覚りに向けた修行は、通常の社会生活を営みながら時間を見つけて行うことで必要充分な修行を為すことができる程度のものである。朝から晩まで、寸暇を惜しまず、一心不乱に修行に励む必要はない。

 信仰においても、戒律に関しても、一般の人々が心配するような厳しいことがらは別に存在していない。修行者は、特定の教団に所属する必要など無く、修行も独りで自由に行うことができるものである。

 このとき、ブッダや先達に修行上のアドバイスを受ける必要もない。食事や飲酒についても制約があるわけでもない。修行に関わるすべてのことは自分自身で見出すことができ、その歩みについても、そして解脱においても自分自身の因縁で達成できることを説くのが仏教だからである。つまり、ごく普通の社会生活を送りながら覚りに向けた修行に勤しむことができるのである。よって、家族と覚りに向けた修行の両立は問題なく達成できると約束できることになる。

 その根拠は、修行生活と家庭生活とがまったく別のことがらであるということに根ざしている。要するに、修行生活が家庭生活に影を落とすことはなく、家庭生活が修行生活の障害になるということもないということである。現実的なことを言えば、修行生活は趣味を楽しむのと同じように送ることができるものである。

 ただし、もちろん、修行と趣味には違う点がある。それは、趣味はいくら突き詰めても趣味で終わるというのに対して、修行生活はその完成によって人としては数えられない存在に変容してしまうということである。このため、修行の完成に伴い実生活全体の見直しが突然迫られる事態となる。要するに、慧解脱してブッダとなった場合、遠からず通常の社会生活は営めなくなってしまうということである。これは、ブッダが、基本的にブッダとしての生活しか送れないことによっている。

 ただ、希望的なことを言えば、ブッダとその家族の生活は不可思議なる原理によって保証されると見られる。実際、その生活を護るように援助する人が現れたり、社会構造そのものが変化したりする。要するに、ブッダとその家族が路頭に迷うことがないようにしようとする見えない働きがあるということである。したがって、修行生活が覚りという形で終焉を迎えても心配するには及ばないということである。もちろん、いきなり生活が変化するのでは家族はビックリするであろうから、事前に解脱後の生活様態について説明しておくことは勧められることである。

 ここで、解脱後の家族の在り方についても述べておきたい。

 道は、大きく二つに分かれる。一つは、家族も修行生活に勤しみ覚りを目指すという在り方である。もう一つは、家族は通常の社会生活を継続するというものである。これは、実際のところどちらを選んでも問題はない。家族構成に応じて適宜に決めれば良いことである。

 なお、このように言うのは、ブッダが一般人である家族に対して次のように考えているからである。

 家族には、自分と同じようにしあわせになって欲しいと思う。しかしながら、それを言葉通りに実現するには家族もまた覚るしか方法が無いことも知っている。だからと言って、ブッダは家族を無理矢理に修行生活に入れようとは考えないのである。なぜならば、この一なる道は本人が自分自身で歩むことを決心しない限り正しく歩むことはできない性質のものだからである。

 そこで、通常は、先ず家族に対して自分が到達した境地(=ニルヴァーナ)を示現して見せることになる。その姿を見て家族が覚りを目指すならば、それはそれで素晴らしいことであると考えるのである。あるいは、その姿を見た上で敢えて家族が世俗に止まると言うのであれば、それももちろん一つの在り方だと理解することになる。

 今回、自分が覚ることを得たのはひとえに自身の仏縁によるものである。その仏縁が、家族にも同じようにあるかどうかは分からないことである。このため、本当のところ、覚り後の家族の在り方はそれぞれの考えに任せざるを得ないのである。

 なお、自分がまだ覚りに達しておらず修行中の身であるときに家族関係をどうするかという問いもあるだろう。これについては、次のように答えられよう。

 この場合には、何よりも先ず家族を悲しませてまで修行に勤しむべきではないということになろう。先ずは家庭生活を優先し、家族の理解を得てから修行に勤しむべきである。もしも家族に理解を得ることができない場合には、自分が修行生活に入るのは時期早尚であると考えなければならない。これは、世間における趣味活動の是非可否と同じであると考えて構わない。そして、家族の理解を得られない修行は完成することはないと考えて大過ないであろう。

 原始仏典においても、「尊い人(=ブッダ)は得がたい。かれはどこにでも生れるのではない。思慮深い人(=ブッダ)の生れる家は、幸福に栄える。(ダンマパダ 中村元訳)」と説かれる。

 これは、幸福に栄えるような家——すなわち仏道修行に理解がある家——から立派な修行者が生まれ、そのような修行者がついにブッダとなるということを言っているのである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

上の引用文の「実際、古典的な仏教観においては、出家しない限り覚ることはできないと考える人が多かったようである。そして、釈尊も、覚りに向けた修行に勤しむには在家よりも出家の方がすぐれていると説いていたようである。」について、スッタニパータ221偈では次のように述べられています。

「譬えば青頸の孔雀が、空を飛ぶときは、どうしても白鳥の速さに及ばないように、在家者は、世に遠ざかって林の中で瞑想する聖者・修行者に及ばない。」(中村元訳)

つまり、家族といしょに住んでいる在家者は、出家して修行する出家修行者には及ばないというのです。

私もそれを信じて、60歳で定年の際、家族を捨てて、テータラワーダ仏教の僧侶になりました。

早く出家したかったのですが、私はすでに結婚して、妻の他に子供二人おりましたので、彼らに対する責任があると考えたからです。

私が定年の時は、二人の子供は大学を卒業し、就職しましたので、その時を待って出家したのです。子供たちは私の出家を了承してくれました。

妻は私の出家を受け入れてはくれませんでしたが、彼女は公務員でありましたので、経済的には問題ありませんでした。

テーラワーダ仏教の僧侶は日本の大乗仏教の僧侶とは異なり、妻帯は認められていませんので、離婚ということになるのですが、相続問題などがありますので、戸籍上は離婚の手続きはしない場合もあります。私たちの場合は戸籍上の離婚の手続きはしませんでした。妻は私の気持ちが変わってまた戻ってくると考えていたようです。

そのようにして、出家修行をしたのですが、テーラワーダ仏教の教義には、形式的な儀式が多すぎて、釈尊の真意から離れているために、覚ることができないと確信しました。そのために、2016年12月15日、テーラワーダ仏教の僧侶をやめました。その後の経緯については、過去のブログ記事に掲載してあります。

テーラワーダ仏教の僧侶のをやめても、修行をやめたわけではありません。

元の家族のもとに帰りましたが、修その時はすでに、二人の子供は結婚をして家にいませんでした。妻だけが私を待ってくれていました。それに関してはありがたく思っています。

夫婦二人で生活し、私は私が必要と思う修行をしながら、2019年1月15日に解脱知見を得たわけです。

というわけで、家族と生活をしながら、解脱することができるというわけです。



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