SRKWブッダ著「仏道の真実++」【女性の修行(その2)】(7)

(以下引用)

【女性の修行(その2)】(7)

 ◇ 人生の転機

 年齢的なことにせよ社会的なことにせよ、あるいは健康に関わることにせよ、人生にはいろいろな転機が訪れるものである。その転機を境にして、自分がやりたかったことができるようになったり、逆にできなくなったり、まったく未知の領域に踏み込んでいくことになるわけである。

 総じて、転機が訪れるゆえに人生は豊かになったり波瀾万丈になったりする。そして、残念なことに墜ちていく人生もある。それが自分だけで決まることではなく相手を伴うことである場合、それぞれの転機によってどのような結末を迎えることになるかは予想もつかないことである。ある人は幸福感に多く包まれて人生を過ごし、ある人は壮絶な人生を送ることになるかも知れない。

 ただし、それがどのようなものであれ共通していることがある。それは、そうこうしているうちに人生は終わってしまうということである。そして、もし人生がそれだけであるならば空しい。どちらの人生も、最期はくずおれて泣くことになるであろう。死期を前にして、「自分の人生は何だったのか」などと言いたくもなるに違いない。

 ところが、ある人は人生の転機においても心が動じる色がない。かれは、感情が無いのではない。いかなる転機を迎えても、それらに動じない境涯に達しているのである。もちろん、かれは転機に臨んでも自分自身納得の行く形でしっかりと対応できるであろう。そして、まるでそのことを知っているかのように、そのような人の前にこそ覚りの機縁は生じるのである。

 ここで、覚りの機縁を人生の転機であると捉える人とそうでない人とに分かれる。前者を、仏教徒と呼ぶ。そして、仏教徒だけが因縁を生じてしあわせの境地たるニルヴァーナに達し得ることになる。後者は、覚りの機縁そのものを認知することさえないかも知れない。ところで、

 「覚り(=解脱)は、人生の転機であるか?」

 これは、微妙な問いである。覚った人は、すでに人としては数えられない存在となっている。このため、その後の人生は世間の普通の人生とは違うものとなるからである。

 ただし、言えることがある。

 「覚った人が歩む人生は、この世の最高のものである」

ということである。そして、その転機(機縁)となった瞬間のことを生涯忘れることはないだろう。かれにとっては、その瞬間に自分の人生のすべてが集約されているからである。かれにとって、その瞬間を境に世界は決定的な変容を遂げたことになるのである。ここに、かの仏の仏国土が建国されたからである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

人生の転機とは、生きて来た人生を振り返って、あの時から人生が変わったと言える時です。

そうすると、解脱した人間とそうではない人間とは、明らかに異なるのです。

解脱した人間のすべては、人生の転機は解脱した時だと明言します。

そうでのはない人間の人生の転機はいろいろあるでしょう。

しかし、それらはすべて同じ世界のはなしなのです。

解脱以後は、異なる世界になりますから、それはもう人生とは言えないかもしれません。




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