SRKWブッダ著「仏道の真実++」【女性の修行(その2)】(9)

(以下引用)

【女性の修行(その2)】(9)

 ◇ 善知識は女性の方が多いかも知れない

 「しあわせの境地を目指して歩みを進め、すでに発心している修行者が、世に希有なる法の句を聞き及び、その出現の真実を理解したならば覚りを生じる。」

 これが仏道の真理である。

 ところで、意外に感じる人もいると思うが、この法の句を発する善知識の男女比は女性の方が高いかも知れない。もしそうであるならば、——仮に拮抗しているとしても——これは女性が男性と変わりなく根本的にはやさしい存在であることを示唆しているものである。

 事実、私(=SRKWブッダ)の発心に関わる最初の善知識は女性であったし、釈尊の作仏(=成道)に関わった善知識も女性であったと推定されるからである。さらには、私(=SRKWブッダ)の弟子達の作仏においても、女性の善知識が少なからず関係している模様である。

 さて、釈尊は善知識と出会ったのち最後の瞑想に入り、成道に先立って三人の悪魔の娘の誘惑を受けこれを退けたと仏典に記されている。これは、女性の善知識の存在を目の当たりに見た釈尊がその事実を最初は疑い、自分の中の疑念——悪魔の娘たちがそれを象徴——と闘った末に、最終的にはその疑念を払拭してその事実を受け入れたという出来事を示しているのだと考えられよう。そして、その結果、釈尊は明けの明星を見てついに作仏しブッダとなったわけである。

 このように、人は男女の違いに関係なく根本においてはやさしい存在である。ところが、一般に女性は自分自身の根底のやさしさを信じることが難しいようである。多くの女性は、自分がどこか劣った存在だと思い込んでいる節さえある。このため、自分がブッダになれるという真理をにわかには信じることができずにいるのであろう。

 しかしながら、善知識の比率は女性の方が多いかも知れないということは、女性の作仏について特別な障害など何もないことを強く示唆するものである。何となれば、善知識(=化身)になれる存在がブッダになれない筈はないからである。

 なお、釈尊も女性が覚りの機縁としてしばしば重要な役割を果たすことを理解していたようである。その証拠に、釈尊は修行者は午前中に在家の村を托鉢して歩くべきことを説き、戒律として取り決めている。これは、女性の善知識の存在を認めてのことだったであろうと推察される。何となれば、そのような時間帯に托鉢に応じてくれるのは多くの場合、一般家庭の奥様方であろうことは容易に想像できることだからである。おそらく当時、実際にも、女性の善知識を縁として覚った修行者も少なからずあったに違いない。

 また、釈尊が不邪淫戒を設けたこともこのことを裏付けていると考えられる。何となれば、女性が発した法の句を男性修行者が耳にしたとき、彼が邪な思いを抱いていてはそのことが正しく認知できない恐れがあるからである。男性の修行者は、女性を覚りに関しては対等なものとして見ていなければならない。そうでなければ、善知識をみすみす見過ごしてしまう恐れがあるからである。要するに、女性がしばしば善知識になることがあるということを修行者はしっかりと理解しているべきであるということである。

 さらには、釈尊が女性の出家者が保つべき戒律を男性のそれよりも遙かに多く制定したことも同じ目的であったと考えられる。すなわち、女性が法の句を発したとき、それが女性特有のやさしさによるものではなく仏智の出現であることを際立たせる目的があったと推定されるということである。

 いずれにせよ、女性は仏道を歩むことについて蚊帳の外にあるわけではないということである。本当のしあわせを求める女性が仏道を歩むならば、ついにはブッダとしてその最高の目的を果たす可能性が決して低くはないということである。

(以上引用)


*法津如来のコメント

この引用文で重要なポイントは、はじめの2行です。

この解説の前に、「善知識」とは、「世に希有なる法の句」を発する人です。

「善知識は女性の方が多いかも知れない」・・・仏道に関する事柄では、男女の違いはないということです。

さて、この仏道の真理について、明確に述べられたことは過去にはありません。SRKWブッダが初めてです。

たしかに、法華経の方便品において、「諸仏世尊はただ一大事因縁によってのみ世に出現したまう」とは、書かれていますが、この内容がこの2行であるとはなかなか読み取れません。

また、これ以前には、ゴータマ・ブッダは、「そなたらは、すべて、順次みごとに詩をとなえた。しかし、わたしの詩にも耳を傾けよ。ただ、善き人々と共に居れ。 善き人々とだけ交われ。 善き人々の正しい理法を知ったならば、すべての苦しみから脱れる と。」と述べておられます。これは、数日前のブログ記事でも引用しましたが、(https://76263383.at.webry.info/202101/article_27.html
はじめの2行を意味しています。しかし、これほど明確ではありません。

多くの修行者は、このことを知らず、知っても信じることができないために、これも先日、「石法如来の特別寄稿 「『修業法』というこだわり。」(https://76263383.at.webry.info/202101/article_31.html
にありましたように、仏道を正しく歩めず、覚ることができないのです。



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