「あの素晴らしい愛をもう一度」

一昨日、「日本語が世界を平和にするこれだけの理由」(金谷武洋著 2014年発行)を再読しました。石法如来の特別寄稿「平和な世界と仏教」を読んだことが縁になったのです。

その中に、北山修作詞「あの素晴らし愛をもう一度」について書いてありました。それだけならば特に取り上げることもなかったのですが、昨日の東京新聞の朝刊に「あの素晴らし愛をもう一度」誕生50年 作詞・きたやまおさむさんと考える愛」という特集が掲載されていました。これは何かの縁だなと考えました。

あのとき 同じ花を見て 美しいといった
ふたりの 心と心が 今はもう 通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度

きたやまさんが歌に込めた思いが新聞に記されていました。「この国の人たちは、同じものを肩を並べて一緒に眺める横の愛を好みます。お花見や紅葉狩り、花火もそう。同じ景色を見て、みんなで『きれいだね』って確かめるのが好きなんですね」

同じものを見て、「共感」することをこの歌では愛と言っているのです。

「共感」と言えば、SRKWブッダは、「仏道の真実++」の【女性の修行(その2)】で次のように述べています。https://76263383.at.webry.info/202101/article_26.html

(以下引用)
「さて、問題は、共感が仏道とどのように関わっているかということであろう。これについて述べたい。

 共感は、基本的に相手の表面に出ている表情や相を見て行われるものである。このため、相手のすべての状況を把握するにはそもそも限界がある。また、共感することによって相手の気持ちに変化を生じ、そのために相手の状況がさらに掴みにくくなるという難点を伴う。

 このようなことから、共感を基にして相手に応じようとしてもすれ違ったりすることがままあるであろう。つまり、相手にやさしくしようと思ってもそれが見当違いのものになってしまう恐れがつきまとうわけである。

 そこで、仏道では相手に共感するのではなく、相手のことを静かに観じるというやり方が採られる。このとき、自分自身は無相——いわゆる黒い鏡(=光輝の無い鏡)に徹するということであり無表情という意味ではない——となる。そうであってこそ、相手の状況を正しく知ることができるからである。その上で、必要があれば行動を起こして対応することになる。」
(以上引用)

共感も素晴らしいが、さらにもう一歩進んでほしいものです。


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