「なぜ法津如来と名乗るのか?」

このブログのトップページに「2019年1月15日、解脱知見を得たことにより、1月17日から、法津(のりつ)如来と名乗ることにしました。」と書いてあります。

それが理由ですが、もう少し詳しく説明するために、法津如来を法津と如来と分けます。

法津については、私の師であるSRKWブッダより、私が覚ったら法津如来と名乗ったらどうかと提案されていました。私の本名は西津紘一です。西津が俗名ですので、西を法に変えて法名にした訳です。これはあまり問題はありません。

一番問題なのは如来です。如来とはブッダということであり、覚った者という意味です。それを私が名乗れるのか?ということです。

覚ったんだから、名乗って当然ということもありますが、実際に私が「法の句」を聞いたときは、「これは本当か。これは大変なことだぞ。宇宙の一大事だ。」と思ったのです。

少し冷静になって考えると、SRKWブッダがブッダを名乗っていたことをはじめは眉唾ものだと疑いを持っていました。また、本当に覚った人は自分をブッダなどと言わないものだと思っていました。

また、実際に自分をブッダと名乗る人々は怪しい人が多いのです。自分がその仲間になるのは考えものです。

しかし、仏教の修行者は多いのですが、本当に自分が覚ることができる、そしてブッダ(如来)になることができると信じて修行している方は少ないようです。多くの修行者はブッダは遠い存在のように感じていて、自分がブッダになるとは思っていないようです。そう思っているのならば、おそらく覚ることはできないでしょう。

もし、修行者がブッダ(如来)を身近に感じられて、自分も覚ることができると思えるならば、それが覚るための一番の近道です。

それならば、私は覚ったのだから、如来(ブッダ)と名乗ることことで、明確に如来と名乗る者の存在を知ることができます。

あとは、その者が本物かどうか確かめればよいのです。

ただ、どのように確かめるかが難しい、如来(ブッダ)に関する先入観、固定観念があれば、見分けることができません。素直な心が必要です。

また、それを確かめるために、如来(ブッダ)にいろいろ質問することはよい方法です。



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