SRKWブッダ著「仏道の真実++」【女性の修行(その2)】(10)

(以下引用)

【女性の修行(その2)】(10)

 ◇ 覚りの道は習えない

 仏道修行は、習い事のようにはいかない。その理由は、仏道が基本的に漸悟ではなく頓悟によってまるでいきなり完成する道だからである。

 要するに、仏教の覚りは、少しずつ段階的に進むものではなく水面下に進むものであり、機縁を得て一挙に完成することになるものだからである。そこで、仏道の歩みは智慧の輪を解くようなことに似ていると説明するわけである。

 習い事ならば、お手本がある。あるいは、師匠が悪いところを適時に指摘してくれるだろう。それらによって、生徒は自分の所作を望ましい形に修正できることになる。その一方で、仏道修行においては教義(ドグマ)は無く、修行者を師が教導してくれるわけでもない。修行にまつわることがらは、すべて自分自身で見出して進まなければならない。

 なお、修行の先輩はいるが、彼らもまた未だ覚っていない一修行者に過ぎない。したがって、彼らに仏教の根本のことについて問うても要領を得ないのは当然である。その一方で、すでに修行を完成した先達は、敢えて修行については語ってはくれない。先達は、人は誰もが覚り得ると説くだけである。要するに、修行者にとって、仏道を歩めばニルヴァーナに至るということだけが分かっていることのすべてである。そして、それだけ知っていれば修行は自力で進めることができると説かれていることになる。

 ところで、智慧の輪も、それが解ける(ピースが分離する)ということだけが予め分かっていることのすべてである。ヒントは何一つ与えられない。このため、これを解く過程において、必要なことはすべて自分自身で見つけなければならない。この意味において、仏道と智慧の輪を解くことは似ているというのである。

 「でも本当のところどうすればいいの?」

 多くの人々は、このように聞きたいであろう。しかしながら、その問い自体がナンセンスである。そして、この点が、仏道の本質的に分かり難いところかも知れない。

 智慧の輪であれば、ともかく手でいろいろと操作して試してみることができよう。それだけで智慧の輪に取り組んでいるのだという実感を得ることもできるというものである。ところが、仏道修行に勤しむことにおいては、これが私の修行であるなどと実感できるようなことがらが希薄である。

 もちろん、経典を読誦したり、写経したりすることは一つの修行となり得るものである。それで修行している実感が伴うならば、それはそれで恵まれたことである。しかしながら、闇雲にそれらを行っても単なる時間つぶしに過ぎず、修行とはならない。かと言って、経典を深く理解することなど衆生にはできはしない。そもそも、これが何の役に立つのだろう。そう思う人もあるだろう。

 ところが、そのまるで時間の無駄のようなことがらが仏道修行の重要な本体なのである。本人が気づかないだけであって、その何の役に立つのか分からないようなことがらが、後になって大きな働きを為すことになるからである。仏教では、

 「無心で修行せよ」

と説かれる。これは、仏教は修行者の現時点での願いを叶える教えではないという意味である。何となれば、仏教は修行者の願いを超えた願いを叶える素晴らしいものだからである。実際に覚ったとき、修行者はその本当のことを知って驚くことになるであろう。

 仏道修行は、習い事のようには行かないものである。このことは、逆に見れば、修行は自由に行って良いということでもある。基本的な戒律に背くことさえなければ、どのように修行を進めても良いのである。それが理法に適ったものであれば、必ずや目的を達することができるであろう。要するに、自分の人生は自分自身で切り開くべきことであるということでもある。

(以上引用)


*法津如来のコメント

ここに書かれていることは本当のことです。

「でも本当のところどうすればいいの?」ということになりますから、私も考えてはいるのですが、この引用文の結論の次の文章になります。

「仏道修行は、習い事のようには行かないものである。このことは、逆に見れば、修行は自由に行って良いということでもある。基本的な戒律に背くことさえなければ、どのように修行を進めても良いのである。それが理法に適ったものであれば、必ずや目的を達することができるであろう。要するに、自分の人生は自分自身で切り開くべきことであるということでもある。」

さて、この「仏道の真実++」の引用は、この2月5日に終わる予定ですので、どうするか考えています。
何かご意見がありましたら、コメントやメール等でお知らせください。



この記事へのコメント