石法如来の特別寄稿 「私の大団円(だいだんえん)」

私は、大団円という言葉をSRKWブッダに出合って初めて知りました。因みに大団円とは、「ものごとの結末が円満におさまること」(「ビジネスワード」から引用)を意味する言葉です。・・・そこで、自分自身の人生を振り返り(覚り以前)実際に経験した大団円を書いてみたいと存じます。
 
それは、私が23歳(昭和49年・1974年)から始めたライフル銃の射撃競技に関する話です。・・・私は、22歳で陸上自衛隊の3等陸曹という階級に昇任し、自衛官として本採用され職業軍人の道を歩むこととなったのですが、その頃流行を始めた空気銃(エアライフル)の射撃が好きになり練習に精を出すようになります。
 
その数年前に、モデルガンなどを販売している洋品雑貨を営む店主と知り合いになります。店主(Yさん)は、もともと明治大学の射撃部出身でモスクワの世界選手権に出場経験を持つ人物でした。
当時はモデルガンで遊んでいたのですが、Yさんは「どうせやるなら本物(ライフル銃)で上手になったらどうですか?」とアドバイスしてくれたのです。
 
たしかに考えてみれば、モデルガンは何処まで行っても玩具ですが本物のライフル銃となれば話は全く違います。私は、Yさんのアドバイスと当時流行っていたエアライフルの射撃を実際に体験して、本物を使って射撃競技を行うことを決心しその道に入ります。
 
この記事は、射撃競技を述べるものではありませんので細部は割愛しますが、大団円の一方はライフル射撃を本格的に始める丁度4年前の昭和45年(1970年)に、釧路ライフル射撃協会の有志の方が出費して射撃場を新設してくれたということです。
その射撃場には屋根のついた射座(射撃する場所)があり、当時北海道で一番設備が整った射撃場でした。まさに、射撃を始めるにはグッドタイミングと呼べる因縁だったのです。
 
射撃技術に関して申しますと、身近にYさんという国際大会を経験した射手がおりましたからアドバイスを受けたり技術を盗んだり出来る訳です。
振り返ってみれば、とても恵まれた競技環境の中で育ち、お陰様で全日本選手権や海外の大会にも出場することなどが出来ました。競技生活は、最高の練習環境の上に形成されたのです。
 
大団円の核心場面は、いよいよ射撃場を閉鎖する段になってからの話です。・・・時は平成に入り、年数が重なるほどに景気も悪くなり、ライフル射撃を楽しもうとする人間も段々減少していきます。衰退の理由として、会員の高齢化・転勤者による会員の減少などが上げられます。
 
射撃場の立地場所は、釧路ライフル射撃協会の所有地では無く借地でした。1年間に10万円の借地料を支払い借りていたのですが、会員の減少と共に借地料の支払いも難しくなって来ます。因みに私は、平成4年(1992年)から協会の事務局長を行っており経理担当を兼ねておりました。
 
建設当時の契約書を見ると、「協会が解散する際は、土地を更地にして返還する。」と書いています。そうなると、簡単に協会の解散は出来ませんし、かといって土地を借りている限り借地料の支払いもしなければいけません。
最悪の場合、土地の更地問題は最後まで残った会員が「工事費用を分担する」と腹をくくっていたのですが、何とそこに助け船が現れたのです。
 
それは、東京にある太陽光発電の会社で、広大な発電所適地を道東地方に求め探していたようです。・・・土地の持ち主も売りたい気持ちがあり話はとんとん拍子に進みます。
ただ発電所適地に、危険なライフル射撃場があると判明し、「何とか撤退して欲しい」と関係者を通じて私の所に打診がありました。
 
こちらにすれば、風前の灯状態の弱小団体であり渡りに船の話で、借地に建てた施設・建築物一切は太陽光発電の会社で取り壊し更地にしてくれるなら、当協会は一切不服を申し立てず射撃場の看板を下ろします・・・と言うことで、双方の話は順調・円満に決着することになりました。
こちらにしたら、土地を更地にする資金が一切かからず、相手方に全てをお願いできるのですから願ったり叶ったりです。
 
私にすれば、射撃競技を始めるときも善き因縁に恵まれ、終わりの時も同様に難なく建物を処理でき円満に幕を下ろすことが出来ました・・・振り返れば、私(自分)のために「その射撃場」が作られ、そして壊され(無くなる)たのだという思いを強く持ちます。
 
射撃場は、危険とされる銃器を用いて実弾を発射する場所であり、延べ数万人の利用者があったにも関わらず、一件の事故も無く閉鎖出来たということも何よりの大団円でした。

*法津如来のコメント

本日2回目のブログ更新です。

また、石法如来が寄稿をしてくれました。ありがとうございます。



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