「無分別智(その2)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その2。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[分別から出てくることはない]

ここで、分別とは、人が生まれてこの方得たあらゆる経験要素や、人類がその長い歴史において集積したあらゆる集合的要素によって導出される人為的な思惟弁別作用のことを指しています。 

分別としての思惟弁別作用には、論理的(分析的)に得られるものもあり、直感的(弁証法的)に得られるものもあり、規範として(経験的)得られるものもあり、挑戦的(実践的)に得られるものもあり、綜合的(科学的、哲学的、法学的、神学的)に得られるものもあります。 

そして、無分別とはそうでないもの、すなわち、あらゆる経験要素とあらゆる集合的要素とを排して得られるそれであるということです。 

それは、将棋や碁における最高の手筋が、定石を超越したところから出てくることに似ています。 

つまり、定石そのままでは、相手にお見通しになってしまいます。 しかし、だからといって定石を離れてしまっては勝ちはありません。 
定石は、そのまま従うものでもなく、それを無視するものでもなく、超越すべきものであるからです。 

このようにして、時として顕れる素晴らしい手筋がいわゆる新譜です。 

ところで、この新譜は、いかなる研究の結果としても得られるものでは無いという点が重要なことです。 

無分別ということは、それに似ています。 

すなわち、無分別智は、いかなる研究やいかなる努力の結果としても出てくるものでは無いのです。 

それどころか、無分別ということは人々(衆生)が正常な頭で、あるいは散乱した頭で思考・思惟・分別・推量・類推・考察・省察・経験・反省・後悔・想像・創造・考案・発案・発明・予想・予見・予知・予感する限りのありとあらゆるものに依存せず、複数の人々の間で行われる相談・討論・合議・合意・啓蒙・啓示・啓発などのありとあらゆるものに依存せず、すなわち人々(衆生)が思いつく限りのありとあらゆるものに依存することなく生じるということなのです。 

分別には、どこかに「うまくやってやろう」とする気持ちが見え隠れしています。 

それが無くなったところに、無分別智はあると知らなければなりません。



*法津如来のコメント

無分別智でやろうとして、そのようにできるものではないということです。

あえていえば、それは因縁によって現れるというものです。

この記事へのコメント

慈栄
2021年03月13日 11:10
察しの良い人は、この話で気がついたかもしれません。

分別智の占める範疇よりも、無分別智の及ぶ範疇の方が、ずっと、遥かに、遠く、広く、はかり知れないのだと。