石法如来の特別寄稿「富永仲基(とみながなかもと)について。(その1)」

私が、富永仲基(とみながなかもと)の存在を知ったのは今から40年ほど前、阿含宗に所属していた時代です。管長の桐山靖雄(きりやませいゆう)が、自宗の依拠している経典である『阿含経』の正当性を法話や著書で宣伝する際、彼の説を利用していたからです。

おそらく、現代日本において富永仲基の名前は全く無名に近く、知る人などほとんど居ないことでしょう。この名前を聞いても、「誰それ?」という方が大半でしょうが、評価する人は「知られざる天才」と言います。仏教思想の勉強になりますので、そんな彼を追ってみたいと存じます。

最初に、私は富永仲基の研究者ではありません。今回記事を書くに当たり、『天才 富永仲基』(独創の町人学者)著者:釈 徹宗(しゃくてっしゅう)・新潮新書)を参考にしました。

富永仲基(以下、「仲基」と標記)は、今から約300年ほど前の江戸時代、正徳五年(1715年)大阪尼ヶ崎町において、代々醤油醸造を生業としている家に生まれました。
ちなみに仲基は、病弱?であったのかわずか三十一歳(数え年で三十二歳)で早逝(そうせい)しております。

仲基は、十歳くらいから父親の隠宅(いんたく・隠居してからの住居)内に建てられた懐徳堂(かいとくどう・江戸時代中期に大坂の商人たちが設立した学問所)において学んだようです。懐徳堂は、享保九年(1724年)大阪で創設された自治組織的学校です。
それは、官学の「学問所」や各地にある藩校とは異なる私塾であり、好学の徒が集う町人が主体となり設立・運営されていたようです。

仲基の思想などを知る上で重要なので、学んだ懐徳堂の学問の特色を上げますと、朱子学(南宋の朱熹(しゅき)によって再構築された儒教の新しい学問体系)を基本としながらも諸学を取り入れる柔軟な態度があり、初代学主であった三宅石庵は「鵺(ぬえ)学問」と批判されるほど雑学的傾向を持つ人物であり、そのため初期の懐徳堂は諸学の折衷傾向が強かったと言われています。

最初に、私がなぜ仲基の名前を覚えていたかと申しますと、仏教徒なら誰もが知る「教相判釈」(きょうそうはんじゃく)が関係しています。
ちなみに「教相判釈」(きょうそうはんじゃく)とは、「中国をはじめとする漢訳仏典圏において、仏教の経典を、その相(内容)によって、高低、浅深を判定し、解釈したもの。略して教判ともいう。」(以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)とあります。

簡単に説明すると、仏教の長い歴史の中でインドから中国に膨大な仏教経典が流入します。仏教に、「八万四千の法門あり」と言われるくらい大量に入った経典に、中国人の僧侶は頭を悩まします。
経典には、「如是我聞」(この様に私は聞いた)と書いてありますから、全て釈尊(ゴータマ・ブッダ)がお説きになったものであると認識するのですが、その内容の多様さと量に困惑するのです。

果たして、「どれが真実の釈尊の教えなのか?」という疑問と、経典の内容が種々異なるのは「釈尊が教えを説いた時期や場所・内容が異なるため」と考え、教えを説いた時期を分類しその中でどれが最高の教えであるかという、ひとつの判定方法として各宗派によりさまざまな教相判釈が行われたという経緯があります。

桐山靖雄が、特に強調して述べていたのは天台大師智顗(ちぎ・中国の南北朝時代から隋にかけての僧侶)が天台宗の教学で立てた五時八教(ごじはっきょう)の教判で、彼(桐山)は「五時教判」(ごじきょうはん)と改称し自説に取り込みました。

ちなみに五時八教とは、「天台宗においては,釈尊一代の説法の次第を五時をもって定め,その説法の深浅 (化儀〈けぎ〉の四教) と教法の深浅 (化法の四教) の八教をもって分別した。「五時」とは,華厳(けごん)時─『華厳経』を説いた時期,鹿苑(ろくおん)時─『阿含経典』を説いた時期,方等 (ほうどう) 時─『維摩経』『勝鬘経』などを説いた時期,般若(はんにゃ)時─『般若経典』を説いた時期,法華・涅槃(ほっけねはん)時─『法華経』『涅槃経』を説いた時期である。

「化儀の四教」とは,頓教,漸教,秘密教,不定 (ふじょう) 教である。「化法の四教」とは,三蔵教,通教,別教,円教である。円教においては,あらゆるものが互いにとけあって完全に具足していると説かれ,『法華経』の円教が最もすぐれているとする。」(以上、「ブリタニカ国際大百科事典小項目事典の解説」から引用)とあり、後の参考になりますので記しておきます。


*法津如来のコメント

本日2回目の更新です。昨日、石法如来から新しい寄稿を頂きました。全8回のシリーズになるそうです。楽しみにして下さい。



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