石法如来の特別寄稿「富永仲基について。(その4)」

ここから、仲基の代表作である『出定後後』を見て参ります。
『出定語後』の第一章では、釈尊入滅後の三蔵(経蔵・葎蔵・論蔵)の編纂や、根本分裂(上座部や大衆部の二大分裂)や枝末分裂(約十八~二十の部派に分裂)について述べています。
また「有(う・存在)を前提とする立場は小乗とされた」ことに言及し、これに対して「空」という思想を加上したのが『般若経』を制作したグループであったと述べています。
 
仏教史を振り返りますと、原始仏教経典と言われる『阿含経典』の古層部分でも、釈尊滅後200~300年を経て現在の形に整えられたものであり、大乗経典は仏滅後500年も経過してから現れてきたことが分かっています。
 
インドで、広範囲に仏教が展開した結果、様々な部派・系統がそれぞれに経典を継承してきたので、それらを全て釈尊へと収斂することには無理があります。
 
江戸期の日本には、全て漢訳経典で七千巻を超える膨大な数が中国・朝鮮経由で入ってきておりました。当時の人々は、前提として「全ては釈尊の教え」でありそれに基づいて論じられているものばかりであると考えていたのです。当然そうなると、色々な齟齬(そご)が生じて来ます。古来から、その齟齬を解決するため様々な説(「教相判釈」)が出現したのです。
 
そこで、現代の仏教学研究により明らかになっている経典編纂の経緯について述べてみますと、釈尊入滅後主な弟子が集まり第一回の結集(けつじゅう)が行われました。目的は、釈尊の教えを確認し合うためであり、リーダー役をつとめたのは摩訶迦葉(まかかしょう)であったと言われています。当時経典として文字化されることは無く、すべて誦出(じゅしゅつ・声に出して唱えること)され記憶により伝えられました。
 
第二回の結集は、仏滅後百年ほど経過したのち開かれたと言われます。その後、計三~四回の結集が行われたようですが部派により伝承は異なります。
やがて仏教教団は、立場や学説によりおおよそ十八~二十派へと分裂を続けますが、これを部派仏教と呼びます。
 
諸派の中でも、「上座部系」の上座部・説一切有部(せついっさいうぶ)・正量部(しょうりょうぶ)・経量部(きょうりょうぶ)、「大衆部系」の大衆部(たいしゅうぶ)などが優勢であったようです。そのような経緯の中、経蔵・律蔵・論蔵のいわゆる三蔵(さんぞう)が確立していきます。
 
三蔵は、釈尊滅後すぐ出来た訳ではなく、かなり長い時間かけて成立したものですが、仲基の時代にはこのような仏典成立の研究自体がなく、全くの手探り状態だったようです。
 
当時仲基は、「文殊(もんじゅ)菩薩を信仰していたグループが『般若経』を作った」と考えていたようです。これは、一つの見解です。また、『法華経』の編纂も大乗の中の一(いち)グループが行ったものであり、釈尊の直説ではなく後世に制作されたものであると述べた上で、『法華経』こそ最も優れた経典であるなどと独善的主張をすることの誤りを指摘しています。
 
興味深いのは、『出定語後』の中で、「さまざまな方法を尽くした巧みなてだての力が古今の人士をまどわすことは、これに限らないが、たれかこの誤りを塞ぐものであろうか、筆者(出定如来)でなければ不可能である。」と書いている箇所です。
 
ここで仲基は、自らを「出定如来」(しゅつじょうにょらい)と称して、「この誤りを正す者は、私しかいない」と強烈な自負心を吐露していることが分かります。
出定とは「禅定から出る」ことを意味しますが、仲基の著書『出定語後』とは「釈尊が禅定により覚りを開いた後に語った教え」という意味であると理解出来ます。
 
仲基自身は、「自分は、釈尊が出定後に説いた教えとは何であったかをきちんと見抜き、把握している」と考え、自らを「出定如来」を自称したのでしょう。彼が、実際に覚っていたかどうかは別にしても、ずば抜けた経典読解力と分析力を感じます。


*法津如来のコメント

本日2回目のブログ更新です。

石法如来の特別寄稿「富永仲基について」の4回目です。8回まで続くそうですから、まだまだ楽しめます。


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