慈栄のメール「むしろ人間になって」

余計な執著が滅び、人への不信が無くなり、他への慈があって、私はむしろ、人間になれたんじゃないかと思うことがあります。

仏やブッダ、如来と聞いて、ある人々は超越的な存在を思い浮かべて、それに執心する。
そのような人にとっては、仏教組織を離れ、自ら解脱したと称する人々が訝しく思われることもあると思う。

場合によっては、血の滲む努力によって種々の神通や法力、目に見えない力や超常的な智慧を備えて人々を救済するのが仏の類と思われるかもしれない。

しかしながら、人は一人ずつ解脱して、一人ずつ安らけく境地に至り住する。

超常的な事は何一つ無い。

ただ、解脱する前は、自らの本心を、自らに執心することで真っ直ぐに発露出来ないだけで。

人は、やさしく在れない自身を、責め立てたり、悪いのは自分と思いこんだり、逆にある程度自分本位なのは仕方ないと諦めたり、また憂悩して、本当の道に目覚めない。

私は仏(字義的にはその通りなのであろうけれど)になったと言うよりも、ただ、憂い無い人になったと言うだけです。

私は偉くなったわけではありませんし、自分ならざる何かになったわけでもありません。ただ、その時、執著の根が浮草のようになって流されて行った。そういう事なのです。

追って言っておくべきことは、かつては私も、深く病み、憂い、悩み、苦しんだ、一人の人間でありました。
その時私は、自身が癒えて治る事を願っていたし、そしてそれにも増して、自身よりも苦しむ人々の事を、思っていたのもまた事実です。

多く人は皆、病める菩薩であります。(稀に病んでいない菩薩も居るようですが、その話は今は置いておきます。)

(苦悩から)解脱していない理由はあっても、(苦悩から)解脱できない道理はありません。


どうぞ皆さま、肩の力を抜いて、今一度、自身の修めた道がなんであるのか、仏道とはなんであるのか、仏の教えとは何であるのか、そしてこれらはなんのためにあるのかについて、向き合ってみて下さい。

きっと、道が開ける事と思います。



*法津如来のコメント

昨日、慈栄如来より皆さまへの上記のメールを頂きました。


この記事へのコメント

hs
2021年03月08日 14:05
力強い言葉。

ブッダが量産されていく...

いい時代だ。

僕も続くぞ。

突き抜けろ。

大気圏。
あさみ
2021年03月09日 11:42
生存する如来の皆様のことばに触れることができる時代に生まれた幸せは計り知れません。
如来のことばには静けさと力とやさしさを感じることができます
こういうことなのだな、とわかります。
誠にありがたいことです。
私も続きたいものです。