石法如来の特別寄稿「富永仲基について。(その4)」

ここから、仲基の代表作である『出定後後』を見て参ります。
『出定語後』の第一章では、釈尊入滅後の三蔵(経蔵・葎蔵・論蔵)の編纂や、根本分裂(上座部や大衆部の二大分裂)や枝末分裂(約十八~二十の部派に分裂)について述べています。
また「有(う・存在)を前提とする立場は小乗とされた」ことに言及し、これに対して「空」という思想を加上したのが『般若経』を制作したグループであったと述べています。
 
仏教史を振り返りますと、原始仏教経典と言われる『阿含経典』の古層部分でも、釈尊滅後200~300年を経て現在の形に整えられたものであり、大乗経典は仏滅後500年も経過してから現れてきたことが分かっています。
 
インドで、広範囲に仏教が展開した結果、様々な部派・系統がそれぞれに経典を継承してきたので、それらを全て釈尊へと収斂することには無理があります。
 
江戸期の日本には、全て漢訳経典で七千巻を超える膨大な数が中国・朝鮮経由で入ってきておりました。当時の人々は、前提として「全ては釈尊の教え」でありそれに基づいて論じられているものばかりであると考えていたのです。当然そうなると、色々な齟齬(そご)が生じて来ます。古来から、その齟齬を解決するため様々な説(「教相判釈」)が出現したのです。
 
そこで、現代の仏教学研究により明らかになっている経典編纂の経緯について述べてみますと、釈尊入滅後主な弟子が集まり第一回の結集(けつじゅう)が行われました。目的は、釈尊の教えを確認し合うためであり、リーダー役をつとめたのは摩訶迦葉(まかかしょう)であったと言われています。当時経典として文字化されることは無く、すべて誦出(じゅしゅつ・声に出して唱えること)され記憶により伝えられました。
 
第二回の結集は、仏滅後百年ほど経過したのち開かれたと言われます。その後、計三~四回の結集が行われたようですが部派により伝承は異なります。
やがて仏教教団は、立場や学説によりおおよそ十八~二十派へと分裂を続けますが、これを部派仏教と呼びます。
 
諸派の中でも、「上座部系」の上座部・説一切有部(せついっさいうぶ)・正量部(しょうりょうぶ)・経量部(きょうりょうぶ)、「大衆部系」の大衆部(たいしゅうぶ)などが優勢であったようです。そのような経緯の中、経蔵・律蔵・論蔵のいわゆる三蔵(さんぞう)が確立していきます。
 
三蔵は、釈尊滅後すぐ出来た訳ではなく、かなり長い時間かけて成立したものですが、仲基の時代にはこのような仏典成立の研究自体がなく、全くの手探り状態だったようです。
 
当時仲基は、「文殊(もんじゅ)菩薩を信仰していたグループが『般若経』を作った」と考えていたようです。これは、一つの見解です。また、『法華経』の編纂も大乗の中の一(いち)グループが行ったものであり、釈尊の直説ではなく後世に制作されたものであると述べた上で、『法華経』こそ最も優れた経典であるなどと独善的主張をすることの誤りを指摘しています。
 
興味深いのは、『出定語後』の中で、「さまざまな方法を尽くした巧みなてだての力が古今の人士をまどわすことは、これに限らないが、たれかこの誤りを塞ぐものであろうか、筆者(出定如来)でなければ不可能である。」と書いている箇所です。
 
ここで仲基は、自らを「出定如来」(しゅつじょうにょらい)と称して、「この誤りを正す者は、私しかいない」と強烈な自負心を吐露していることが分かります。
出定とは「禅定から出る」ことを意味しますが、仲基の著書『出定語後』とは「釈尊が禅定により覚りを開いた後に語った教え」という意味であると理解出来ます。
 
仲基自身は、「自分は、釈尊が出定後に説いた教えとは何であったかをきちんと見抜き、把握している」と考え、自らを「出定如来」を自称したのでしょう。彼が、実際に覚っていたかどうかは別にしても、ずば抜けた経典読解力と分析力を感じます。


*法津如来のコメント

本日2回目のブログ更新です。

石法如来の特別寄稿「富永仲基について」の4回目です。8回まで続くそうですから、まだまだ楽しめます。


「無分別智(その20)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その20。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[こだわってはならない]

無分別智は、何かにこだわることによって得られるものではありません。 

無分別智は、何ものにもこだわらないところから出てくるものであるからです。 

しかしながら、意識的にこだわりを捨て去ることによって、そのことによって直接的に得られるものではありません。 

それは、まったくこだわりに他ならないからです。 

無分別智は、それにこだわりをもっていて、しかもそのこだわりを捨て去ったところに顕れ出るものであると(知る人は、それを目撃した人は)知るからです。


*法津如来のコメント

無分別智には興味のない方も、般若心経という名前を聞いたことがあり、般若とは何だろうと思った方はおられると思います。

般若とは無分別智の別名なのです。

さて、「こだわってはならない」も少しややこしいです。

まず、無分別智は、何かにこだわることによって得られるものではないのです。

それで、修行者はこだわりを捨てようとします。

しかし、こだわりを捨てることは難しいことです。

こだわりというのはその人の価値観と結びついているからです。

今までの自分の価値観を捨てることは難しいのです。

さらに、自覚しているこだわりもありますが、無自覚の自分のこだわりがあります。

無自覚の自分のこだわりに気づけなければ、そのこだわりを捨てることはできません。

無自覚の自分のこだわりに気づくのは難しいのです。

さらにまた、こだわりを捨てようとすることもこだわりだと述べられています。

最後に「無分別智は、それにこだわりをもっていて、しかもそのこだわりを捨て去ったところに顕れ出るものであると(知る人は、それを目撃した人は)知るからです。」と述べられています。

つまりそれは、「覚ろうと思っても悟れないが、覚ろうと思わなければ覚れない」ということです。


「無分別智(その19)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その19。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[努力の結果ではない]

無分別智は、世間的な努力やいわゆる修行・鍛錬の結果得られるものではありません。 

無分別智は、努力無しに生じたものであると(知る人は、それを目撃した人は)知るからです。


*法津如来のコメント

また、先日の知人から「(あなたのブログは)やっぱりさっぱりわからない。」と言われてしまいました。

彼は、私が何を書いているのか興味があるだけで、無分別智について特別興味があるわけではないからやむを得ないのでしょう。

このブログは「覚りの境地」を目指す方でないと、読んでもあまり意味がないのでしょう。

私は「覚りの境地」を目指す人を増やそうと意図しているわけでもありません。
ただ、「覚りの境地」を目指す人(修行者)が、誤解をしないでほしいと願っているのです。

さて、無分別智によって覚りの境地に至るのでの、修行者にとって無分別智は重要な課題なのです。

ですから、正しい修行者は努力して無分別智(法の句)を得ようとするはずです。

しかし、法の句を聞くことは、法の句を発する人と遭遇しなければできないことですから、
これは努力してできることではないのです。

そのような縁に回り会わなければできないのです。

そのような縁は功徳を積むこと以外にはできません。

それとともに、人と争わない、やさしい人間になる、心をしずめるなどが大切です。


「無分別智(その18)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その18。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[師は無用]

無分別智は、師(グルと呼ばれる存在を含めて)が近くにいるかどうか、

師と仰ぐ人がいるかどうか、

師と仰ぐ人の言葉を胸に秘めているかどうか、

あるいはまだ見ぬ師に憧れ尊敬する気持ちがあるかどうか、

師を探し求めているかどうか、

などとは無関係に顕れ出るものです。 

つまり、無分別智は、師と呼ばれるいかなる存在とも無関係に現出するものであると(知る人は)知るからです。 

要するに、師は無用です。 

本当に必要なのは、師では無くあなたにとっての善知識であるからです。



*法津如来のコメント

この引用文の無分別智は、解脱直前と解脱後の無分別智のうち、前者について述べています。

解脱後の無分別智の出現は、もちろん本人がすでに解脱者でありますから、師は無用なのです。

解脱直前の無分別智(善知識=法の句)の出現において、師が必要であるか、どうか?

それは、実例を知ればわかることです。

ゴータマ・ブッダにおいては、解脱前のブッダに乳粥を布施したスジャータの言葉であったと考えられます。

六祖慧能ブッダは、ある僧の誦える金剛般若経の一句であったのでありました。

また、SRKWブッダの場合では、ご子息の言葉でした。

私については、孫の言葉です。

これらは、師とは無関係に出現したものです。



「無分別智(その17)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その17。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[信仰ある人からも現出する]

キリスト教徒やイスラム教徒、その他のあらゆる一神教や多神教を信仰する人から無分別智が現出しないというのではありません。 

無分別智が現出するかどうかは、一大事の局面においてその人がそれらの信仰から離れているかどうかによって決まるからです。 

逆に言えば、無分別智は一大事の局面において人々が持つあらゆる信仰を離れさせ、本当の信を生じせしめるものであると(知る人は、目撃した人は)知るからです。 

そして、このようにして顕れ出た信と無分別智によって為される行為は、世間の人の目には単なる勇敢な行為や逆に馬鹿げた行為、みすぼらしい行為やこれ見よがしな行為にしか映らないかも知れませんが、それを知る人にはこの世で為される最も清らかで美しい行為の一つであると知られるのです。



*法津如来のコメント

世の中には奇跡と言われる現象が多数あります。

それらの現象はキリスト教徒やイスラム教徒、その他のあらゆる一神教や多神教を信仰する人の中でも現れます。

それらの現象のなかで、無分別智が現出して起きたものが有るはずです。

ただし、それたの現象に対する評価がそれぞれの宗教によって異なるのです。

ある宗教は、神によってもたらされたものだと言います。

しかし、真実を知る人は無分別智によってもたらされたものであると知るのです。



石法如来の特別寄稿「富永仲基について。(その3)」

仲基の方法論において、私自身経典を学んできて感じるのは「加上」(かじょう)ということです。私は、原始仏教経典の『阿含経』を専門に学んで参りましたが、とにかく量的に莫大です。同じような・似たような経典も多いし、繰り返しもとても多いです。繰り返しが多いのは、修行者が記憶しやすくするための手段として用いたと考えておりましたが細部は不明です。
 
釈尊滅後すぐに行われたという、第一結集(けつじゅう)で唱えられた経典の内容・量はそれ程多くはなかったと考えられますが、時間の経過とともに「新たな要素が付加される」(いわゆる加上が行われる)ことにより、莫大な経典量になったと言うのはある意味当然と言えます。
 
仏教は難しいと言われる原因として、経典量の莫大さと内容の多様性・すなわち経典により「言っていることがまるで違う」ということで混乱が起きる=理解が難しいと言うことになります。
私自身、頭が混乱するくらい種々大量の経典を学んだことはありませんが、当然インドから経典が大量に流入したとき当時の中国僧は混乱したはずで、そこで教相判釈なる解決策が出現した(出現せざるを得なかった)ということです。
       
そこで、三十一歳で早逝した仲基が、一体どこで莫大な経典を学んだか?という話になりますが、伝承によると仲基が田中桐江(たなか とうこう・江戸時代中期の儒学者・漢詩人)の住む池田(現在の大阪府池田市)に通っていた際、黄檗宗(おうばくしゅう・日本の三禅宗のうち、江戸時代に始まった一宗派)のお寺から大蔵経校合(たいぞうきょうこうごう)に雇われていたという説があるようです。
 
大蔵経とは、仏教経典を総称したもので一切経とも称します。日本では、『大正新脩大蔵経』(たいしょうしんしゅうだいぞうきょう)が有名で、全100巻から成り漢訳の仏典の最高峰と呼ばれています。(ちなみに、17字詰29行3段組、各巻平均1,0001ページになっている。)
私もかつて、経典研究のため「阿含部」の二巻を所有しておりました。開いたのは、大学の卒業論文作成時に参考文献として翻訳したときだけです。まず、漢文の勉強を始め次に辞書(佛教語大辞典)を使い一文字ずつ翻訳していくのですが、時間がかかり根気の要る作業です。
 
『大正新脩大蔵経』を例にとっても、1,000頁×100巻=10万頁あります。それを、ただ読むだけでも大変な労力を要するのに、更に内容を識別・分類・精査しなければいけません。
仲基は、黄檗宗の大蔵経校合として雇われていたという話をしましたが、校合とは、校正作業のことを指します。仲基は、この校正作業を通じて仏典を研究していたと推定されます。
 
当時日本に伝わっていた経典は、書写されていたもので誤写の他、誤字・脱字などがありますので、同じ経典の書写本を複数照合して確認・修正作業を行なわなければいけなかったのです。
 
仲基の代表作である『出定後語』の序には、「この説をもって十年ばかりになる」と記されており、そう考えると二十歳そこそこで仏典の読破が終わっていたという計算になります。
その一点だけ考えてみても、仲基の非凡な才能と人並み外れた努力家であったことが想像出来ます。更には、他の追随を許さない卓越した発想・論点に基づく書籍を世に送り出したという事実だけ考えても、「知られざる天才」という呼び名は決して誇張されたものではないことが理解出来ます。
 
ここで、少し江戸時代の文化というものに思いを馳せてみますと、現代日本に生きる私達より遙かに豊かな文化環境があったようにも見えます。
経済的には、決して豊かでなくても学ぼうとする意欲があれば学べる環境もあり、仏教で言えば文献もそれなりに揃っていた。ただ個人的には、「豊富に紙はあったのか?」という疑問があります。
 
当時「紙」は貴重品であり豊富には存在しなかったのでは?という疑問です。普通に考えると、研究のためには沢山の紙を用いて資料を作り、思索を積み重ね記録・保管します。・・・もしかしたら、仲基はそのような手順を極力省略し、全て記憶に頼って行っていたのかも知れません。
 
いちいち、記録用紙を取り出し文書を書くより(頭に)記憶して作業する方が早くて正確だったのではないでしょうか。私はかつて、インドのバラモン僧が経典を暗誦(あんしょう・あんじゅ)している姿をテレビで見たことがあります。何万巻もの経典を、絶え間なく声に出して唱える姿を見て正直驚きました。
 
現代に生きる私達は、電子機器(パソコンなど)や紙(書籍など)に頼っているので、記憶力はその当時の人間に比べて遙かに劣っていると考えられますが、仲基は極めて優れた記憶力・文書の理解・分析判断能力を持っていたものと想像出来ます。


*法津如来のコメント

本日2回目のブログ更新です。

この文章の最後の部分「現代に生きる私達は、電子機器(パソコンなど)や紙(書籍など)に頼っているので、記憶力はその当時の人間に比べて遙かに劣っていると考えられます」は、その通りです。

以下少し余談を付け加えます。

文字のない民族の神話などは、皆口伝で伝えられてきましたので、すべて暗記していたのです。

原始仏教を伝えているパーリ経典はパーリ語は独自の文字がないために、すべて口伝で伝えられてきました。それはすべて暗記しているということです。

後にセイロン文字、ビルマ文字、タイ文字、ローマ字などで表記されるようになりました。

パーリ経典は、アーナンダ尊者がゴーマ・ブッダの説法を記憶していたものをまとめたものといわれています。

今でもミャンマーではパーリ経典をすべて暗記されている僧侶が数名おられ、特別な称号が与えられミャンマー国民に尊敬されているそうです。


「無分別智(その16)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その16。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[超越者の啓示ではない]

無分別智は、神の啓示として顕れ出るものではありません。 

もちろん、それに類似する他の表現である宇宙生命とか一大心霊とか超意識とか異次元世界の賢人とかからの啓示として顕れるものでもありません。 

無分別智を得るということについては、いかなる超越者も仮定する必要はありません。 

なぜならば、無分別智の何たるかを真実に知ったとき、覚りの境地に至ることについてはいかなる超越者も必要としないことを如実に知るからです。 

それどころか、もし超越者の存在を意識的にせよ、無意識的にせよ心にかかえていたとするならば、その人から無分別智が顕れ出ることは絶対にあり得ないのです。


*法津如来のコメント

神(超越者)からの啓示は、啓示であって認識ではありません。

無分別智は真理の認識です。例えば、巨大な迷路を鳥瞰したとき見えるものです。これは超越者に教えられたものではないのです。

無分別智は、名称(ナーマ)と形態(ルーパ)が消滅したとき顕れ出るのです。

超越者の存在を意識的にせよ、無意識的にせよ心にかかえていたとするならば、その人の心からは名称(ナーマ)と形態(ルーパ)が消滅していないのです。

そのために、無分別智は顕れ出ることはないのです。


「無分別智(その15)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その15。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[善・悪を超越している]

無分別智は、相手の悪意が本当は悪意ではないものであると
(意識することなく、しかも相手よりもそのことを遙かに深く)知って、

自らは善意を超えた善意(真如)を以て相手に応えようとするところから顕れ出るものです。 

なお、これを煩悩即菩提とも呼びならわします。


*法津如来のコメント

「(意識することなく、しかも相手よりもそのことを遙かに深く)知って、」とは、人間の真実を次のように知っているのです。

「たといある人がどんなに冷たく、意地悪に見えたとしても、かれは実はやさしいのだということを信じるべきであると真実を知る人は語るのです。

なんとなれば、人(=衆生)は誰しも、自分ならざるもの(名称と形態)に突き動かされている存在であり、本来の自分(本性)を出せないばかりか、善かれと思って愚かな選択をしてしまうのであるからです。

そして、誰であろうとも、同じ状況におかれたならば、かれと同じ行動を(善かれと思って)選択してしまうに違いないと言えるのです。 

したがって、ある人がどんなに冷たく、意地悪に見えたとしても、決してその人の本質がそのようであるのでは無く、もしその人の立場に立たされたならば、自分も(善かれと思って)その人と同じ行動を選択してしまうであろうということに思いを馳せなければならないのです。」(SRKWブッダの言葉)

このように知る者は、無分別智に基づく対応をし、それは善・悪の基準を超越しているのです。


「無分別智(その14)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その14。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[非合理・合理を超越している]

無分別智は、分別ではないところから生じるからといって非合理なものではありません。 

かといって、何らかの精神作用の手続きによって合理的に得られた結論でもないのです。 

無分別智は、非合理・合理を超越していると(知る人は)知るからです。 

それは、究極の合理(理法)であり、一切後悔することがないという事実によってそうだと知られるのです。


*法津如来のコメント

無分別智は、巨大な迷路を上から眺めるようなものです。

上から眺めること(鳥瞰)ができれば、迷路と言えども、通り抜け出ることができます。

鳥瞰した結論は、鳥瞰できない人から見れば非合理に見えても、合理的なのです。

というわけで、無分別智の結論は合理的です。

無分別智の結論が出る前は、無分別智は非合理・合理を超越していると言えるでしょう。

無分別智が現れる前は、試行錯誤が必要なのです。

ですから、修行者は気をつけて遍歴修行せよと言われるのです。


石法如来の特別寄稿「富永仲基について。(その2)」

仲基の著作は、十余編あると言われておりますが現在全文を読む事が出来るのは、『出定後語』、『翁の分』、『楽葎考』の三著作のみです。
その中で有名なのが、『出定後語』(しゅつじょうごご)と題された書物です。この著作は、仲基が逝去する約九ヶ月前に刊行されたようです。

仲基の著作の特色は、オリジナリティあふれる方法論や思想です。何より、独創性があると言うことですが、それは誰もがすぐ「そうだな」と理解出来るという訳ではありません。また、早熟という面があり多くの人なら、長年の研鑽・努力で到達する地点へ早い段階で飛躍するという、ある意味天才的才能をもつ人物でしたから、内容的には難解と言えます。

富永仲基の名を有名にしたのは、「大乗非仏説論」の先駆者として存在したことです。「大乗非仏説論」とは、大乗仏教の経典は釈尊(ゴータマ・ブッダ)の説かれた教えではないとする説です。
阿含宗の桐山靖雄は、原始仏典である阿含経を依経として一宗を立てたので、この「大乗非仏説論」は自分の教義にとって都合が良いので、法話や著書に利用したという訳です。

仲基は、江戸時代の半ばにおいて、仏教の思想体系を根本から揺さぶる論を、世界に先駆けて世に出した人物です。それを、独力で成し遂げたのですから多くの人が天才と評するのも無理はありません。

彼は、加上説に基づき経典の成立順序を推測したようです。
その順序は、①「阿含(あごん)」-②「般若(はんにゃ)」-③「法華(ほっけ)」-④「華厳(けごん)」-⑤「大集(だいじつ)・涅槃(ねはん)」-⑥「頓部楞伽(とんぶりょうが)」-⑦「秘密曼荼羅(ひみつまんだら)」といった仏教思想の展開(経典の成立順序)を推論しました。

簡単に説明すると、最初は釈尊の直説(直接聞いた教え・口伝(文字化されず))だったものが、色々加上や分派があって『阿含経』が成立。そこから空(くう)を主張する般若経典や・『法華経』・『華厳経』(今で言うところの初期大乗経典群)、そして『大集経』や『涅槃経』(中期大乗経典群)や『楞伽経』(禅宗を指します)、最終的に密教経典群(後期大乗経典群)が生まれたと考えたのですが、これは概ね現代の研究結果と符合しています。

仲基の、オリジナリティあふれる方法論や思想ですが、次の五つがポイントです。(以下、引用)
1、加上(かじょう)
思想や主張は、それに先行して成立していた思想や主張を足がかりにして、さらに先行思想を超克しようとする。その際には、新たな要素が付加される。それが仲基の加上説です。
つまり、そこにはなんらかの上書き・加工・改変・バージョンアップがなされているとするのです。

2、異部名字難必和会(いぶみょうじなんひつわかい)
同じ系統の思想や信仰であっても、学派が異なると用語の意味や使い方に相違が生じ、所説も変わる。そのつじつまを無理に合わせようとすると論理に歪みが生じる、とする立場です。

3、三物五類(さんぶつごるい) 
言語や思想の返還に関するいくつかの原則です。三物とは、①言に人あり、②言に世あり、③言に類ありの三つを指します。①は、学派によって相違するということ。②は、時代によって相違するということ。③は、言語の相違転用のパターンを五つに分類したもので、張(ちょう)・泛(はん)・礒(ぎ)・反(はん)・転(てん)を挙げています。これが「五類」です。

4、国有俗(こくゆうぞく)「国に俗あり」
思想や信仰には文化風土や国民性が背景にあることを指摘したものです。仲基は「くせ」とも表現しています。言葉には、三物五類の諸条件があって、思想や教えが別れる。
さらに、国ごとに民族・文化・風土の傾向があって、そのために説かれる思想・教えが異なっていく、ということです。

5、誠の道
どの文化圏や宗教においても共有されているもので、人がなすべき善を実践していく道を指します。「道の道」とも表現しており、「人が道として歩むべき真実の道」だと仲基は考えました。
(以上、『天才 富永仲基』11~13頁から引用)

文献研究において、納得出来る内容・態度ばかりの列挙ですが、18世紀の江戸時代にこの様に進んだ方法論を独自に構築した人物(仲基)が存在したことに驚いてしまいます。


*法津如来のコメント

本日2回目の更新です。

「富永仲基について。」、続きが楽しみですね。



「無分別智(その13)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その13。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[必然でなく、偶然でもない]

無分別智は、必然的に生じたものではありません。 

その一方で、無分別智は偶然に得られるものでも無いのです。 

無分別智は、因縁によって生じたものであると(知る人は)知るからです。



*法津如来のコメント

必然的とは、ある原因があってその結果があるということであります。

一方、偶然とは、何の因果関係もなく起こることであります。

無分別智は、特定できる原因があって現れるものではないので、必然的に生じたものではありません。

また無分別智は、多くの特定できない原因によって現るものであるので、偶然に得られるものではありません。

そのようなものは、因縁によって生じたものというのです。



「無分別智(その12)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その12。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm



[意識に拠らず、無意識にも拠らない]

無分別智は、意識に拠って生じるものではありません。 

その一方で、無分別智は無意識に拠って生じたものでも無いのです。 

無分別智は、意識乃至無意識のさらに奥にある何かに拠っていると(知る人は)知るからです。 

すなわち、無分別智(仏智)は、人類が作為した結果生じたものでは無いと(知る人は)知るからです。 

それ以外には、考えられないと(知る人は)知るからです。


*法津如来のコメント

人間の意識を自覚できる表層意識と自覚できない深層意識と分類することができます。

ここでいう意識乃至無意識は、表層意識と深層意識を意味しています。

「意識乃至無意識のさらに奥にある何か」とは、人間の意識ではないのです。

ですから、無分別智は、人間の智慧(人智)ではなく仏智というのです。

仏教以外の宗教では、それは神智というのかもしれません。


「無分別智(その11)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その11。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[外的要因では無く、内的要因でも無い]

無分別智は、外的要因によって生じたものではありません。 

その一方で、無分別智は内的要因によって生じたものでも無いのです。 

無分別智は、外的および内的なあらゆる感受を排したところから生じたものであると(知る人は)知るからです。


*法津如来のコメント

「無分別智は、外的要因によって生じたものではありません。」とは、無分別智は感覚に対する外的な刺激によって生じるものではないということです。

「無分別智は内的要因によって生じたものでも無いのです。」とは、無分別智は記憶や内的な刺激による反射によって生じるものではないということです。

では、どのようにして生じるのでしょうか?

それは、因縁によって生じるのです。

ですから、修行者は功徳を積むことが大切なのです。


石法如来の特別寄稿「富永仲基(とみながなかもと)について。(その1)」

私が、富永仲基(とみながなかもと)の存在を知ったのは今から40年ほど前、阿含宗に所属していた時代です。管長の桐山靖雄(きりやませいゆう)が、自宗の依拠している経典である『阿含経』の正当性を法話や著書で宣伝する際、彼の説を利用していたからです。

おそらく、現代日本において富永仲基の名前は全く無名に近く、知る人などほとんど居ないことでしょう。この名前を聞いても、「誰それ?」という方が大半でしょうが、評価する人は「知られざる天才」と言います。仏教思想の勉強になりますので、そんな彼を追ってみたいと存じます。

最初に、私は富永仲基の研究者ではありません。今回記事を書くに当たり、『天才 富永仲基』(独創の町人学者)著者:釈 徹宗(しゃくてっしゅう)・新潮新書)を参考にしました。

富永仲基(以下、「仲基」と標記)は、今から約300年ほど前の江戸時代、正徳五年(1715年)大阪尼ヶ崎町において、代々醤油醸造を生業としている家に生まれました。
ちなみに仲基は、病弱?であったのかわずか三十一歳(数え年で三十二歳)で早逝(そうせい)しております。

仲基は、十歳くらいから父親の隠宅(いんたく・隠居してからの住居)内に建てられた懐徳堂(かいとくどう・江戸時代中期に大坂の商人たちが設立した学問所)において学んだようです。懐徳堂は、享保九年(1724年)大阪で創設された自治組織的学校です。
それは、官学の「学問所」や各地にある藩校とは異なる私塾であり、好学の徒が集う町人が主体となり設立・運営されていたようです。

仲基の思想などを知る上で重要なので、学んだ懐徳堂の学問の特色を上げますと、朱子学(南宋の朱熹(しゅき)によって再構築された儒教の新しい学問体系)を基本としながらも諸学を取り入れる柔軟な態度があり、初代学主であった三宅石庵は「鵺(ぬえ)学問」と批判されるほど雑学的傾向を持つ人物であり、そのため初期の懐徳堂は諸学の折衷傾向が強かったと言われています。

最初に、私がなぜ仲基の名前を覚えていたかと申しますと、仏教徒なら誰もが知る「教相判釈」(きょうそうはんじゃく)が関係しています。
ちなみに「教相判釈」(きょうそうはんじゃく)とは、「中国をはじめとする漢訳仏典圏において、仏教の経典を、その相(内容)によって、高低、浅深を判定し、解釈したもの。略して教判ともいう。」(以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)とあります。

簡単に説明すると、仏教の長い歴史の中でインドから中国に膨大な仏教経典が流入します。仏教に、「八万四千の法門あり」と言われるくらい大量に入った経典に、中国人の僧侶は頭を悩まします。
経典には、「如是我聞」(この様に私は聞いた)と書いてありますから、全て釈尊(ゴータマ・ブッダ)がお説きになったものであると認識するのですが、その内容の多様さと量に困惑するのです。

果たして、「どれが真実の釈尊の教えなのか?」という疑問と、経典の内容が種々異なるのは「釈尊が教えを説いた時期や場所・内容が異なるため」と考え、教えを説いた時期を分類しその中でどれが最高の教えであるかという、ひとつの判定方法として各宗派によりさまざまな教相判釈が行われたという経緯があります。

桐山靖雄が、特に強調して述べていたのは天台大師智顗(ちぎ・中国の南北朝時代から隋にかけての僧侶)が天台宗の教学で立てた五時八教(ごじはっきょう)の教判で、彼(桐山)は「五時教判」(ごじきょうはん)と改称し自説に取り込みました。

ちなみに五時八教とは、「天台宗においては,釈尊一代の説法の次第を五時をもって定め,その説法の深浅 (化儀〈けぎ〉の四教) と教法の深浅 (化法の四教) の八教をもって分別した。「五時」とは,華厳(けごん)時─『華厳経』を説いた時期,鹿苑(ろくおん)時─『阿含経典』を説いた時期,方等 (ほうどう) 時─『維摩経』『勝鬘経』などを説いた時期,般若(はんにゃ)時─『般若経典』を説いた時期,法華・涅槃(ほっけねはん)時─『法華経』『涅槃経』を説いた時期である。

「化儀の四教」とは,頓教,漸教,秘密教,不定 (ふじょう) 教である。「化法の四教」とは,三蔵教,通教,別教,円教である。円教においては,あらゆるものが互いにとけあって完全に具足していると説かれ,『法華経』の円教が最もすぐれているとする。」(以上、「ブリタニカ国際大百科事典小項目事典の解説」から引用)とあり、後の参考になりますので記しておきます。


*法津如来のコメント

本日2回目の更新です。昨日、石法如来から新しい寄稿を頂きました。全8回のシリーズになるそうです。楽しみにして下さい。



「無分別智(その10)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その10。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[木石ではない]

無分別智は、自分のこころを木石のように頑なにして、何事にも影響されないようにすることではありません。 

無分別智は、この世で一番柔和なこころであると(知る人は)知るからです。 

最も柔和にして、しかも揺るぎなき最強のこころ。 

それが無分別智であると、(知る人は)知るからです。



*法津如来のコメント

無分別智は人の心を最も柔和にして、しかも揺るぎなき最強にするのです。

そして、最も柔和にして、しかも揺るぎない心から無分別智は生まれるのです。


昨日は、お彼岸の中日でしたから、お墓まいりをしました。我が家の墓は都心から離れた埼玉県秩父市にあります。

桜も咲き始めていましたが、草むらにスミレが咲いていました。

旅路きてなにやらゆかしすみれ草   芭蕉



「無分別智(その9)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その9。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[そのままでよかったのではない]

無分別智は、それを知る前と後で実は何も変わらず、そのままの自分でよかったのだということを(見解として)認知することではありません。 

なぜなら、無分別智を生じたとき、その前と後では明らかに自分が変わったことをはっきりと知るからです。 

しかしながら、それは自分に何かが付け加わったということではありません。 

量的にも、質的にも、何も変わっていないことを知るのですが、しかも何かが変わったのだと自ら知るのです。 

そして、それは勿論、そのままの自分でよかったのだということを(見解として)認知するに生まれて初めて至ったという意味で自分が変わったということではありません。 

無分別智は、それを知ることによって、それを知ったということの内容とは無関係な大いなる変革を自分自身にもたらすものであることを(知る人は)否応なく知るということなのです。


*法津如来のコメント

無分別智が言葉の形をとって顕れ出たとき、その言葉を「法の句」と言われます。

法の句を聞いた時、それが法に句だとわかった人は、解脱します。

その人は、「それを知る前と後で実は何も変わらず、そのままの自分でよかったのだということを(見解として)認知することではありません。」

解脱した人は、その前と後では明らかに自分が変わったことをはっきりと知るのです。

つまり、「無分別智は、それを知ることによって、それを知ったということの内容とは無関係な大いなる変革を自分自身にもたらすものであることを(知る人は)否応なく知る」ことになるのです。


「無分別智(その8)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その8。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[自然体ではない]

無分別智は、俗に言う自然体から出てくるものでもありません。 

自然体という意味が、いろいろと考え抜いた結果や諸々の経験を踏まえ、その最後のところは自然に任せるという深い意味であったとしても、そこから無分別智がでてくることは無いのです。 

無分別智は、正しい熱望の結果として顕れ出るものであると(知る人は)知るからです。


*法津如来のコメント

「無分別智は、俗に言う自然体から出てくるものでもありません。」という表現で言いたいことは、

「無分別智は、正しい熱望の結果として顕れ出るものである」ということであります。

無分別智には、何も作為しないこと、何も考えないようなイメージがありますが、
そうではなくて、それが顕れでる根底には、正しい熱望があるのです。

ここで、正しい熱望というのは熱意とは異なるものでるので、正しい熱望と言っているのです。

「熱望」についての詳しい解説は、SRKWブッダの理法「熱望」を参照して下さい。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou025.htm

参考のために、その最初の部分だけを以下に引用しておきます。

「熱望とは、法(ダルマ)を探し求める熱き心のことを言う。それは、覚りを得たいという直なる望みではなく、ブッダにまみえその声を聞きたいという願望でもない。熱望とは、自らがあらゆる手立てを講じて得ることができた仏教的知見や仏教的経験のその先に、それらを含め人が思念できるところのあらゆるものすべてを超越する本当の法(ダルマ)があるであろうことを信じ、その本当の法(ダルマ)を知りたいと願う熱き心を言うのである。人は、それを達成したとき、それまで自らがあらゆる手立てを講じて得たと思い込んでいた仏教的知見や仏教的経験などが、法(ダルマ)でも何でもない虚妄であったと気づくことになる。」


石法如来の特別寄稿「経典に習う。」

以前記事にも書きましたが、仏教思想に触れる人は稀です。・・・更に、経典を学ぼうとする人は少数派で有り、極めようとする人は皆無に等しいくらい少ない。それが現実です。
私自身も、この世界に70年ほど生きておりますが、仏教思想を学ぼうとしている人にすらお目にかかったことはありません。
 
仏教の思想は難しいと言われますが、私の場合はほとんど独学です。ただ、最初に出会ったのが釈尊直説の教えに最も近いと言われる阿含経であったために、大乗仏教の経典に比べより現実的な問題をテーマとして、言葉も平易で慣れれば理解しやすい教えでありました。
 
その様な経緯から、仏教思想の骨幹を成すのは原始仏典(阿含経)であり、それをある程度学べば仏教において必要な教養は身につくものと考え勉強を始めたのですが、確かにそれはそれで間違いの無いことですが、こと「覚り」に関して言うなら原始仏典も大乗経典も差がありませんから、自分にとって因縁のある経典を学べば良いです。
 
仏教思想を学ぶ上で、阿含宗の桐山靖雄氏の著書や法話あるいは仏教研究者(大学の教授等)の資料・著書などを参考に学びましたが、最初の頃はまるで「ちんぷんかんぷん」でした。
それでも自分自身、過去に射撃や空手などの競技等を通じて学んだ「継続した練習(学び)による成果」に自信があり、たゆまず勉強を継続し得たことは間違いありません
 
ここで言う、継続した練習とは経典の学びに例えると「絶えず経典に接する(読む)」ということになります。最初から、意味が分かるとか分からないとかはまるで関係ありません。SRKWブッダが著書で言われているように、「分かった気になる」のでは無く、「分かる気になって」最初はとにかく接する(読む)ということが大事です。
 
経典を学ぶ上で大事なことは、「自分が学ぶ」と言うより「経典から教えて頂く」という姿勢です。そこにあるのは、自分自身は全く不完全な存在で有り、世の中のことは何も分かってはいないのだという程の謙虚な姿勢です。そこに、「経典から学ぶ」意義が生まれてきます。それで、表題を「経典に習う」としました。
 
私の場合は、釈尊(ゴータマ・ブッダ)に因縁があったので釈尊に関する伝記を何度も読みました。何度も繰り返し読んでいると、当時の情景が目に浮かぶようになります。特に私の好きな経典は、釈尊の生涯最後の旅を記した『ブッダ最後の旅』(大パリニッバーナ経)です。私自身が、最終的に覚りを得るとき、その経典に記された教えと深い因縁があったのは偶然とは思えません。
 
最初は、全く理解出来ない状態から始めて数年(2~3年)したら、少しずつ経典の文字になじんで参ります。・・・振り返れば、その頃から勉強法が少し変わりました。
経典の一節を読み・記憶し、何度も何日もその一節を繰り返し繰り返し、自分の頭の中で思考と自問を繰り返します。・・・それを根気よく行っているうちに、頭の中で(指が)「パチン」と弾けるのです。とっさに閃きが起きて、「それはそういう事を言っていたのか」とうなずき理解を深める。・・・その様なことを、飽きずに繰り返します。
 
その閃きの感覚が好きで、何年も続けていましたがそれでも仏教思想の肝心な部分(いわゆる法(ダルマ))については、ピンと来るものがありませんでした。
自分自身、「こんなに勉強したのに肝心なことが分からない」と自己嫌悪に陥り、「もう駄目かな」と半分以上諦めていた時に、本棚に置いてあった『阿含経典』の現代語訳(増谷文雄訳)に目が行きました。
 
それは、勉強を始めた頃に購入した書籍で、当時はまだ読み解く力がなく本棚に眠ったままだったのです。それを読むうち以前は読み解けなかった内容がすらすらと理解され、渇いた砂に水が染みていくように法(ダルマ)が、「ストンと」(腑に落ちた)のです。・・・その時の気持ちは、言葉では表現出来ません。
 
それは、何度も何度も過去に目にしていた言葉でした。それを長い時間目にしていても、その言葉の重要性に全く気が付かない(気が付けない)のです。・・・後付けで、気が付いたのちに法(ダルマ)とはその様なものであると気が付いたという訳です。自分自身の努力の積み重ねで掴み取らないと、本当のところは決して身につかない(知り得ない)という良い例であると言えます。
 
経典の学びを諦めてはいけません。いつ、「肝心なことに気が付くか」など誰にも分かるはずがないからです。・・・謙虚に、「経典に習う」気持ちで学んでいるなら、いつの日にか求めている問いに解答を得ることが出来るはずです。


*法津如来のコメント

今回の投稿は、さっぱりわからないという方にも参考になるもので、このブログの流れに乗るもので、シンクロニシティを感じました。ありがとうございます。


「無分別智(その7)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その7。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[これ見よがしな行為を生じない]

無分別智は、これ見よがしな行為を生じることはありません。 

それは、愛する人を援助するとき、これ見よがしなことは一切しないことに似ています。



*法津如来のコメント

「これ見よがし」とは「得意になって人に見せびらかしたり当てつけがましくしたりするさま」ですが、
無分別智から行われる行為には、そのようなことはないということです。

分別智で行われる行為には、そのようなことがあります。その行為をする方は気づかないかもしれませんが、他の人にはそのように見えることがあるのです。つまり偉そうに見えるのです。

話は変わりますが、最近私のブログを読んでくださっているある知人から、「最近のブログはさっぱりわからない」と言われました。

確かに、「無分別智」の説明だからわからないだろうと思います。

無分別智は仏の智慧で、人間の知恵は分別智です。ですから、人間にはわからないのです。

しかし、何とかわかってもらおうとします。

そのために、否定形の形で説明するのです。

そうではない、そうではないと説明するのです。

そのものズバリは言葉で説明できないのです。

唯一、法の句が発せられたとき、それが法の句だと認識した方がそのものズバリを理解するのです。

最後に、昨日石法如来から「経典に習う。」というテーマの特別寄稿を頂きましたので、次の記事として掲載することをお知らせします。これはさっぱりわからない方の参考になります。



「無分別智(その6)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その6。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[自由奔放ではない]

無分別智は、自分だけが煩いから脱れ、自分だけが自由奔放に生きていくということを後押しするものではありません。 

無分別智は、独りよがりな独断専行の動機とはなり得ないのです。 

無分別智は、善き行為のみを生むものであると(知る人は)知るからです。



*法津如来のコメント

「無分別智は、善き行為のみを生むものであると(知る人は)知るからです。」

このことを示す文章を、法捗如来のブログ(うやまい うやまう)から引用します。

(以下引用)
ちから

もしも、しあわせに「ちから」があるとしたら、

地球の裏側で泣いているきみの、

その涙の一粒を、たった一粒を、

止めること。

仏のしあわせは、人の器を大きくするようなことではなくて。

器の大きさは、そのままで。

仏になると、その器から溢れだして、枯れることがなくなる。

枯れることがないから、いくらだって、

だれが、いつ、受け取ってもらって、

貰い続けてもらって構わない。

しあわせ。

そのしあわせは、地球の裏側で泣いている子の悲しみ、その涙の粒、そのどうしようもない悲しみ苦しみを、いつも、そばに置いて、どうするか?とわたしの事にして、その子の涙が止まることを、身近に見つけること。

例えば、

気づくことの無かった そら を見つけたしあわせ

気づくことの無かった 花 を見つけたしあわせ

気づくことの無かった 鳥の声 を見つけたしあわせ

気づくことの無かった 虫の声 を見つけたしあわせ

身近にいくらでも しあわせを 見つけられる

わたしが しあわせに 気づくこと

わたしが しあわせを見つける、
あの子の涙を一粒、止める

そう信じてるというだけじゃない

そう、意識を通じて教えてくれる

わたしが いま しあわせに気づく

そこにおいて だれかの かなしみが ひとつ 止まる

「だれひとり かなしませないこと」

その声が、それを知る

おのれを信じた ちから は、そういう ちから

しあわせの ちから

いますぐ あなたに しあわせに なってほしい

泣き続けている きみの 

きみを しあわせにしたい

そういう ちから

(かなしみの本当のところ それを知る ちから)

(以上引用)


「無分別智(その5)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その4。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[何も考えないことではない]

無分別智とは、何も考えないから得られるというものではありません。 

しかしながら、無分別智は、何も考えないで出てきた智であるのは確かです。 

それにもかかわらず、あらゆる分別や哲学的見解よりもすぐれているという不可思議な智のことです。 

無分別智がどのようにすぐれているのかと言うと、一切後悔しない行為を生むという意味ですぐれているのです。 

また、その無分別智以外のものはそれよりも必ず劣るという意味ですぐれているのです。 

すなわち、無分別智によって行為するとき、行為している本人も喜ばしく、行為の対象となった相手も喜ばしく、それを目撃した人々(ギャラリー)も喜ばしく、その行為の顛末を聞き及んだ現在の人々、またそれを聞き及んだ未来の人々においても喜ばしい結果を生じるのです。 

無分別智とは、そのようなものであり、何も考えないで行うやりっ放しの行為の動機ではありません。



*法津如来のコメント

「無分別智とは、何も考えないから得られるというものではありません。しかしながら、無分別智は、何も考えないで出てきた智であるのは確かです。」ということは、具体的な例を挙げて考えてみましょう。

例えばダンマパダ6偈では、「『われらは、ここにあって死ぬはずのものである。』と覚悟をしょう。___このことわりを他の人々は知ってはいない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。」と述べています。

争いがあった時、「われらは、ここにあって死ぬはずのものである。」と覚悟をしようと言っているのです。
そうすると争いが止むのです。この覚悟は無分別智によって現れるのです。決して、考えて出てきた智ではないのです。

この覚悟ができた時、ダンマパダ5偈に述べられた真理が得られるのです。

「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。
怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。」


「無分別智(その4)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その3。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[気づきではない]

無分別智は、気づくことで得られるものではありません。 

かといって、何ものかに気づかされた結果得られるものでもありません。 

無分別智は、正しく気をつけることによってもたらされるものですが、気づきでも、気づかされでも無いのです。 

強いて言えば、無分別智とは、気づきということとは無関係にすべてが明らかになるということなのです。 

無分別智が気づきとは無関係である証拠に、無分別智を顕現した本人さえも自らが為したそのことに気づかないことがほとんどです。(善知識)



*法津如来のコメント

「無分別智は、気づくことで得られるものではありません。」という証拠は、法の句を発する本人も自分も法の句を述べているとは気づいていないのです。

法の句の場合には、発した本人ではなく、それを聞いた人がそれが法の句(無分別智)だと気づくのです。

無分別智は気づきではないということは確かですが、「無分別智は、気づくことで得られるものではありません。」とう表現は微妙です。

「無分別智は、実は二つあります。」と紹介しましたが、法の句の場合には、気づくことによって得られるということがあります。



「無分別智(その3)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その3。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[ひらめきではない]

無分別智は、ひらめきによるものではありません。 

ひらめきによって何かを得た場合には、本人に”ひらめいた”という意識が伴います。 

無分別智には、そのような意識が生じません。 

ですから、無分別智はひらめきではありません。 

無分別智は、ひらめきではない以上、いわゆる頓知ではありません。 

無分別智は、まるで唐突に顕れ出るものですが、付け焼き刃ではないと(知る人は)知るからです。 

このように、無分別智は頓知ではありませんが、頓悟を生じるものです。


*法津如来のコメント

前回、無分別智は「分別から出てくることはない」と述べられていましたから、それはひらめきかなと思った方がおられたと思います。今回はそれが否定されました。

みなさんも過去に何かひらめいたという経験があるでしょう。その時は自分でひらめいたという感覚があったと思います。

しかし、無分別智にはひらめいたという感覚はないのです。

もっと具体的に言えば、法の句(無分別智の言葉としての表れ)を聞いた時、それはひらめいたという感覚ではありません。それは法の句だと認識したのです。

ということで、無分別智はひらめきではないのです。

頓悟については、SRKWブッダのホームページの理法に「頓悟ということ」という項があります。
参考にして下さい。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou189.htm


石法如来の特別寄稿「『独り』この道を歩む。」

なぜ仏道の修行は、独りで行じなければいけないのか?・・・修行者なら誰もがいだく疑問です。
私は、自分自身の過去を振り返り「覚り」に至ることが出来たのは、ひとえに自分自身を信じ独りゆく修行を行じてきたからに他ならない、という思いを強く持ちます。
 
私自身は、28歳から阿含宗という新興宗教団体に所属し仏教を学んで参りましたが、当時教団内部において仏教の経典(特に、阿含経)をしっかり学んでいる人間を見たことがありません。
所属会員が読んでいるのは、教祖(桐山管長)の著書であり、興味があるのは密教の行法ということでした。
 
教団とは、それ程まで教祖の教えに心酔し全てを信じ行動するところです。・・・私の場合は、少し「へそ曲がり」なところがあり心底信じる気持ちにはなれない。むしろ半分は「疑って」かかるという姿勢を持っていました。
後付けですが、教団に所属していたのは仏教を学ぶためには避けられない因縁であったのだと、今は振り返ることが出来ます。
 
35歳の時に、原始仏教経典の継続的な学びにより法(ダルマ)の何たるかを自分なりに体得し、このまま宗門に所属し活動することはむしろ自分自身不徳を積むものであると考え退会の道を選び、事後独り歩む道を選んだという経緯があります。
 
自分自身が考え、思い至った不徳とは「誤っている道」を「正しい道である」と錯覚・誤認し、自分以外の第三者に布教伝道し、教団入会を勧め「誤った道を他者に歩ませる」などの行為一般を指します。
 
教団を退会する頃は、自らの錯覚・誤認とは言え不徳な行為を積み重ねるより「何もしない(無行為)」ほうが良い、ということはすでに理解しておりました。
そうして、誰の束縛も受けることのない「自分なりの修行」の道を歩むことになります。
 
思い起こせば、独りの修行は自由です。何も束縛するものがありません。宗門の教義も、導師の法話も気にすることはありません。ましてや、密教の行法など必要ないのです。
自由に発想し、自分のやりたいように修行を組み立てればよいのですから精神的にとても楽です。
 
そう考えたら、独りの道は「精神的に楽」である・・・というのが一つのポイントであると言えます。特定の宗門に所属するということ自体が束縛であり、のびのびと成長する芽を摘んでいるようなものです。
沢山仲間が居て、切磋琢磨するなら越えられない困難も容易に越えることが出来ると教える人間もおりますが、そもそも仏道修行とは「各自のことがら」であり、集団で「覚り=解脱」を目指す道ではありません。
 
そして何より大切な事は、虚妄なるこの世において真実なるものを見つけることは至難であるという事実です。要するに、「何が正しくて、何が間違っているのか?」という正しい価値判断を持つ、そのこと自体がとても難しいのがこの世というものなのです。
 
師(SRKWブッダ)は、著書などで「顛倒(てんとう)」という言葉を使いますが、その言葉の意味を真に理解・体得するなら「覚り」は近くにあると言えます。
私自身、「覚り」を得たのちこの世を見渡すにつれ「顛倒」や「虚妄」という言葉が世の真実を捉える表現法として、言葉を超える形で日々感じております。
 
以上のことを踏まえ、修行はなぜ「独り歩まねばいけないのか?」と考えたならその最大の理由は、目の前に存在し発せられる教えはほとんどが「正しいものではない」と考えられるからです。
世の高名な宗教指導者と言えど、その教えは決して「正しいものではない」と観て、自分自身で道を切り拓いていく覚悟を持たなくてはいけません。
 
昔、阿含宗に在籍していた時「山登りの喩え」の話を聞いたことがあります。それは決して難しい話ではなく、集団で列を組んで山登りをしていると仮定した場合、先頭を行くリーダーが道を間違えてしまうと、後を付き従っている全ての人間が道を間違え遭難してしまうという話です。
 
「顛倒」・「虚妄」なるこの世において、自らの明知を信じ他者に頼らず「独りの行」に徹し、「サイの角」のようにただひたすら歩む。・・・全て必要なものは、「自分自身の中」に備わっているのです。



*法津如来のコメント

本日、2回目のブログ更新です。

石法如来から新たなテーマで特別寄稿を頂きました。


「無分別智(その2)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その2。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[分別から出てくることはない]

ここで、分別とは、人が生まれてこの方得たあらゆる経験要素や、人類がその長い歴史において集積したあらゆる集合的要素によって導出される人為的な思惟弁別作用のことを指しています。 

分別としての思惟弁別作用には、論理的(分析的)に得られるものもあり、直感的(弁証法的)に得られるものもあり、規範として(経験的)得られるものもあり、挑戦的(実践的)に得られるものもあり、綜合的(科学的、哲学的、法学的、神学的)に得られるものもあります。 

そして、無分別とはそうでないもの、すなわち、あらゆる経験要素とあらゆる集合的要素とを排して得られるそれであるということです。 

それは、将棋や碁における最高の手筋が、定石を超越したところから出てくることに似ています。 

つまり、定石そのままでは、相手にお見通しになってしまいます。 しかし、だからといって定石を離れてしまっては勝ちはありません。 
定石は、そのまま従うものでもなく、それを無視するものでもなく、超越すべきものであるからです。 

このようにして、時として顕れる素晴らしい手筋がいわゆる新譜です。 

ところで、この新譜は、いかなる研究の結果としても得られるものでは無いという点が重要なことです。 

無分別ということは、それに似ています。 

すなわち、無分別智は、いかなる研究やいかなる努力の結果としても出てくるものでは無いのです。 

それどころか、無分別ということは人々(衆生)が正常な頭で、あるいは散乱した頭で思考・思惟・分別・推量・類推・考察・省察・経験・反省・後悔・想像・創造・考案・発案・発明・予想・予見・予知・予感する限りのありとあらゆるものに依存せず、複数の人々の間で行われる相談・討論・合議・合意・啓蒙・啓示・啓発などのありとあらゆるものに依存せず、すなわち人々(衆生)が思いつく限りのありとあらゆるものに依存することなく生じるということなのです。 

分別には、どこかに「うまくやってやろう」とする気持ちが見え隠れしています。 

それが無くなったところに、無分別智はあると知らなければなりません。



*法津如来のコメント

無分別智でやろうとして、そのようにできるものではないということです。

あえていえば、それは因縁によって現れるというものです。

「無分別智(その1)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その1。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[実は二つあります]

無分別智には、実は2つあります。
 
一つは、覚りの境地に至るその直前においてそれが無分別智だと如実に認知されるそれ(根本智)であり、もう一つは、覚りの境地に至った後で、あらゆる行為を無分別に行いつつもそれが完全なる智慧、すなわち無分別智に他ならないことが後付けで認知されるというもの(後得智)です。

これら二つのいずれもが、その出所(ルーツ)に関してはあらゆる分別を超越したところにあるという意味で、同じく無分別智と名づけるのです。 

これは、例えば「愛」という言葉が実は二つの意味に対応しているのに似ています。 

一つは、プロポーズのときに如実に実感しているそれであり、もう一つは、結婚生活においてふと(後付けで)実感されるそれです。 

「愛」や「無分別智」にはそれぞれに二つの意味合いがあるのですから、それぞれに別々の言葉があってもよいのですが、実際には同じ「愛」や「無分別智」という一つの言葉に集約されてしまうのです。 

つまり、その根っこのところは同じである所以です。


*法津如来のコメント

「無分別智」とは、仏教を学び始めると、特に禅仏教を学ぶとよく聞かれる言葉です。
SRKWブッダはそれを50項目で説明しています。
それを、少しづつ紹介します。
少し難しいですが、じっくり読んで下さい。

その前提として、昨日も引用した次の文章を思い出して下さい。

「無分別智とは、智慧(諸仏の智慧)の別称です。智慧は、いかなる分別の結果としても出てくることは無いということを明示するために、このような言い方をすることがあります。また、無分別智が言葉の形をとって顕れ出たとき、その言葉を「法の句」と呼びならわします。」

このブログで度々話題になる「法の句」も無分別智の現われなのです。


「もう一つ、大切なコメント」

昨日のブログ記事で、「実はもう一つ、大切なコメントもあったのですが、今回のテーマと少し離れるので省略させていただきます。」と書きましたが、今日はそのコメントを取り上げます。

hal
2021年03月07日 19:51
ここに 
https://76263383.at.webry.info/201702/article_1.html
これを 貼らせて頂くこと おゆるしくださいませ。

このURLは、SRKWブッダのホーム・ページの「無分別智」の項の引用です。
その内容は一万文字程度の長いものなので、今日はその見出しだけを掲載します。
全体を早く知りたい方はURLの文章を参照して下さい。
明日からは、その内容を分割して掲載する予定です。

【無分別智】
無分別智とは、智慧(諸仏の智慧)の別称です。 智慧は、いかなる分別の結果としても出てくることは無いということを明示するために、このような言い方をすることがあります。 また、無分別智が言葉の形をとって顕れ出たとき、その言葉を「法の句」と呼びならわします。

[実は二つあります]

[分別から出てくることはない]

[ひらめきではない]

[気づきではない]

[何も考えないことではない]

[自由奔放ではない]

[これ見よがしな行為を生じない]

[自然体ではない]

[そのままでよかったのではない]

[木石ではない]

[外的要因では無く、内的要因でも無い]

[意識に拠らず、無意識にも拠らない]

[必然でなく、偶然でもない]

[非合理・合理を超越している]

[善・悪を超越している]

[超越者の啓示ではない]

[信仰ある人からも現出する]

[師は無用]

[努力の結果ではない]

[こだわってはならない]

[醸成された結果ではない]

[悩み苦しんだ末ではない]

[思いやりの気持ちからではない]

[楽天的(悲観的)であるがゆえではない]

[精神集中の結果ではない]

[瞑想の結果ではない]

[自力でも他力でもない]

[知能に依らない]

[経験に依らない]

[男女の区別は無い]

[誓戒]

[命]

[唯一のもの]

[使い回しできない]

[訂正・変更されない]

[歯切れのよさとは無関係]

[清浄ならしめる]

[最悪を最高に]

[二つの壁を破る]

[二つの孤独を破る]

[卑下を生じない]

[慢心を生じない]

[光や音、声などない]

[感謝しない]

[喜ばない]

[軽蔑しない]

[親しくならず、疎遠にもならず]

[主客未分の状況から現れる]

[決心が必要]

[どうしてもいけなければのところから]

[熱望すべきもの]

[補足説明]
無分別智が現れ出る様を指して、金剛般若経では、
● まさに住するところなくして、しかも其の心を生ずべし (応無所住而生其心)
と述べています。


慈栄のメール「むしろ人間になって」記事へのコメント

3月7日の記事「慈栄のメール『むしろ人間になって』に、ここで注目したい二つのコメントがありました。

その一つはhsさんのコメント、以下そのコメント。

力強い言葉。

ブッダが量産されていく...

いい時代だ。

僕も続くぞ。

突き抜けろ。

大気圏。


もう一つは、あさみさんのコメント、以下そのコメント。

生存する如来の皆様のことばに触れることができる時代に生まれた幸せは計り知れません。
如来のことばには静けさと力とやさしさを感じることができます
こういうことなのだな、とわかります。
誠にありがたいことです。
私も続きたいものです。

実はもう一つ、大切なコメントもあったのですが、今回のテーマと少し離れるので省略させていただきます。

さて、私が注目したのは、素直な心と熱望です。

hsさんの「僕も続くぞ。」です。

そして、あさみさんの「私も続きたいものです。」

皆さまも、このような心を持って、気をつけて、邁進してください。



「恕(じょ)すこと」

3月5日のブログで、「恕(じょ)すこと」について言及しました。

恕(じょ)という言葉は、日常あまり使わない言葉です。

私が初めてこの言葉を目にしたのは、高校の漢文の授業です。

論語の中の言葉で次の文章でした。

子貢問うて曰く、「一言にして以って終身之を行うべき者あるか」。
子曰く、「それ恕か。己の欲せざる所人に施すなかれ」。(衛霊公第15)

(口語訳:子貢がたずねた。「たった一言で、一生涯かけて信条にできる言葉がございますか」
先生がいわれた。「それは、恕(思いやり)だね。自分がいやなことは人にしないことだ。」)

もちろん、仏教のダンマパダにも同様の言葉があります。

129 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。已(おの)が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。

130 すべての者は暴力におびえ、すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。已(おの)が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。
この「已(おの)が身にひきくらべて」が、「恕(じょ)すこと」に相当するのです。

SRKWブッダは次の文章で、ある場合には「恕(じょ)すこと」は最上の忍耐であると述べておられます。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou113.htm

「人は自分よりもすぐれていると思う相手の言葉を恕(じょ)すのであり、また人は、相手と争うことを厭ってその相手の言葉を恕(じょ)すのである。

しかしながら、もし人が、自分よりも(明らかに)劣っていると思われる相手の言葉を恕(じょ)すならば、それは『最上の忍耐』と呼ばれる。

そして、そのような『最上の忍耐』を為す人こそが、ついには因縁を生じて一切の争いから解放されるのである。 それがそのように起きたとき、まさしく法(ダルマ)が世に出現したのであると知られることになる。」



慈栄のメール「仏教知識はどんな知識?」

青少年時代の事を思ってみてください。
ある青少年が道を外れて非行に傾いた時、彼の友人は言うでしょう。

「お前らしくないぞ」
「馬鹿なことはやめておけ」
「お前にとってそれが本当に大事な事なんだったら、俺は止めない」
「心配するな、(みんな)待ってるぞ」
・・・

さて、これらの言葉は果たして知識と言えるでしょうか?

ブッダ(我らの善き友)の言葉も実はこのようであると知られます。

ブッダの教えを行ずるとはどういうことなのか?
自己に打ち勝つとはどういうことなのか?
私はどうしたらよいのか?

皆様、聡い耳によって、言葉の真意を聴き分けて、自らの道を見出してください。

慈栄



*法津如来のコメント

昨日も慈栄如来から皆さまへの上記のメールを頂きました。


慈栄のメール「むしろ人間になって」

余計な執著が滅び、人への不信が無くなり、他への慈があって、私はむしろ、人間になれたんじゃないかと思うことがあります。

仏やブッダ、如来と聞いて、ある人々は超越的な存在を思い浮かべて、それに執心する。
そのような人にとっては、仏教組織を離れ、自ら解脱したと称する人々が訝しく思われることもあると思う。

場合によっては、血の滲む努力によって種々の神通や法力、目に見えない力や超常的な智慧を備えて人々を救済するのが仏の類と思われるかもしれない。

しかしながら、人は一人ずつ解脱して、一人ずつ安らけく境地に至り住する。

超常的な事は何一つ無い。

ただ、解脱する前は、自らの本心を、自らに執心することで真っ直ぐに発露出来ないだけで。

人は、やさしく在れない自身を、責め立てたり、悪いのは自分と思いこんだり、逆にある程度自分本位なのは仕方ないと諦めたり、また憂悩して、本当の道に目覚めない。

私は仏(字義的にはその通りなのであろうけれど)になったと言うよりも、ただ、憂い無い人になったと言うだけです。

私は偉くなったわけではありませんし、自分ならざる何かになったわけでもありません。ただ、その時、執著の根が浮草のようになって流されて行った。そういう事なのです。

追って言っておくべきことは、かつては私も、深く病み、憂い、悩み、苦しんだ、一人の人間でありました。
その時私は、自身が癒えて治る事を願っていたし、そしてそれにも増して、自身よりも苦しむ人々の事を、思っていたのもまた事実です。

多く人は皆、病める菩薩であります。(稀に病んでいない菩薩も居るようですが、その話は今は置いておきます。)

(苦悩から)解脱していない理由はあっても、(苦悩から)解脱できない道理はありません。


どうぞ皆さま、肩の力を抜いて、今一度、自身の修めた道がなんであるのか、仏道とはなんであるのか、仏の教えとは何であるのか、そしてこれらはなんのためにあるのかについて、向き合ってみて下さい。

きっと、道が開ける事と思います。



*法津如来のコメント

昨日、慈栄如来より皆さまへの上記のメールを頂きました。


石法如来の特別寄稿「真実はどこに?(その9)・・・見えるものと見えないもの。」

アメリカ大統領選挙を主題材に、この世の虚妄について考え色々書いて参りました。書き進めた動機は(その1)で少し触れたように、私自身毎日虚妄なるものを見(観)て、非常に分かりやすい日常の展開(事象)は、修行の参考になるであろうと考えたからです。

分かりやすく理解しやすい事象であるが故に、「それを、そうである」とたしかに認識・認知する力を持つ(あるいは、持っている)ならば、仏道の修行にもすんなり入っていけるでしょう。
反面、何の疑問・問題意識を持たずに時の流れに身を任せて生きるなら、仏道の修行どころか自分自身の人生に意味を見いだすのも難しいと言えます。

そもそも虚妄とは、「事実でないこと。うそいつわり。」(goo辞典から引用)とあります。自分の生きている世界の中に、果たして真実はあるのか?・・・その様な疑問が、ふと頭の中に生じることが大切なのです。もしかしたら、大部分の人間(衆生)は日常が当たり前すぎて、その様な疑問すら抱くことが無いかも知れません。

人生という、貴重な時間を過ごす中で起きていることの大半が、もし「虚妄」の連続であるなら、自分自身の人生とは「嘘で塗り固められた人生」であったという結論に至り、後で振り返り自分自身の人生を後悔することは火を見るよりも明らかです。

何より、仏道修行において覚りにいたる基本的な心構えは、「覚りは、虚妄ならざるものである。」という強い信念と自覚があるかと言うことです。覚りそのものを疑っているようでは、覚りに到達することなどあり得ません。
また、それを論ずる前に自分自身の生活の中で「虚妄である・虚妄では無い」と、しっかり判断出来る明知を備えていなければ話にはなりません。

特に、人々(衆生)の生活に大きな影響を及ぼすマスメディアの報道の姿勢が、人々の意識形成に非常に大きなウェイトを持っています。
彼らが、情報をしっかり調査・判断・精査し人々に正しい情報を報道しなければ、「全てが間違って」しまいます。こんな、当たり前のことが果たして実際に行われているのか?そこに疑問を持たなければいけないのです。

因みにマスメディアとは、「「マス=大衆」に対して情報伝達をする「メディア=媒体」のこと。 具体的には、新聞・雑誌・テレビ・ラジオなどの媒体を指す。」(「広告用語辞典」を参考)とあり、大衆に対する情報伝達の責任を負っています。

情報伝達の責任とは、どこまでも正しい情報の伝達でなくては意味がありません。今回の一連の記事を書くうえで、知人などと話をして実感したのは「間違った情報を、いくら数多く集めても真実には到達しない」という真理です。

マスメディアが正しい報道を出来るかどうかは、ジャーナリスト(新聞記者、報道記者)の力によるところが大きいのですが、そこには正しい情報伝達を担っている人間としての使命感・倫理観が求められます。

私の場合、あまりテレビは見ず新聞もしっかりとは読まない方ですが、特にテレビでは大勢意見に対して反対・批判(所謂、異論)を述べるコメンテーターが少なくなり、大勢の流れを迎合・加速させるような意見を述べる存在ばかりが目につきます。・・・多分、その様な人のみを選び考えの多様性を阻止するよう仕組んでいるのでしょう。

人は、多様な意見の中から自分の意見に近い考えを選び取るのが普通ですが、今は多様な考えが無く既に決まっている(決められている)情報を素直?に受け入れるだけの状況で、「自分の頭で整理し考える」という大事な部分が置き去りにされているように見(観)えます。

知人たちと会話をしても、新聞記事に書いている・テレビで報道されている通りの情報しか、その人たちの口から発せられません。なぜか?私の近くには、多様な意見を発する人は(ほとんど)見当たりません。

画一的で視野が狭いこの世の中で、自ら勉強し「世の中は、実際どうなっているのか?」という探究心を持ち、何か一つ物事を極めてやろうという気概を持つ人間に出会うことは稀です。

仏道修行にからめて考えると、自分以外の他人の意見を聞いて修行をしているようでは先が知れています。間違っても良いから、信念を持って自分自身の道を進まなければいけません。

修行で、いくら失敗しても無駄になることなど一つもありません。自分の頭で考え、自分の頭で進むべき道を選んでいく。
試行錯誤の中に、今まで見えなかったものが微かに見えてくる。今まで聞こえなかった声が、微かに聞こえてくる。そうなれば、修行も楽しく行じることが出来るようになります。

※「真実はどこに?」は、(その9)で終了します。


*法津如来のコメント

本日2回目のブログ更新です。
今回も石法如来から特別寄稿を頂きました。ありがとうございます。
今回で、「真実はどこに?」のシリーズは終わるとのことですが、
また新たな内容での寄稿を期待いたします。

「慈栄如来からのメール」

昨日、慈栄如来からメールを頂きました。心の静まる文章ですので、ご本人の許可により引用させて頂きます。

(以下引用)

今朝はコメントを引用してくださっていましたね^^
それについて、少しコメントをつけようと思ったのですが、直接ブログに書き込むのではなく、メールにしておこうと思いました。最近は、解脱以前の事についてアレコレ思案することも無くなり、問われれば答える程度、機会がある時には話す程度に思っているのですが、解脱知見を得た直後に書いたコメントが再浮上したので、少し思い出しました。

私は、それが起きるまでは、”速やかに”という意味を全く分かっていなかった。子どものころから数えれば、道の歩みは三十年を経過したが、それが起こる時は、速やかに境地が進む。

私は、以前には、何処かブッダに対して反発心のようなものがあった。その言葉の素晴らしさは認めざるを得なかったが、どこか、自分の方が偉いと思いたがっていた。しかしいざ、その時が到来したときに、信が速やかに確立し、ブッダの言葉に従って行い、しかもそこにとどまらなかった。

それは譬えば、体躯で勝る力自慢が、武道の達人に挑んでコテンパンにのされてしまい、道門に降るようなものでした。そして、そこにとどまらないとは、いつか必ず勝つのだと、それは師(ブッダ)に勝つのではなく、誰がために、自らに勝つのだと誓って、仏弟子であることの次を目指したと言う事です。

今は解脱したことにすらこだわることもありません。
大団円を見つつ、不吉に思う事も無く、穏やかに日常を過ごしています。過ぎ去ったところには、生起するところがない。青空を流れる雲に、待ってくれと声をかけることも無い。
そして、日々の会話の中に、或いは世に流布する歌の中にも、様々にこころ安まる言葉、こころ楽しい言葉、を見出すことが出来ます。これからも、良い出会いがある事でしょう。

最近のお気に入りの言葉があります。それは、

「(妄愛という)母と(われありという慢心である)父とをほろぼし、(永久にそんざいするという見解と滅びてなくなるという見解という)二人の武家の王をほろぼし、(主観的機管と客観的対象とをあわせて十二の領域である)国土と(喜び貪りという)従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。」

です。ダンマパダより。
静けさを目指した聖者・ブッダの言葉だと思います。特に、二人の武家の王のくだりは素晴らしいと思います。

慈栄

(以上引用)

また追伸として、日本のインディーズフォークソングのリスト(動画)を紹介して頂きましたので、読者の皆様にもお知らせします。これらも心の静まる歌でした。
https://www.youtube.com/watch?v=Doa-QlSAvLg


「聞いて心の静まる言葉」

昨日の引用したダンマパダの偈では、「聞いて心の静まる有益な語句を一つ聞くほうがすぐれている。」という言葉が語られていました。最近では2月22日のブログ慈栄ブッダの言葉はそのような語句でした。
https://76263383.at.webry.info/202102/article_24.html

(以下引用)

速やかに

覚りの境地には速やかに至る。
修行者それぞれに、求道者それぞれに、因縁に導かれた道が存在するでしょう。
その道は、速やかにあなたをその境地へと運びます。
その時、頑なさはやわらぎ、直ぐなる心をもって、その人は一大事決心を起こすでしょう。

全ては速やかに進む。悩みの炎は過ぎ去る。その人は渡り終えた。

ブッダの言葉はまことであった。
師の言葉は成し遂げられた。

慈栄

(以上引用)


慈栄ブッダは、以前は「ノブ」という名前でコメントをしてくれた方ですが、彼に初めて会った時のことを次のように書きました。(2019年12月17日)
https://76263383.at.webry.info/201912/article_17.html

(以下引用)

話は変わります。昨日はこのブログに時々コメントしてくれるノブさんに会いました。彼は東京の人ではありませんが、西荻窪に行ってみたい喫茶店があるということで、そこへ連れっていってくれました。

お互いに初対面でしたから、自己紹介をしながら、仏教以外の話もいろいろ楽しく話しました。私が印象に残った彼の言葉としては、彼は25歳くらいの時に、SRKWブッダをネットで知ったそうですが、SRKWブッダが「やさしさ」ということを強調していたことに興味を持ったということです。

また、彼のホームページで「覚りの境地」(http://srkw-buddha.main.jp)にある理法「恕(じょ)すこと」
http://srkw-buddha.main.jp/rihou113.htm)を知って、彼は本物だろうと思ったと言うことでした。

ノブさんは、その中の次の言葉を覚えていました。

「人は自分よりもすぐれていると思う相手の言葉を恕(じょ)すのであり、また人は、相手と争うことを厭ってその相手の言葉を恕(じょ)すのである。
しかしながら、もし人が、自分よりも(明らかに)劣っていると思われる相手の言葉を恕(じょ)すならば、それは『最上の忍耐』と呼ばれる。」

(以上引用)


「ダンマパダ100偈、101偈、103偈」

今回は久しぶりにダンマパダの偈を引用します。

100 無益な語句を千たびかたるよりも、聞いて心の静まる有益な語句を一つ聞くほうがすぐれている。

101 無益な語句よりなる詩が千あっても、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。

102 無益な語句よりなる詩を百もとなえるよりも、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。

(中村元訳「真理の言葉・感興のことば」より引用)


*法津如来のコメント

世の中には、無益な情報が溢れています。それらの情報を聞いたり、読んだりして、心を乱すよりは、心の静まる有益な言葉を一つ聞くほうがすぐれています。

心の静まる有益な言葉のなかでも、最高・最上のものが「法の句」なのです。

なぜならば、その言葉を聞くことによって人は縁によって、解脱するものだからです。


石法如来の特別寄稿「真実はどこに?(その8)・・・国家の行く末と明治維新」

先に紹介した、ヤフーニュース「アメリカ人だからこそ言いたい、この大統領選挙には納得できない」(2021.2.14・現代ビジネス)に、アメリカの最近の世論調査によるとドナルド・トランプ氏の支持者の75%、バイデン支持者の35%がJ・バイデン氏が大統領選挙に勝利したことを信じていないという結果が出ているようです。
                         
大統領に就任したバイデン氏は、数週間で大統領令を連発トランプ前大統領の政策を全否定し、困惑している多くの州や国民に反感を持たれているようです。
 
国民の支持・信任を受けていない人物が、大統領に就任し果たしてうまく国をまとめ政治を遂行して行けるのか?、という疑問が生じます。
アメリカには、伝統的に銃の所持が許可されていますが、聞くところによると政府が国民のための政治を怠ったならば、みんなで銃を持ち政権打倒に動く権利がある、とのことです。
 
日本人からするとかなり過激な話ですが、アメリカの開拓者精神そして自由と平和と民主主義を守ろうとする国民には、それくらい強硬な態度に出なければ「何も変わらない・変えられない」という強い意思を持っているのだと見ることができます。
 
少し話は変わりますが、私は今回の一連の出来事を目の当たりにして、過去日本で起きた「幕末」をイメージしました。・・・幕末と言えば、西郷隆盛や坂本龍馬・桂小五郎などの偉人の活躍により新しい時代の夜明けが来たと、ある種の美談として語り継がれ歴史の教科書にも記載されています。
 
私はその当時の出来事を、歴史探偵と言われた故半藤一利氏の著書を読んだところ、「幕末の志士達の活動は、ほとんどテロであった」と書かれていたのを見て少し驚いたことがあります。要は、謀略と暴力による政権(徳川幕府)転覆劇だったというのです。
 
先の記事(その3)で、DS(ディープステート)について少し書きましたが、幕末の混乱期に日本でもDSは暗躍しておりました。かれらの手口は、幕府側・薩長側にそれぞれ資金を貸し付ける、あるいは武器類(大半は、南北戦争の払い下げ品)を供与し、どちらが勝利しても儲かるように仕組んでいたというのです。
 
結局、薩長倒幕側が王政復古の大号令により味方勢力を拡大し、徳川幕府を武力で倒し勝利するのですが、のちに「勝てば官軍」という言葉が世に出てきます。たとえどの様な(汚い)手を使おうと、「勝ってしまえばこちらのもの」ということで、国民はその辺の事情をよく理解していたのです。
 
明治維新後大日本帝国が成立しますが、まず最初に起こったのは幕末期に活躍した武士同士の仲間割れによる内戦です。結局内戦は、政府軍の圧倒的な勝利で終わりますが国家権力を握った大久保利通や伊藤博文も、やがて暗殺により表舞台から姿を消します。
 
大日本帝国は、富国強兵のかけ声の下軍備に力を注ぎ国力を増強させますが、国は平和になるどころか日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・第二次世界大戦と大きな戦争が続きます。それらの戦争を遂行するため、多くの国民は兵役に取られ命を失うことになります。
 
江戸末期(幕末)、ペリー来航が嘉永6年(1853年)で倒幕のごたごたが15年ほど続き、明治元年(1868年)に明治政府(大日本帝国)が成立しましたが、結果として第二次世界大戦でアメリカ・イギリス・フランスなど連合国の軍事力の前に、昭和20年(1945年)の8月15日大日本帝国は滅亡に至ります。
 
何を言いたいかと申しますと、謀略・暴力を用いて成立した政権は、やがてそれ(謀略や暴力)により倒される(崩壊させられる)因縁にあると言うことです。・・・策略と詐欺により成立した、アメリカ民主党のバイデン政権はどの様な道を歩むのでしょうか。
仏教的には、「悪しき因縁を自ら作り、悪しき因縁により自ら滅ぶ」と表現出来るものです。その間、彼らの因縁に巻き込まれた多くの国民は、長い時間苦しみを強いられることになります。
 
「勝てば官軍」の言葉にあるように、いくらでも歴史は書き換える事が出来るでしょうが、民衆の口や真実は決して書き換えることが出来ません。何より、自分自身の良心が許しません。
アメリカでは、バイデンの居住するホワイトハウスのあるワシントンDCには、未だに州兵が厳重に警護しているようです。胸を張り、民衆と相対することが怖いのでしょうか。
 
前述した明治維新の話のように、このまま進めばアメリカの混乱は益々深まり、その混乱は全世界に波及していくものと想像出来ます。・・・平和が維持され、戦争の無い世界を望みたいものです。
平和で、豊かな生活環境があればこそ私達は安心して仏道修行を行じることが出来るのです。



*法津如来のコメント

石法如来の投稿には、今まで知らされてきた情報と異なるものが多いのですが、これらの記事をきっかけに、真実はどこに?を御自分で調べて下さい。いろいろな発見があるはずです。


「友人からの質問と回答」

ある友人から次のようなメールが来ました。(公開は本人の許可済み)

(以下引用)
おはようございます。質問させていただきます。
父親が厳しい半面、母親に甘やかされて過保護に育つと「してもらって当然」という傲慢な『自己の特別性』という根拠のない自信が潜在意識に浸透した行動をとるようです!
知り合いから相談されて『これは自分にも当てはまる』と感じました!
根拠のない自己信頼はある面で、「不器用な人には」在家世界で生きていく上で楯になると感じています!
しかし『特別だと他人を扱う傲慢さ』は矛となり自分自身をやがて破壊する行為や縁を産みます!
なぜ、父親は厳しく、母親に甘やかされ過保護に育てられると特別性のエゴが強まり傲慢になるのでしょうか?
それを消すのは行為を自覚して繰り返し、繰り返し慈悲の瞑想と感謝内観を行い『脳の歪みを修正する』修業とある程度の時間が必要だと感じていますが?
(以上引用)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(私の返信)
ご質問にお答えすることに、いささか戸惑います。
私の返事があなたを怒らせることになるかも知れないからです。
ですから、いろいろな考え方があるのだなというつもりで寛容の心で読んでください。

あなたはある現象に対して、ある見解を持って、私に質問しているのです。
しかし、私はその現象に対してそのような見解を持っていないのです。

私は「だれでもエゴが強く傲慢である」と考えています。
ただいろいろな因縁でそれに強弱があるという程度の問題なのです。

なぜ「父親は厳しく、母親に甘やかされ過保護に育てられると特別性のエゴが強まり傲慢になる」というようなことだと思いたがるのでしょうか?

自分は特別だと思うことでエゴが強化し、傲慢の元になるのです。
ですから、そのように思わない方がよいのです。

それよりは、次のような「省察」を行うべきです。
2020年11月5日のブログに「仏道の真実++」から引用したものです。
https://76263383.at.webry.info/202011/article_6.html


【省察】

 自分ではない他人の過ちをどんなに正確に把握したとしても、それによって覚りを生じることはない。その一方で、他ならぬ自分自身の過ちを把捉したならば、それは覚りの重要な機縁ともなる。その具体的な方法が、省察である。修行者が理法に適ったあり得べき省察を為し遂げたとき、安らぎに至る確かな道を見い出すであろう。そして、ある場合には、それだけによっても一つの解脱が起こることがある。

 以下に、しあわせの境地を求める人が行うべき省察について述べたい。

 このあり得べき省察は、自分の過去の行為を思い出すことから始まる。もちろん、いろいろなことがらを思い出すであろう。その中で、とくに印象深く心に残っている行為の経緯と顛末、およびその帰趨を思い出す必要がある。そうして、その行為を為した時点に思いを馳せて、そのとき自分が何者であったかについて省察するのである。

 この省察が能く行われたとき、修行者は自分の根本的な過ちを発見するに違いない。同時に、真に為すべきことが思い当たるであろう。もちろん、過去に戻ってやり直すことはできない。そこで、その思い当たったことを今後の行動の道標として心に定め、二度と同じ過ちを犯さないように決意することになるであろう。

 賢明な修行者は、このようにして見出した道標が如来が説いた理法そのものであることに気づくかも知れない。もしそれが起これば、そのかつて説かれた理法は彼において一つの完成を見たことになる。この時点で、彼はすでに単なる修行者ではなくなっている。彼は功徳を積んだ立派な修行者であり、すでにニルヴァーナの近くにある。

 さて、省察していると次のようなことに思い至るであろう。

 ○ 自分は、あのときどうしてあんなことをしてしまったのだろう
 ○ 自分は、あのときどうすればよかったのだろう
 ○ あのとき、相手はどんな気持ちだったろう
 ○ あのときは良かれと思ってあのように為したが、結果は悲惨だった
 ○ あのとき、あの人はどうしてそこまで自分に対して為してくれたのだろう

 ここで注意すべきことは、省察は何か心の決着を着けるために行うものではないということである。また、省察は何かの答えを見出すために行うものでもない。省察は、ただ「そのとき自分が何者であったか」を知るために行うものであることを忘れてはならない。

 ところで、なぜ省察は過去のできごとについて行わなければならないのだろう。現在について省察してはいけないのだろうか。その理由は、現在における自分の根底の心は現在において知ることができない性質のものだからである。そこで、過去について省察を行い、そのときの自分の根底の心を明らかにしようとするわけである。

 大事なことは、省察によって自分の本心を知ることである。


「相談依頼人との対談、その後」

相談依頼人と対談したのは2月24日でした。その二日後2月26日に彼から次のようなメールを頂きました。(この内容を公開することは本人の許可を得ています。)

・・・・・・

「心境の変化があったのでご報告致します。

今まで自分が必死に追い求めていたものが実は追い求める必要がないものであると気付きました。

幸福も不幸もワンセットであり幸福を求めればもれなく不幸もついてくる表裏一体であるということです。

私が遊んでいたのは人生という名のゲームです。

それに勝とうとするから勝ったり負けたりを繰り返していました。ゲームなのだから常勝は有り得ません。

ゲーム(人生)に負けたくなければ参加しなければ良い。それから降りる若しくは、自分がそれそのものになる。全てを内奥しているのが本当の自分ではないかという気付きです。

思えば人生も幸も不幸も自分の心の中にしかありません。

禅ではそれを見せてみろと言われますが確かに見せることはできません。

やはり全ては心の中にある概念であり幻であったということです。

今まではこのゲームに参加しているのが自分だと思いこんでいましたが、これこそがエゴの正体だったと思います。

そしてその全てを内奥しているものが本当の自分だと分かりました。

文章にしてしまうとこれも概念になってしまいますが、常にエゴのゲームに参加していなかと気付き続けることが「今」に生きることだと思います。

幸も不幸も超越し「それ」そのものになる。私が「それ」であるということです。

ありがとうございます。」

・・・・・

いろいろ話した結果、心境の変化があったということは、私にとっては嬉しいことです。

まだ遍歴修行が必要があるかも知れませんが、一大事の因縁によって覚りが起こるということが心に定まれば、後は善知識(善友)からの法の句を聞いて解脱するのみです。

それが、明日かも知れませんし、1年後かも知れませんし、10年後かも知れません。その時期はあまり大きな問題ではありません。しかし、できれば死ぬ前に解脱することが望まれます。