「無分別智(その32)」

SRKWブッダのホームページの理法「無分別智」」の引用、その32。
http://srkw-buddha.main.jp/rihou029.htm


[命]

無分別智は、自然科学的にいう生命および生命活動、また仏教的にいう命(いのち)ということを直接の原因とせずに生じるものであると言えるでしょう。 

無分別智は、そのわずかな部分さえそれらに依拠して生じたとは考えられないと(知る人は)知るからです。 無分別智の清浄さという観点から見れば、それらは濁りを生む以外の何ものでもないと理解されるに至るからです。(法華経にいう五濁) 

つまり、無分別智は、少なくともその瞬間には命にもとづくこと無しに顕れ出るものであるからです。 

しかしながらその一方で、無分別智は命ということを通して(命という関わりの中で)顕れ出るものであることは間違いないことです。 

ですから、無分別智は、命のありさまを最初から最後まで否定するものではありませんが、それだけにこだわって命を超えたもの(作られざるもの,繰り返されないもの)を求めないならばついに無分別智を知ることはできないでしょう。
*法津如来のコメント

今回のテーマを次の問いで考えてみましょう。

自然治癒力は、無分別智に基づくものであるかどうか?

自然治癒力とは、生命自身の障害(傷や病気)を自分自身で治す力です。

これなしにはどんな薬も医学的な治療も生命は自分自身を治すことができないのです。

例えば、傷をしたとき、薬は傷の修復を妨害する細菌を防ぐことはできても、皮膚や筋肉、血管の修復はできないのです。これらはその生命の持つ自然治癒力によって修復されるのです。

手術をして問題の部分を取り去っても、その後手術による傷を自然治癒力で修復するのです。

多くの体の問題は、ほっておいても自然治癒力で解決します。

それらは、誠に見事のものです。

では、自然治癒力は無分別智に基づくものであると言えるでしょうか?

答えは否と言わざるをえません。

何故ならば、万能と思われる自然治癒力も死を止めることができないからです。

しかし、無分別智は死を克服します。


この記事へのコメント

才木広之
2021年04月11日 08:06
死を克服する事は容易いです。

誰でも最後は死に、その時受け入れたら、死を克服したという事です。

生きてる間にいろいろあろうが、最後の最後、克服出来るなら、生きてる間のいろいろは問題になりません。

「生きてる間、いろいろあっても大丈夫。最後は自分は死を受け入れられるから」

と、このように生きてる間も最後の安心によって生きてる不安は消えます。
才木広之
2021年04月11日 08:12
しかし、

その経験がないなら

その人は不安です。

誰がどう言って聞かせてあげようが

輪廻の不安は消えません

死んだ経験がないからです。

死んだ経験がニルヴァーナです

ニルヴァーナの経験がある人は

最後の最後の安心があります。

死を受け入れられる、

経験があるからです。
才木広之
2021年04月11日 08:19
「輪廻が」

と浮かぶ人には、輪廻があります。

「輪廻が」

と未来を考えてる時点で輪廻なんです。

だから

「輪廻が、ある」

「輪廻が、ない」

このどちらの人も輪廻します。

「輪廻が」

と考えてる時点で、未来を考えてるから輪廻なんです。

「輪廻が」

と考えなくてもいい人

それは、死を受け入れた事がある人

即ちニルヴァーナの経験がある人なんです