石法如来の特別寄稿「歴史の闇・・・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)(その2)」

王政復古(おうせいふっこ)とはどの様なものかと申しますと、「共和制や武家支配などによって支配の座を追われていた君主制が再び旧体制を復活させることを指す。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用)とあり、日本においては朝廷側が(江戸)幕府側から政治の支配権を奪還したと言うことになります。

日本の歴史から考えると、長い間天皇を中心に国家が運営されて来ましたが、武士階級の登場により持っていた政治権力(政権)を奪われていたのですが、明治維新により本来の政治体制に戻す動きが活発化します。

明治維新後に近代国家を建設するにあたり、古来からあった神道的実践を行わせることにより、国民・国家を統治する手段として神道を利用したものと言えます。

その際に、邪魔になったのが神道と混じり合い共存していた仏教の存在です。新政府は、「神と仏を切り分けよ(神仏分離令」という法令を出し、仏像や仏具などを排斥し僧侶に還俗を迫り、葬式の神葬祭への切り替えを命じたのです。

明治新政府は神道の国教化政策を行うため、明治元年(1868年)3月に王政復古による祭政一致(さいせいいっち)の立場から、古代以来の神仏習合(しんぶつしゅうごう)を禁じて神道を国教とする方針を打ち出しました。これが、「神仏分離令」と言われるものです。

問題は、新政府が考えて法令を出した「神と仏の分離」によって起こりえる出来事が、そのレベルで終わらなかったと言うことです。時の為政者(特に、当時の地方藩主)や、市民の中から神仏分離の方針を拡大解釈する者が現れ、仏教に関連する施設や長年続けていた慣習などを悉く破壊する者たちが現れたのです。

特段に廃仏毀釈が激しい地域があり、その地域における背景・目的・やり方はそれぞれに異なりますが、寺院と僧侶が完全に消えてしまった場所もある位酷かったようです。

廃仏運動が激しかった地域を見渡せば、寺院の数が異様に少なかったり首を刎ねられた地蔵が路傍に転がっていたりします。ある意味それは、文化財と歴史の破壊でもあった訳です。

例えば、有名な国宝に「無著・世親菩薩立像」がありますが、明治初期「無著・世親像」はゴミ同然の扱いで興福寺の中金堂の隅に乱暴に捨て置かれていたのです。また、奈良などの古刹で、天平時代の古仏も含む多くの仏像が焚き火の薪(たきぎ)にされてしまったなどの事案が数多くあり、廃仏毀釈時多くの寺宝が売却され国内外に散逸してしまいました。

廃仏毀釈により、日本の寺院は少なくても半減し多くの仏像が消えてしまいました。哲学者の梅原猛氏は、「廃仏毀釈がなければ国宝の数は、ゆうに三倍はあっただろう」と指摘しています。 また、廃仏毀釈により多くの国の財産が奪われただけでは無く、日本人の心も壊したのだと言われます。何百年間にも亘って、仏餉(ぶつしょう・仏前に供える米飯)を供え続け手を合わせ続けて来た仏に対し、あるときを境に日本人は厳しい鉄槌を下したのです。

僧侶自らが率先し、神職への転職を申し出て本尊をたたき割った事例も見られたそうで、日本人の信仰とは一体何だったのか?と、疑問を呈するようなことが実際に起きたようです。

なぜ、信仰が憎悪に転じたのか?・・・それは、いつの時代も「熱狂に飲み込まれやすい」日本人特有の国民性に因るのかも知れません。冷静さを失い行動すると言うことは、大きな代償では済まない傷跡を未来に残すことになると言う見本のような話です。

仏と神の切り分けは、1868年(慶応四年)3月以降、明治新政府による法令の布告という形で実施され、それは同年10月まで続けられました。(前述した、「神仏分離令」)

神仏分離令は、太政官(だじょうかん)布告によって始まったのですが、その内容は「これからの日本は、古代に政治上の君主と宗教上の司祭者とが同一であったような祭政一致体制を目指す」ということでした。
そして、神祇官を復活させ各神社や神職らは神祇官のもとに置きます。つまり、神社は宗教の枠組みから外され、国家機関として機能させていく方針が定められた。・・・「神は国家なり」ということです。

※神祇官(じんぎかん)とは、「古代の日本の律令制で設けられた朝廷の祭祀を司る官庁名」を指します。


*法津如来のコメント

本日、2回目のブログ更新です。

廃仏毀釈の意味がわかってきます。


この記事へのコメント

才木広之
2021年04月18日 16:17
読み応えがある。

わくわくする。

ドラマのようだ。